高嶋辰彦
高嶋 辰彦(たかしま たつひこ、1897年(明治30年)1月10日[1][2] - 1978年(昭和53年)9月24日[1][2])は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。旧姓・多賀谷。高島と表記される場合がある[2][3]。
経歴
編集福井県出身[1][注 1]。港湾業・多賀谷儀三郎の四男として生まれ、陸軍中佐・高嶋嘉蔵の養子となる[1]。四日市中学校(現三重県立四日市高等学校)、名古屋陸軍地方幼年学校、中央幼年学校を経て、1918年(大正7年)5月、陸軍士官学校(30期)を首席で卒業[3][4]。同年12月、歩兵少尉に任官し歩兵第38連隊付となる[1][3]。1925年(大正14年)11月、陸軍大学校(37期)を首席で卒業した[2][3][5]。
1926年(大正15年)12月、陸軍省軍務局付勤務となり、軍務局課員(軍事課)を経て、1929年(昭和4年)1月からドイツ駐在として、ベルリン大学、キール大学で学んだ[1]。1932年(昭和7年)10月、歩兵第43連隊大隊長に就任[1]。軍務局課員(軍事課)、参謀本部員、兼軍務局付、大本営参謀、参謀本部第4部第11課長代理などを務め、1939年(昭和14年)3月、歩兵大佐に昇進し参謀本部戦史課長に就任[1][3]。
1940年(昭和15年)12月、台湾歩兵第1連隊長に転じた[1][2][3]。大本営付を経て、1941年(昭和16年)11月、第16軍参謀に発令され太平洋戦争に出征[1][2][3]。蘭印作戦に参戦した[2]。1942年(昭和17年)2月、陸軍公主嶺学校教官に転じ、1943年(昭和18年)3月、陸軍少将に進み公主嶺学校付となる[1][2][3]。同年同月、第3軍参謀長に転じ、第12軍参謀副長を経て、1945年(昭和20年)3月、東部軍参謀長に就任。宮城事件の始末にあたり、そのまま終戦を迎えた[1][2][3]。同年11月に待命となり、同年12月、予備役に編入された[1]。
1945年12月から1946年(昭和21年)6月まで東部復員監部総務部長を務めた[1]。1947年(昭和22年)3月から同年11月まで戦犯容疑でシンガポールで拘留された[1]。同年11月28日、公職追放仮指定を受けた[6]。
著作
編集- 『総力戦に就いて』〈湘風会パンフレツト 第1輯〉湘風会、1938年。
- 『皇戦 : 皇道総力戦世界維新理念』戦争文化研究所、1938年。
- 『日本百年戦争宣言』〈戦争文化叢書 第1輯〉戦争文化研究所、1939年。
- 講述 鈴木貞夫編『世界史の真相』陸軍士官学校記事編纂部、1941年。
伝記
編集- 森晴治『雪松・高嶋辰彦さんの思い出』森晴治、1981年。
脚注
編集注釈
編集- ^ 『日本陸軍将官辞典』419頁、『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』416頁では東京。