阿倍 広人(あべ の ひろひと、生没年不詳)は、奈良時代貴族朝臣官位従五位下越中守

経歴 編集

孝謙朝末の天平宝字2年(758年従六位下の時に南海道問民苦使に任ぜられた。この人事は、広人が参議阿倍沙弥麻呂の近親者であったためと推定されている。この頃には右京大進も務めている。

淳仁朝の天平宝字3年(759年)12月には正六位上越前介の官位にあり、翌天平宝字5年(761年)正月に従五位下叙爵し、越中守に任官した。また同年の班田の際に、広人が寺田口分田とを混同して相替えて百姓に給したことが、天平神護3年(767年)の民部省符に記されている[1]

官歴 編集

注記のないものは『続日本紀』による。

脚注 編集

  1. ^ 天平神護3年2月11日付民部省符『大日本古文書』5巻645頁
  2. ^ 『大日本古文書』15巻131頁
  3. ^ 「東大寺開田越前国足羽郡糞置村地図奥書」『大日本古文書』4巻393頁

参考文献 編集