銭 能訓(せん のうくん)は清末民初の政治家。北京政府において国務総理に就任した。幹丞

銭能訓
Qian Nengxun.jpg
プロフィール
出生: 1870年同治9年)
死去: 1924年民国13年)6月5日
中華民国の旗 中華民国北京市
出身地: 清の旗 浙江省嘉興府嘉善県
職業: 政治家
各種表記
繁体字 錢能訓
簡体字 钱能训
拼音 Qián Néngxùn
和名表記: せん のうくん
発音転記: チエン ノンシュン
ラテン字 Ch'ien Neng-hsün
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事跡編集

1898年光緒24年)、戊戌科第二甲第18位進士となる。以後、中央・各地方で職歴を重ね、1903年(光緒29年)、監察御丞に昇進した。1904年(光緒30年)より巡警部尚書兼民政部尚書徐世昌の属僚となる。1907年(光緒33年)に徐が東三省総督になると、銭能訓もこれに従って東三省に赴任した。

1910年(宣統2年)、軍機大臣となった徐の推薦により、銭は陝西布政使となる。さらに護理陝西巡撫(護理とは、下位の者が上位の職務を代行すること)となった。辛亥革命が陝西省でも勃発すると、銭はこれを鎮圧できず、革命派に捕虜とされた。その際に、銭は拳銃自殺を図って果たせず、北京へ逃亡した。

中華民国でも、銭能訓は、徐世昌との関係から袁世凱に重用された。1913年民国2年)10月、熊希齢内閣の内務部次長に就任する。1914年(民国3年)4月、蒙古・西蔵・青海三省区の約法会議議員に選出された。同年5月、国務卿兼礼制館総裁に就任した徐を補佐する形で、政事堂右丞兼礼制館副総裁に就任した。1915年(民国4年)10月、署理平政院院長兼文官高等懲戒委員会委員長(翌年4月、正式に平政院院長に就任)に任命された。

1917年(民国6年)12月、王士珍内閣で銭能訓は内務総長に任命された。1918年(民国7年)2月、王が辞任すると、3日間だけではあるが代理国務総理をつとめた。その後、3月の段祺瑞内閣でも内務総長に再任される。10月、徐世昌が大総統に任命されると、銭は再び代理国務総理となる。12月、正式に国務総理(翌年1月、内務総長を兼任)に任命された。

しかし銭能訓は、安徽派直隷派間の対立により、独自の指導力を発揮することは出来なかった。最後は五四運動発生の責任をとらされる形で、就任からわずか半年後の1919年(民国8年)6月に国務総理を罷免された。その後、蘇浙太湖水利工程督弁、外交部顧問を歴任している。

1924年(民国13年)6月5日、北京で病没。享年55。

参考文献編集

   中華民国北京政府
先代:
湯化竜
内務総長
1917年12月 - 1919年6月
次代:
于宝軒
先代:
段祺瑞
国務総理
1918年10月 - 1919年6月
(1918年12月まで代理)
次代:
龔心湛