カバネ(姓、可婆根、骨、尸)は、古代日本のヤマト王権において、治天下大王(天皇)から有力な氏族に与えられた、王権との関係・地位を示す称号である。

概要編集

カバネは古代日本の人名の氏(ウヂ)名の下に付され、氏の体裁・性格を示す称号である[1]。古代日本の人名について語られる際には姓・氏姓・姓字といった用語はしばしば多義的な意味合いを含み、文脈・論者によって異なる意味合いで使用される場合があるが、本項では人名から個人名を除いた部分を(ショウ/セイ)とし、姓に続けて書かれる「臣」「連」あるいは「朝臣」「宿禰」と言った称号をカバネ、姓からカバネやその他の族字を除いたウヂ(氏)の名前を示す部位を氏名と表記する[注釈 1]。具体的に以下のような人名のうち、カバネにあたるのは太字の部分である。

  • 物部
  • 蘇我馬子
  • 藤原朝臣道長
  • 朝臣家康(徳川家康)

古くから、カバネは氏の格を表す尊号であり序列を表すものとしても解されているが、元来はそうした序列を示す機能はなかったとも言われ、カバネがいつ頃、どのような理由で誕生したのかは厳密にはわかっていない。通説的には氏(ウヂ)の確立と共に6世紀半ば頃までには成立していたとされ、天皇(大王)から氏に、あるいは個人とその家族の単位に賜姓されるものであった。代表的な古代のカバネには(オミ)、(キミ)、(ムラジ)、(アタヒ)、(ミヤツコ)、(オビト)などがある。

684年(天武13年)に八色の姓(やくさのかばね)が制定され、上位から順に真人(マヒト)・朝臣(アソミ)・宿禰(スクネ)・忌寸(イミキ)・道師(ミチノシ)・臣(オミ)・連(ムラジ)・稲置(イナギ)の8種に整理された。これらは奈良時代から平安時代にかけて上位の冠位を得ることができる氏と下級の氏を分けるものとして扱われ、上位のカバネを求めて改正が繰り返された。最終的には朝臣・宿禰以外はほとんど賜姓の対象とならなくなり、また平安時代後期頃までに藤原氏に代表される特定氏族が上位の冠位を占有するようになるとともに実質的な意味合いを失っていった。しかし、カバネ自体はその後も命脈を保ち明治時代初期まで存続した。明治維新後、日本人の人名に関する規定が整理される中で、1871年(明治4年)の姓尸不称令によって公文書においてカバネ(尸)を表記しないことが定められた。

起源編集

カバネの発祥の経緯は明確ではない。通説的には6世紀なかば頃までのある時期に制度として確立し、当初はヤマト王権の朝廷で政治的地位を有していた氏(ウヂ)に対し、地位・職掌に基づき与えられた称号であるとされる[注釈 2]。カバネを冠する氏(ウヂ)の起源もまた明確ではないが、『日本書紀』『古事記』(記紀)において中臣大伴などの氏名が人名に関されて記述されるようになるのは概ね応神朝以降である[4]。外国史料では確実に氏の名であろうと思われる記載が現れるのは『隋書』(7世紀成立)であり、『日本書紀』に引用されている百済系史料(『百済三書』)では欽明朝(6世紀)頃を境に日本人(倭人)の人名表記に氏名と見られるものが表記されるようになっている[5]。また、年代・読解ともに確実ではないが、考古学的史料では隅田八幡神社人物画像鏡に登場する「開中費直」が「河内直」であるとする見解があり、同鏡に記載されている癸未年という年号が503年であるとすれば[注釈 3]6世紀初頭には河内というウヂが存在し、直(アタヒ)というカバネが使用されていたと見ることができる。これらのことから、概ね欽明朝(6世紀)までには氏(ウヂ)とカバネが成立していたであろうと考えられる[7]

