長谷部甚弥

幕末から明治にかけての幕臣・漢学者

長谷部 甚弥(はせべ じんや、1807年 - 1883年1月18日)は、幕末から明治にかけての幕臣・漢学者。名は満連、通称は初め亥十郎、のち甚弥と改めた。旅翁・謙菴と号し、甲府徽典館学頭・静岡学問所教授等を務めた[1][2][3]

門人に伊庭八郎目賀田種太郎等がある。

経歴 編集

文化4年、御徒組長谷部甚十郎の子として江戸下谷御徒町に生まれる。文政4年、井上頤堂(熊蔵、古賀精里の門人)に入門して漢学を学ぶ。嘉永4年、永井尚志と並んで甲府徽典館学頭となる[1]。同5年江戸に帰り、安政2年には学問所教授方出役を命じられる。慶応4年には御儒者となるが、幕府瓦解により静岡に移り、静岡学問所の三等教授となった。明治2年には二等教授に進む。また同4年には小鹿村に私塾・三余堂義塾を開いた。明治16年1月18日76歳にて歿し、本覚寺(静岡市駿河区池田)に葬られた。

脚注 編集

参考文献 編集

  • 成瀬哲生「関西大学所蔵『徽典館学頭交替名前』について 上」『山梨大学教育人間科学部紀要』第10巻、2009年3月、231-236頁、doi:10.34429/00001519 
  • 成瀬哲生「関西大学所蔵『徽典館学頭交替名前』について 下」『山梨大学教育人間科学部紀要』第10巻、2009年3月、237-243頁、doi:10.34429/00001520 
  • 樋口雄彦『静岡学問所』静岡新聞社、2010年8月。ISBN 978-4-7838-0361-4