高井 喜三郎(たかい きさぶろう、文政11年(1828年) - 明治3年2月4日1870年3月5日))は、明治時代一揆指導者[1]

経歴・人物 編集

上野群馬郡柴崎村の農民[1]

明治2年(1869年高崎藩領45カ村の農民約4千人が年貢軽減を訴えた高崎五万石騒動の頭取のひとり[2]。のち佐藤三喜蔵小島文次郎と共に捕えられ処刑された。

高崎市東町には五万石騒動義人慰霊堂があり、3人の処刑日に合わせ毎年義人祭が行われている[3]。祭は2018年からは高崎市労使会館での開催となった[3]。また、「上小塙村傘連判状」や「南新波村傘連判状」など五万石騒動を象徴する資料は「小島家五万石騒動関係文書」として 高崎市指定重要文化財に指定されている[4]

脚注 編集

  1. ^ a b デジタル版 日本人名大辞典+Plus(講談社)『高井喜三郎』 - コトバンク
  2. ^ 朝日日本歴史人物事典(朝日新聞社)『高井喜三郎』 - コトバンク
  3. ^ a b 五万石騒動の義人法要 高崎新聞、2018年10月29日閲覧。
  4. ^ 小島家五万石騒動関係文書 高崎市、2018年10月29日閲覧。