古代日本の史料に登場し地名や部名で呼ばれる氏(ウヂ)は原始社会に普遍的に見られる氏族とは大きく異なるものであった。氏は日本の古代国家における政治的集団であり、その氏が冠するカバネはヤマト王権と諸氏の政治的関係の表現であった[8]。ヤマト王権・日本の古代国家の内部構造について厳密なことは不明であるが、恐らく天皇(大王)にある種の精神的権威を持たせて結合の中心とし、緩やかな連合体を構築した大和地方(奈良県周辺)の諸豪族と、各職業を分掌する伴造(トモノミヤツコ)で構成されていたと考えられる[9]。ヤマト王権による日本列島の統合が進み王権が強化されると共に、これらの諸豪族に一定の地位が与えられてそれが継承されるようになり、カバネが付与されて政治的組織として確立されていくようになっていったと見られる[9]。カバネと判断できる称号がヤマト王権から諸氏へ与えられるようになった時期ははっきりとはわからない。『先代旧事本紀』などの文献では垂仁天皇(第11代)ころから朝廷による付与が行われていたという記載があるが、こうした古文献の記述をそのまま史実とすることはできない[10]

カバネという言葉の語源もまた、明確にはわかっていない。「アガメナ(崇名)」「カハラネ」「カブネ(株根)」「カハホネ」「カバネナ」「カボネ」「カラホネ」などといった言葉から派生したとも、朝鮮語で「族」の意味を持つ「骨」字を日本語読みにしたものとも言われる[9]。しかし、カバネという用語が「蘇我臣」「物部連」「河内直」などのように氏名の下に書かれる(オミ)、(ムラジ)、(キミ)といった称号を指すものであったことは確実である[11]。左に挙げたような代表的なカバネは大化の改新(7世紀半ば)以前から存在したと考えられるものである[12]。各カバネの起源も同じく明らかではない。より古い時代には酋長・部族の長たちが、多くの場合は地名に尊称を付して呼ばれており、これらが後のカバネの原型であったとも考えられている(原始的カバネ)[11]。このような尊称にはヒコ(彦)、ヒメ(媛)、キミ(君)、タケル(梟師)、トベ(戸畔)、ネコ(根子)、ミミ(耳)、タマ(玉)、ヌシ(主)、モリ(守)、ツミ(積)などがある[11]。これらのうちのいくつかは『三国志』「魏書」東夷伝倭人条(魏志倭人伝)に対応すると見られるものがあり、極めて古い時代から使用されていたことがわかる[11][注釈 4]。「魏志倭人伝」に見られるこれらの「原始的カバネ」が「官」の名前であり、かつ地名に彦や媛を追加した古代の人名と関係が深いと考えられることから、これらの原始的カバネは元来、尊称というだけではなく官職とも関係の深いものであったとも想定される[13]

古代のカバネ編集

古代のカバネは(オミ)、(キミ)、(ワケ)、(ムラジ)、(アタヒ)、(ミヤツコ)、(オビト)、国造(クニノミヤツコ)、県主(アガタヌシ)など、およそ30種弱が知られている[10]。氏(ウヂ)に対してどのようなカバネが与えられるかは概ね祖先の出自もしくは官職によって決まったものと言われている[10]。祖先の出自によるカバネの代表例として皇別氏族に多い「臣」、神別氏族に多い「連」があり、官職によるものには「国造」「県主」「稲置(イナギ)」「史(フヒト)」「画師(エシ)」、あるいは「(何々)人」と言ったものがあるとされる[14]。このような観点は近代歴史学のものではあるが、阿部武彦によれば既に大化の改新の頃にはそのような認識が存在したらしく、古代の詔勅の中には「基の王の名をかりて伴造(トモノミヤツコ)となし、祖の名によりて臣連となす」というものがある[14]。前者は王権に奉仕する名代子代のような集団が「造」のカバネを称していたことを、後者は有力な氏が祖先の出自に基づいて「臣」「連」を称していたということを意味すると考えられ、7世紀の人々がカバネについてこのような認識を持っていたことを示す[14]

しかし、これらのカバネが初めて登場するのはより古い時代であり、7世紀の記憶が史実を伝えていると見ることはできない。各カバネを有する氏族に見られる特徴から、カバネは古代の部民制の発達と密接な関わりを持って発展したもの見られ、「臣」「君」「連」「造」「直」などのカバネは与えられた基準が比較的はっきりしている[15]。以下、通説的理解とされる阿部武彦のまとめに従って代表的なカバネについて列挙する。

