Wikipedia‐ノート:検証可能性/執筆経験があまり無い人にとっての検証可能性

執筆経験があまり無い人にとっての検証可能性

編集

検証可能性をめぐる議論についての堂々巡りを改善しようと、具体的な事例に絞り込んだ事例研究をやってみましたが、やはり堂々巡りしてしまいました。議論の前提がどっかで食い違っているなと考えて、Dwyさんの投稿履歴を拝見させていただきましたら。ううむ。そういうことか。

Dwyさんは、結構編集歴が長い方ですが、英語記事の翻訳と雑草取り活動とWikipedia空間での議論などは活発ですが、新記事を立ち上げたり、既存記事に大幅に手を入れてご自分で長文の執筆をするということは、やっておられない方なのですね。あるいは、他の編集者の方々と一緒になってプロジェクト的に記事を改善・執筆していくという活動に参加されたことが無いように見えます。そういうことなら、一連の言動は判るような気はしました。執筆者の気持が判らないんだな。

Nekosukiさんが上の方で書いているけど、「どうなれば検証可能性を満たすのか・どこまで書けばよいのか」は実は結構難しい問題です。執筆者は、ネタを集めながらどういう構成で記事を書けばよいのか、どういうスタイルで書くのか、色んなことを考えるなかで、検証可能だと読者が受け取ってくれる「程度」を探っていかなければいけない。「とにかく細かく出典を示せばいいじゃないか」というのは、執筆経験が浅い人の机上の空論だし、執筆者の能力や知力にも大きく制約される問題でもあります。

私は、それほど編集歴は長くないけど、まとまった執筆は何本かやってきました。で、検証可能性という見地からすると、関わった記事毎に対応はバラバラ。文献をきちんと収集した上で最初からがっちり出典明示して書いた記事もありますし、ノートで話し合いながら執筆した記事に対して時間が経ってから「出典が足りない」と招集がかかって出典を付ける作業に動員されたこともあります。参照文献を示しただけで済ませていたら、「ココとアソコは突っ込まれやすそうだからそこだけ文献明示したらどうか」というアドバイスを受けて、その通り対応したこともあります。あるいはアニメおたく達が荒らしに荒らした項目に対して、私の文芸史・芸能史の「常識」の範囲内で加筆したこともあるけど、文献がみつからないまま放置してある項目もあります。その後は荒れることが無くなったので、改善はしたという自負はあるものの、識者の出典加筆を待っている状態。とにかく、関係した記事にはそれぞれの事情があって、それぞれの記事なりに改善させる方向に皆でもっていくよう努力してきたつもりです。

で、「あの記事はそのうち突っ込まれそうだから、あの本は買っておいた方が良いな」とか「あの記事のあのあたりは、補強が必要だから調べておいたほうが良いな」とか、いろんなメンテナンス作業が発生していくなか、明らかにその分野の基礎知識が欠落していると思われる編集者が「検証可能性」の一語で文章を削除してきたら、「何も知らんコドモが手を出すな!」と腹の中で感じます。正直に言ってそう思うのだけど、それを言っちゃお終いだし、そういうことをされるだけの脇の甘さが記事にあることは認めなくちゃいけないので、削除要求者とごく穏便に対話をして、どういう改善が可能かをさぐることになります。

で、そういう執筆者の気持を理解して欲しかったけどDwyさんには理解していただけなかった。背景が違うから、そこは無理なのでしょう。だから、理解しろとは言わないけど、そういう気持があることは知っておいて欲しい。知った上で、たとえ検証可能性に関する指摘であっても、何が問題かを執筆者達にきちんと伝えるという手間をかけていただきたい。

ルーチンで記事を削除していく行為は、真面目に改善に取り組んでいる執筆者達に対して礼儀を失していることは判っていただきたい。その記事は、執筆者達の判断で合理的な別の方法で検証可能性を保証しているのかもしれないし、知力及ばず検証可能性に届いていないけれど、それなりの改善途中かもしれない。そして、記事が無い状態よりも多少不備でも記事を示すことで新たな執筆者を呼び込めると判断しているのかもしれない。原理原則を主張されるにしても、そういう執筆者達なりの思惑を無視する形でルーチン削除するのはコミュニティへの侮辱だと認識していただきたい。そのように思いました。--おーた 2008年1月30日 (水) 16:21 (UTC)返信

(上記おーたさんの御意見、ちょっと長くてきちんと理解できてないかもしれませんが)執筆経験の乏しい者は、それがある(と思っている)人の苦労が判らないのできれいごとを言うのだ、少しは執筆をしてみろということですね。苦労を知らない者のきれいごとはコミュニティーへの侮辱ですか。本気でそう思っておられるのであれば、あなたにはもはやここで申し上げることはありません(申し上げる資格が無いと言ったほうがよいのかな)。
おーたさんへは最後となりますが、特に、既存記事に加筆行為を行った場合、その部分に出典が無いだけで記事全体として信頼性が乏しいとみなされることもあり得るのです。それまで丁寧に執筆、編集をしてきた人達の努力を一発で台無しにする可能性を持つことを指摘しておきます--FXECG 2008年1月31日 (木) 01:00 (UTC)返信
「少しは執筆をしてみろ」とは書いていませんし、断じて言いません。執筆はしないけど、編集で参加する立場は認めるのはWikipediaの大前提だと思っていますから。その上で言いたいんです。お気軽なルーチン削除は、まじめにやっている執筆者たちを苛立たせる可能性があるんだということを。ある記事のことを心配していただけるのなら、ある記事を良くする事を考えるのなら、まず既存執筆者との対話をお願いしたい。それだけです。対話に応じない執筆者に対しては、皆さんのノウハウを駆使して、やりたいようにどうぞ。それには文句はつけません。--おーた 2008年1月31日 (木) 03:34 (UTC)返信

