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革秀寺(かくしゅうじ)は、青森県弘前市にある曹洞宗の寺院。山号は津軽山。本尊は釈迦牟尼仏(釈迦如来)。本堂などは重要文化財に指定されている。

革秀寺
所在地 青森県弘前市藤代1丁目4-1
位置 北緯40度36分45.8秒 東経140度27分0.4秒 / 北緯40.612722度 東経140.450111度 / 40.612722; 140.450111
山号 津軽山
宗旨 曹洞宗
本尊 釈迦如来
創建年 慶長年間(17世紀初頭)
開基 格翁舜逸
津軽信枚
文化財 本堂(国の重要文化財)
津軽為信霊屋(国の重要文化財)
法人番号 9420005004482
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歴史編集

もとは弘前藩津軽為信慶長年間(17世紀初)、現在の藤崎町に創建したもので、為信が帰依した長勝寺8世の格翁舜逸が、自らの隠居所としたという(津軽一統志)。

津軽為信が没した翌年の慶長13年(1608年)、弘前藩2代藩主津軽信枚藤代村(現在の弘前市藤代)に移し、父・為信の菩提寺としたと伝える[1]。一方、慶長14年(1609年)、津軽信枚が父・為信菩提のための位牌所として創建したとの伝えもある(津軽歴代記類)。

革秀寺の周囲には池や2重の土塁が築かれ、家臣でも出入には制限が設けられるなど聖地化し、藩祖為信を神格化させた。慶長14年7月18日の津軽信枚寺領宛行状では、藤崎・舞田屋敷・川辺の3村で寺領100石が安堵され、藩祖菩提寺として歴代藩主の帰依をうける。また、本堂の修繕銘板から、現在地に移転した直後に火災に遭い、慶長15年(1610年)に修繕されたと思われる。

明治期には堂宇が荒廃していたことから、明治39年(1906年)に修築再建され、現在に至る。

文化財編集

重要文化財(国指定)編集

  • 津軽為信霊屋(境内) - 江戸時代初期に建立された当時は質素であったが、文化年間(1804年1817年)に大修理し、現在の華麗な姿になった。規模は小さいが豪華で凝った建築が松や杉の古木が茂る中に建っていて、桁行一間、梁間一間、柱は総円柱、入母屋造、正面軒唐破風をつけたこけら葺き屋根。内部は非公開だが、板卒塔婆を巡らし宝篋印塔と元弘前城の館神であった木造太閤秀吉座像が安置されていて、彫刻や天井絵などの漆塗り、極彩色の華麗な塗装の多くが、文化年間の大修理によるものである。
  • 本堂 - 入母屋造、茅葺。内部を八間取りとする方丈形式の本堂で、江戸時代初期の建立。

弘前市指定天然記念物編集

交通編集

参考文献編集

  • 角川日本地名大辞典 2 青森県(角川書店)
  • 『青森県百科事典』、東奥日報社、1981
  • 「新指定の文化財」『月刊文化財』359号、第一法規、1993

逸話編集

  1. ^ 高岡(鷹岡、後の弘前)からほど近い藤代にある館に、美人で名高い藤代御前と呼ばれる女主人がいた。津軽為信が側室にと呼び出したところ藤代御前は(為信に夫を殺されて恨んでいたともいわれ)これを拒否したので、為信は実力行使で従わせようと兵を差し向けた。藤代御前はそれでも断固拒否し、妹と家来達と共に館に立て篭もって戦いに及び「為信のみならず末代に至るまで祟ってやる」と言い遺して討ち死を遂げ、岩木川に面する土地に埋葬された。それから月日は流れ、津軽家は大名として徳川幕府からも認められ、藤代での出来事が誰の記憶からも薄れていた慶長12年12月(1608年1月)、京都に居た為信が没する。為信は死ぬ間際に「藤代御前の呪いを押さえつけるため、自分が死んだら骨を藤代御前の墓の上に葬れ」と遺言した。この遺骨を2代藩主・信枚が京から持ち帰り、格翁舜逸を導師として葬儀を行って藤代御前の墓に被せるように為信を葬った場所が、現在の境内の津軽為信霊屋がある場所と言われる。為信の供養のため革秀寺がここに移されて廟所とされ、以後、歴代藩主から帰依をうけることになった。

外部リンク編集