オミ
「臣」と表記される。畿内地方を中心に、地名を名とする氏(蘇我臣小野臣出雲臣吉備臣など)に多く見られ、その多くは地方的な豪族に由来を持つものと見られる。蘇我臣、和珥臣阿倍臣春日臣葛城臣など、古代において天皇の后妃を出した氏が多く、その数は他のカバネを圧倒している。これらのことから、古くは天皇(大王)と共にヤマト政権を連合的に形成した諸豪族を中心に臣姓が与えられたものと見られる。オミという言葉の意味は不明であるが、何らかの尊敬の意味を持った言葉であろうと言われている。「臣」という漢字が用いられた理由も不明である[16]
キミ
「君」「公」と表記される。いずれもキミと読むが「君」「公」は必ずしも同一のカバネではなかったと見られ、「公」字をあてるものは継体天皇の一族、および継体以降の皇別氏族に与えられている。上毛野氏下毛野氏関東)、綾氏四国)、のように遠隔地の半自立的な豪族が目立ち、関東九州北陸国造に君姓のものが多かったこともこの傾向を明らかにしている。筑紫君、火君のように、君姓氏族は臣姓氏族と同じく地名を氏の名とするものが多いのも特徴である。他に大三輪氏のような祭祀的な伝統を持つ氏族も君姓を名乗っており、「キミ」のカバネは概ね、継体以降に分かれた新しい皇別氏族、遠隔地の半自立的氏族、伝統的な地祇系氏族の三者に与えられたものと見られる[16]
ムラジ
「連」と表記される。この漢字表記の由来は不明瞭であるが[注釈 5]、ムラジという名称は元来「群主(ムレアルジ、あるいはムラウシ)」の意で、伴部の首長を表したものと見られる。後代では「祖の名によって」与えられたカバネとされるものの、中臣連物部連大伴連土師連掃部連のように職掌を氏名とするものが多く、元来は中臣部、物部、土師部などの部民の長として天皇(大王)に奉仕していた人々のカバネであったと考えられる。時と共に職掌外の任務も担うようになりその中から有力氏族として台頭する氏も現れた[20]
ミヤツコ
「造」と表記される。宮ツ子、あるいは奴(ヤッコ)から来ているとも尊称であるとも言われる[注釈 6]。造姓を持つ氏族はほとんどが職業部、名代子代の伴造であり、基本的に伴部の首長のカバネであったと考えられる。同じく伴部の首長のカバネであったと見られる「連」との違いは明確にはわからない。「非常に大ざっぱ」(阿部)な区分としては、山部、海部、土師部などに典型的に見られるように地方に居住し現地で部民を統括していた長が「造」であり、この現地の長を中央で従える広義の伴造が「連」であったかもしれない(山部に対する山部連、海部に対する阿曇連など)。また、山部などと同じく地方に居住し長を持つが、中央の豪族ではなく官司に隷属しており、貢納よりも中央への上番を中心とする部民、例えば馬飼部、鍛冶部、史部、蔵部なども「造」姓のものが多い。このタイプの氏は基本的に渡来人(帰化人)であり、このため「造」のカバネは渡来系氏族に数多く見られる。この二つのタイプの伴部(品部)は前者の方がより古く、「連」によって統率される伴部は基本的に前者のものであり、より新しい後者の伴部の長には「造」しか存在しなかったと見られる。「造」「連」のカバネがこのように画一的に把握できることは、これらのカバネがある時期に(複数回)制定的に定められたことを示す[23]
アタヒ
「直」と表記される。「費」「費直」と書くこともあり、アタエとも読む。語源については、アタは「貴」、エは「兄」を意味するとも、朝鮮語で上長の意味とも言われる。「直」字が使用された理由は不明瞭であるが「番人」の意味であり、地方の長官としての役割を示すとも考えられる。国造のカバネに良く見られるが、全ての国造が直姓であったわけではなく、主に近畿吉備出雲以外の中国地方四国東海道関東南部に直姓の国造が広がっていた。関東北部や九州の国造には君姓のものが多く、吉備と出雲の国造は臣姓である。ヤマト王権は征服された地方豪族を完全に滅ぼすことは少なく、概ね国造として地位を認め支配したと見られ、そうした地方豪族に「直」のカバネが与えられていったものと見られる。
オビト
「首」と表記される。首姓氏族には大きく3類型がある。1つは伴部(山部首、海部首、忌部首など)で、例外はあるが地方に居住して現地の部民を統括する地方有力者である。2つ目は渡来人(帰化人)系氏族(西文首、馬飼首、韓鍛冶首など)で、官僚的な職位によるものと見られ職掌名を氏の名とする。3つ目は屯倉(ミヤケ)の管理者、県主稲置であり、地名を氏の名とする(例えば大戸村の屯倉の管轄者が大戸首、志紀県主が志紀首とされるなど)。「首」姓氏族全体に共通して地方村落の首長という性質が見られる[24]

