黄龍慧南
黄龍慧南(おうりょう えなん、咸平5年(1002年) - 熙寧2年3月17日[1](1069年4月11日))は、中国の宋代の臨済宗の僧。俗姓は章。信州玉山県の出身。後世五家七宗の一つに数えられる黄龍派 (zh:黃龍派) の祖として知られる。日本に伝えられた臨済禅のうち、栄西によるものがこの黄龍派に属する。
生涯
編集定水院の智鑾の下で11歳にして出家し、19歳の時に具足戒を受ける。廬山帰宗寺の自宝、廬山棲賢寺の澄諟、蘄州三角山の懐澄、衡州雲峰寺の文悦の下に参禅し、文悦により石霜楚円を紹介されてその弟子となった。景祐4年(1037年)、趙州勘婆の公案より大悟する。その後帰宗寺に戻るが、寺が火災にあった折に罪に問われて入獄した。出獄後は黄檗山(江西省北西部)を経て黄龍山(江西省・湖南省・湖北省の境界付近)に移り、公案を用いて宗風を振るい湖南省や湖北省に大いに法を広めた。熙寧2年(1069年)3月17日に示寂。普覚禅師と諡された。
主な法嗣に東林常総、雲庵克文、晦堂祖心、雲居元祐らが居る[2]。語録に『黄龍南禅師語録』、『黄龍南禅師語要』及び『黄龍南禅師書尺集』がある。
脚注
編集参考文献
編集- 禅学大辞典編纂所 編 『新版 禅学大辞典』p1119 1985年
- 伊吹 敦『禅の歴史』p86 2001年