安倍 息道(あべ の おきみち)は、奈良時代貴族。氏は阿倍、名は奥道[2]とも記される。官位従四位下但馬守

 
安倍息道
時代 奈良時代
生誕 不明
死没 宝亀5年3月4日774年4月19日
別名 氏:阿倍、名:奥道
官位 従四位下但馬守
主君 淳仁天皇称徳天皇光仁天皇
氏族 安倍氏(阿倍朝臣)→息部氏→安倍氏(阿倍朝臣)
藤原真永[1]
テンプレートを表示

経歴 編集

淳仁朝天平宝字6年(762年従五位下若狭守に叙任され、翌天平宝字7年(763年大和介に転じる。

天平宝字8年(764年)に発生した藤原仲麻呂の乱では、孝謙上皇側に付いて一挙に3階昇進して正五位上に叙せられ、乱後に摂津大夫に栄転する。翌天平神護元年(765年)に乱での功労により勲六等の叙勲を受ける。称徳朝では左衛士督中務大輔を務める傍ら、天平神護2年(766年)には従四位下に昇叙された。しかしその後、何らかの理由により罰せられ、官位剥奪の上で阿倍朝臣から息部(無姓)に改姓させられている。

光仁朝に入ると罪を赦されて、宝亀2年(771年)従四位下・内蔵頭に叙任され、翌宝亀3年(772年)には本姓の阿倍朝臣に復している。宝亀5年(774年)3月4日卒去。最終官位は但馬守従四位下。

大伴旅人の邸宅で詠んだ和歌作品1首が『万葉集』に採録されている[2]

官歴 編集

六国史』に基づく。

脚注 編集

  1. ^ 尊卑分脈
  2. ^ a b 『万葉集』巻8-1642

出典 編集