ただし、これらのカバネの記録上の初出は多くの場合7世紀後半以後の史料においてであり、7世紀前半以前の状況を史料から跡付けることには困難が伴い、上記のような通説的理解によって古代のカバネの実態が完全に解明されているわけではない。

例えば「造」というカバネの存在を史料から辿ることができるのは「馬養造」「神功部造」が670年に登場するのが最古の確例であり、「連」姓の確例は藤原宮出土木簡522号にある「井於連」(684年)が最古である[22]。「連」の用例のより古い記録は『日本書紀』巻19(欽明紀)引用の『百済本記』に「物部至々連」「津守連」とあるが、恐らく7世紀末の表記と見られ[22]、恐らくは法隆寺の幡銘にある「山辺名嶋弖古連公」が現存最古の用例と見られ664までは遡り得るという[22]。このような問題から、例えば「連」「造」といったカバネが実際に7世紀前半以前に実在した確証は乏しいとも指摘される[25]。山尾久幸は伴造設置の年代を『日本書紀』から復元することはほとんど不可能なこと[26]、『日本書紀』において「百官」の「群臣」がほとんどの場合「臣連等」と「伴造等」に二分されていること[27]、「連」姓の氏に「尾張連」「狭井連」「手嶋連」など地名を氏名とする氏族が存在することや[注釈 7]、『日本書紀』巻6(垂仁紀)に「土部連」から「土部臣」への改姓記事があることなどを指摘し、「臣」「連」や「造」といったカバネ差異は本質的には出自の差異(皇別の「臣」、神別の「連」であり、職掌や政治的地位とカバネが直結していたわけではないとしている[29][注釈 8]

八色の姓編集

天武天皇13年(684年)、八色の姓(やくさのかばね)の制定が行われた。これは「『氏姓』変革の歴史に於いて画期的な事件として注目されている[30]。」(阿部)この時の詔では旧来の諸氏の族姓を改めて、上位から順に真人(マヒト)・朝臣(アソミ[注釈 9])・宿禰(スクネ)・忌寸(イミキ)・道師(ミチノシ)・臣(オミ)・連(ムラジ)・稲置(イナギ)の8種のカバネを与えることが宣告された[30]

この族姓改革の理由、意図については様々に論じられており、大化の改新以来の対氏族政策の最終的な処置として、古い氏姓制度を新しい体制の中に取り込むために行われた、または古い姓に付随した政治的特権を整理し新しい体制を構築するためのものであったなどの見解がある[31]。また、上記のような対氏族政策とは別に、大化の改新以降の政治改革と関係があり、新たに整備された官僚制が、族姓制度の改革をも要求したのではないかという見解もある[32]

いずれにせよ、八色の姓の制定は単独で実施された孤立した政策ではなく、制定の数年前から「造」「値」姓の氏、または個人に次々と「連」姓が与えられていたことが『日本書紀』に記録されている[32]。これもまた、天武朝期における官僚制の強化と関係があるとも考えられ、臣・連・伴造・国造、あるいは品部といった古い政治組織が改変されて律令官へと組み替えられる中で、この変化に合わせてカバネも変更されたと見られる[33]。また、官の位階の昇進について職務精励を評価して昇進させるという規定が存在したことで、旧来「臣」「連」姓を持つ氏に独占されてきた上位の冠位に登る「造」「直」出身者が登場した。この情勢が天武朝期に「造」「直」姓から「連」姓への改姓が繰り返された理由であるかもしれない[34]。実際にはこのような大きな人事制度の変更とそれに伴う急激な昇進は紛争の種であったらしく、天武11年(682年)には人事査定において行状のみならず族姓も勘案して考課することとしし、「族姓が定まらずば考選の色にあらず」とされた[35]

このような中で天武13年(684年)の八色の姓の制定は行われ、翌天武14年には位階制の拡張が行われた[35]。八色の姓で定められた姓のうち、実際に賜姓が行われたのは基本的に真人、宿禰、朝臣、忌寸の4つだけであった[35]。なぜ上位の4姓以外が運用されなかったのかについて記録は残されていない。八色の姓の制定は恐らくは官人の任用・昇進において族姓を考慮することが明確化されたことによって、族姓の等級をはっきりさせる必要が生じたことから、カバネを整理し改めたものと考えられる。また、それと併せて皇親の地位を明確化する意図があったとも言われている[36]。天武朝期に真人姓が与えられた氏のうち、出自がわかっているものは継体天皇の近親またはそれ以後の王裔である[37]

阿部武彦は八色の姓の制定以降、奈良時代を通じて改姓の実例はほとんどが5位以下の低い位階のものであることに注目し、忌寸以上の姓を与えることは小錦(律令制の規定では5位[注釈 10])以上の冠位を得ることができる氏であることを定めるものであったことに重点が置かれており、これより上位の姓を得ることに人事上の意味があったためであるとしている[40]。昇進に一定以上のカバネが必要であったことから官人たちは競って改姓を願い出るようになった[41]。八色の姓が制定された天武朝以降、六国史に記録された改姓は1200件にも及ぶ[41]。この時代の改賜姓は上述のように5位以下の低い位階の官人を中心としており、また個人およびその近親といった小さな単位で行われていることが特徴である[41]。このような事実は、八色の姓制定時点で名門とされた氏には当初から5位以上の冠位に昇進可能なカバネが与えられていたことを予想させ、また賜姓の単位が個人レベルまで細分化していることはカバネの上昇が官人としての活躍と関連していたことを示す[41]

こうして、古代の政治組織の確立と密接に関わっていたカバネは、奈良時代に入ると律令体制の確立と共に整備された官僚制と結びつくことになる。奈良時代を通じて頻繁に行われた改姓は時期によって異なる特徴がある。阿部武彦によれば概ね4期に区分することが出来、それぞれの時代の特徴は以下のようなものである。

  1. 天武天皇から元正天皇時代:八色の姓の制定時、基本的な方針としては遠い皇親に朝臣、神別氏族には宿禰、といったように氏族の出自を重視して上位のカバネが授与された。しかし、この時期はカバネの変更は少なく無姓の官人に臣・連・君・造と言った古いカバネが与えられている。なぜ古い姓の授与が行われいたのかは不明である[42]
  2. 聖武天皇から称徳天皇時代:多数の渡来人(帰化人)にカバネが与えられていることに特徴がある。また、聖武天皇の時代には忌寸・連の賜姓が中心であるのに対し、時代が進むほど宿禰や朝臣など上級のカバネが与えられるようになっていった。渡来人(帰化人)への賜姓は中下層の官人における彼らの重要性の増大によると考えられるが、これによって朝臣・宿禰といったカバネで元来考慮されていた氏族の出自の基準が形骸化し、最終的には完全に失われた。『新撰姓氏録』ではこの世相について序文で『諸蕃にゆるして願にまかせて之を賜ふ。遂に前姓後姓をして文字これに同じく、蕃俗倭俗相疑わしむ」と描写している[43]
  3. 光仁天皇から桓武天皇の時代:カバネ賜与の整理期であり、賜姓件数が減少するとともに諸氏の出自を調査し、石上朝臣を物部朝臣に服するなど、氏名の復古的な動きがみられた。氏名の変更・改姓に祖先の出自を重視するようになっている点において第2期から大きく変化している[44]
  4. 平城天皇以降:仁明天皇の時代頃までに朝臣・宿禰以外のカバネが全く賜姓の対象とならなくなる。これは上級の官が特定の氏族に独占される傾向が強くなっていったことで、冠位の昇進において有力な氏との関係性の方が重要となり、カバネの高低に実質的な意味がなくなっていったことと関係していると考えられる。カバネに比べ氏名の重要性が増したことで、各氏が昇進が見込める(本宗家の)氏名に変更を願い出るケースが目立つようになる(引田朝臣や狛朝臣から阿倍朝臣への変更など)。最終的に上級官職のほとんどが藤原氏に独占されるにに至って賜姓の記録は急速に減少し、光孝天皇代にはわずか8件(全て朝臣)にまで減少する[45]

このように、元々ヤマト王権との政治的関係性の表現として登場したカバネは、天武朝における皇親政治の進展と律令制・官僚制の整備と共に八色の姓という形で再編され、官人たちは人事上の必要性から上位のカバネを競って求めるようになったものと見られる。再編されたカバネは本質的に皇室に奉仕する官僚に天皇から与えられるものであったが、その重要性は官位が特定の氏に独占されていくと共に失われていった。そして最終的に藤原氏が政権を掌握すると共に、カバネの高低はその実質的な意義を喪失した[46]

カバネの変化編集

その後、カバネは、公的な制度としては明治維新の初期まで、命脈を保った。たとえば、徳川家康が「源朝臣家康」、初期の明治政府の公文書では大村益次郎は「藤原朝臣永敏」、大久保利通は「藤原朝臣利通」、大隈重信は「菅原朝臣重信」、山縣有朋は「源朝臣有朋」、伊藤博文は「越智宿禰博文」など、姓(カバネ)と諱(いみな)によって表記することを通例とした[注釈 11]。これらの「朝臣」「宿禰」の真偽はともかくとして、天皇及び朝廷に仕えるために必要不可欠とされた氏・姓が用いられたものである。

明治4年10月12日1871年11月24日)、姓尸不称令(せいしふしょうれい、明治4年太政官布告第534号)が出され、一切の公文書に「姓尸」(姓とカバネ)を表記せず、「苗字實名」のみを使用することが定められた[47]。これに先立ち、明治政府は、明治3年(1870年)の平民苗字許可令(明治3年太政官布告第608号)[48]、明治5年(1872年)の壬申戸籍編纂の二段階によって、「(シ、うじ)=(セイ、本姓)=苗字=名字」の一元化を成し遂げ、旧来の氏・姓を公称することを自ら廃止した。このため、事実上、「藤原」などの旧来の氏、「朝臣」などの姓は、その役割を完全に終えた。この壬申戸籍以後、旧来の姓は、それと一体化していた旧来の氏と共に、法的根拠をもって一本化された「(シ、うじ)=姓(セイ、本姓)=苗字=名字」に完全に取って代わられることとなる。この新たな氏姓制度が日本国民全員に確立されたのは、明治8年(1875年)の平民苗字必称義務令(明治8年太政官布告第22号)[49]によってである。

脚注編集

注釈編集

  1. ^ 古代の氏姓に関連する用語は曖昧さを含み、関連する用語や概念の範囲が研究者によって微妙に異なる場合がある。本項での定義は中村 2009のまとめを参考にしているが、便宜上のものであり、厳密なものではないことに注意。
  2. ^ 今日の通説的理解は基本的に阿倍武彦の研究に基づくものであり[2][3]、本項では阿部の見解を基本としてカバネについてまとめる。
  3. ^ 癸未年は503年の他、383年、443年の可能性もあるが、503年と見るのが通説である[6]
  4. ^ 例えば複数の国に見られる官名「卑狗(ヒコ)」「卑奴母離(ヒナモリ)」や、不弥国にみえる「多模(タマ)」、投馬国に見える「弥弥(ミミ)」等[11]
  5. ^ 山尾は「連」字を用いる理由について連続(豆々企[17])の意味の連を宛てたらしいものとしている[18]。朝鮮において主張を意味する「連」が日本語のムラジと意味的に近かったため、この漢字表記が採用されたとする説もある[19]
  6. ^ 阿倍武彦は「奴」(ヤッコ)、あるいは貴人の尊称とも言われるが明瞭ではないと述べている[21]。山尾幸久は「宮ツ子」から来ており「宮の子」の意味であると解している[22]
  7. ^ これらは通説的には「臣」を帯びるのが自然である[28]
  8. ^ この理解に従えば、「連」を「造」を統括する古い職掌のカバネとする定義とは異なるものとなる。渡来(帰化)氏族は「造」姓のものが多く、全く連姓の氏族が見られないが、カバネが出自と結びついているとするならば、渡来氏族が神別のカバネである「連」を帯びず、基本的に「造」姓である場合が多いのは当然のものと理解できるという[29]
  9. ^ 後に「アソン」、更に「アッソン」とも。
  10. ^ 小錦は大化3年(647年)の七色十三階冠制定の際に設置された冠位。途中変遷を経つつ、天智3年(664年)には(大小)織、(大小)縫、(大小)紫、大錦(上中下)、小錦(上中下)という位階になっていた[38]。小錦下以上がいわゆる上級の官人となる[39]
  11. ^ たとえば、明治4年6月の『職員録・改』(国立公文書館アジア歴史資料センター ref.A09054276400)では、「従三位守大江朝臣孝允木戸」のように、位階・「行」(位階相当より低い官職の場合)または「守」(位階相当より高い官職の場合)・本姓・カバネ・諱に苗字を付記してある。なお、姓尸不称令が出された後の同年12月の『諸官省官員録』(同、ref.A09054276600)では、位階・苗字・実名と簡素化されている。

出典編集

  1. ^ 中村 2009, pp. 6-7
  2. ^ 篠川 2009, p. 27
  3. ^ 山尾 1998, pp. 24-28
  4. ^ 阿部 1960, p. 17
  5. ^ 阿部 1960, pp. 20-21
  6. ^ 阿部 1960, p. 23
  7. ^ 阿部 1960, p. 24
  8. ^ 阿部 1960, p. 1
  9. ^ a b c 阿部 1960, p. 28
  10. ^ a b c 阿部 1960, p. 31
  11. ^ a b c d e 阿部 1960, p. 29
  12. ^ 阿部 1960, p. 16
  13. ^ 阿部 1960, p. 30
  14. ^ a b c 阿部 1960, p. 32
  15. ^ 阿部 1960, p. 52
  16. ^ a b 阿部 1960, p. 37
  17. ^ この語は『日本書紀』巻2に「数多く長く続くこと」を意味する語として現れている。コトバンク参照
  18. ^ 山尾 1998, p. 49
  19. ^ 阿部 1960, p. 39
  20. ^ 阿部 1960, pp. 39-40
  21. ^ 阿部 1960, p. 42
  22. ^ a b c d 山尾 1998, p. 38
  23. ^ 阿部 1960, pp. 42-48
  24. ^ 阿部 1960, pp. 50-51
  25. ^ 山尾 1998, p. 32
  26. ^ 山尾 1998, p. 37
  27. ^ 山尾 1998, p. 35
  28. ^ 山尾 1998, p. 40
  29. ^ a b 山尾 1998, pp. 30-45
  30. ^ a b 阿部 1960, p.65
  31. ^ 阿部 1960, p.66
  32. ^ a b 阿部 1960, p.68
  33. ^ 阿部 1960, p.71
  34. ^ 阿部 1960, p.72-73
  35. ^ a b c 阿部 1960, p.73
  36. ^ 阿部 1960, p.74
  37. ^ 山尾998, p. 17
  38. ^ 虎尾 2021, pp. 6-7
  39. ^ 虎尾 2021, p. 20
  40. ^ 阿部 1960, p.75
  41. ^ a b c d 阿部 1960, p.78
  42. ^ 阿部 1960, p. 80
  43. ^ 阿部 1960, p. 81
  44. ^ 阿部 1960, p. 82
  45. ^ 阿部 1960, p. 84
  46. ^ 阿部 1960, p. 85
  47. ^ 明治4年10月12日(1871年11月24日)、「公用文書ニ姓尸ヲ除キ苗字実名ノミヲ用フ」、国立国会図書館近代デジタルライブラリー。
  48. ^ 明治3年9月19日(1870年10月13日)、「平民苗氏ヲ許ス」、国立国会図書館近代デジタルライブラリー 。
  49. ^ 明治8年(1875年)2月13日、「平民自今必苗字ヲ唱ヘシム」、国立国会図書館近代デジタルライブラリー。

参照文献編集

  • 阿部武彦『氏姓』至文堂、1960年8月。ASIN B000JAP79U
  • 太田亮著『日本上代における社会組織の研究』1921年、溝口睦子「記紀神話解釈の一つのこころみ」『文学』1973年-1974年
  • 篠田賢著「カバネ「連」の成立について」成城大学大学院文学研究科編『日本常民文化紀要 第二十六輯』(成城大学、2006年)
  • 篠川賢『物部氏の研究 【第二版】』雄山閣〈日本古代氏族研究叢書 1〉、2015年9月。ISBN 978-4-639-02375-3
  • 虎尾達哉『古代日本の官僚 天皇に仕えた怠惰な面々』中央公論新社中公新書〉、2021年3月。ISBN 978-4-12-102636-1
  • 中村友一『日本古代の氏姓制』八木書店、2009年5月。ISBN 978-4-8406-2036-9
  • 山尾幸久『カバネの成立と天皇』吉川弘文館、1998年4月。ISBN 978-4-642-02171-5

関連項目編集