『「とにかく細かく出典を示せばいいじゃないか」というのは、執筆経験が浅い人の机上の空論だし』と言ってはばからない人には、いくらでも記事が書ける。「検証可能性」の方針をまじめに受け止めて、半端な記事を書くべきでないと信じている人には、執筆経験が積めない。私から言わせれば、単にそれだけのことです。私としては、いつか自分の時間が自由に使えるようになったときに、図書館に1年くらい通いつめて、まとまった記事を1本か2本書いてみたいと思うけど、今の状況ではそうも行かないから、「検証可能性」の縛りの中でできる範囲内のことで我慢しているわけです。(完璧に遵守できているという自信はありませんが、少なくともルールをあからさまに踏みにじるようなまねはしていないつもりです)

「検証可能性」の方針を字義通りに実行することが、そんなに難しいことなのでしょうか?英語版では普通にやっている(100%ちゃんとできているわけではないかもしれないが、少なくとも守るべきルールとして誰もが尊重している)のに、こちらでは「机上の空論」なんでしょうか?執筆経験の少ない私には、そこのところが、どうしても理解できません。

それから、「まず既存執筆者との対話をお願いしたい」についてですが、既存執筆者の方は、自分の記述に疑問を指し挿む人に対しては、『「何も知らんコドモが手を出すな!」と腹の中で感じている』わけでしょう?よほど人格ができた人でなければ、そんな思い上がった心持ちの人と対話なんかしたいと思わないし、仮に対話を試みたとしても上手くいくわけがありません。

「何も知らんコドモが手を出すな!」
「そういうあんただって、所詮は素人だろうが!」
「専門家が10人読んで誰も問題を感じない記事に対して文句を言うときは、礼儀をわきまえろ!」
「ほう、おもしろい!その専門家とやらが何と言っているか、確たる証拠を出してもらおうじゃないか!」

となれば、結局「検証可能性」に戻るわけです。だとしたら、上に書いたような醜い「対話」は、すっ飛ばして、最初から「検証可能性」を要求する方がよくありませんか?--Dwy 2008年1月31日 (木) 17:13 (UTC)返信

私としては、以上で言いたいことは全部言ったと思います。というか、同じ事をずいぶん繰り返して何度も言ってしまいました。これ以上付け加えることもそんなにないと思いますので、誠に勝手ではありますが、後の議論は他の方にお任せします。疲れました。ごめんなさい。--Dwy 2008年1月31日 (木) 17:23 (UTC)返信

セカイ系の改稿とローカルルールの設定に尽力されたおーたさんが、どうしてDwyさんやFXECGさんとここまで対立することになるのかよくわからないです。将来的には、すべての記事に最低でもこのレベルで出典が付いて、出典なき加筆はいちいちローカルルールを設定しなくても問答無用で差し戻して誰にも文句を言われないのが当たり前になってほしいと思っています。

現状ではセカイ系アメリカ同時多発テロ事件陰謀説のように「出典を加筆→ローカルルールでWP:Vの厳格適用を宣言」のような手順を踏む必要があるのは仕方がないかもしれませんが、それをWP:Vのほうで明文化すべきだとは思いません。本来、除去する側に出典を示す義務はないからです。

現状で「問答無用で差し戻し」だけを採用したらほとんどの記事が白紙化されてしまうわけで非現実的なのは理解できますが、だからといってルールの方を緩和してしまっては目標から遠ざかるばかりで本末転倒だと思います。--emk 2008年1月31日 (木) 19:26 (UTC)返信

emkさんの指摘は「おまえのここでの主張は、おまえがセカイ系でやってきたことと矛盾して無いか?」ということだと理解しました。以下、釈明しておきます。
私の執筆歴の中で、セカイ系はかなり上手く行った方です。言葉の歴史自体が浅いものの、(Webではない)文献収集は簡単にできましたし、それを使って文章をまとめるのもそれほど苦労はしませんでした。ここまで書いておけば、あの記事の過去に起こった「独自研究合戦」を断ち切ることも可能だろうと判断して、かなりきついローカルルールも導入できました。私の改稿に対する反感はまだ消えていないようですが、あの状態になれば誰かが独自研究を書き込んでも、スムーズに議論して除去できるようになったと思います。
ただ、私はサブカル系で他にも大幅改稿した記事があるのですが、どうにも出典が揃わないという事例も多々あり、誰かが「独自研究だから削除しろ」と言い出したら正直ややこしくなるだろうなと思っている記事が数件あります。出典が揃ってないのに、私がその記事をそのままにしている理由は「無いよりマシ」だからです。
全面的な削除になれば、アニメおたく・マンガおたく達が白紙状態から、ぐちゃぐちゃと書き出すことは目に見えるのです。それよりかは、ある程度の文芸史的・芸能史的常識に沿って記事を構成しておけば、おたくたちによる「トリビア集」に発展することは少なくとも抑制できるのではないか。そう考えて改稿しましたし、現にそういう記事はその後、大して荒れませんでした。そして、私の「常識」もクレームを受けていないので、そこそこ認められる程度の記述だったのだろうなと胸をなでおろしています。
もちろん、そういう記事はそのままで良いわけがありません。どなたかから出典が出れば、それに沿って書き換えていただきたい。出典に使えそうな文献に私がぶち当たったら、私が再改稿します。ただし、それまでは「とりあえず」の記事で行くしかない。その意味で私は現実主義者ですし暫定主義者でもあります。--おーた 2008年2月4日 (月) 15:18 (UTC)返信

「自分でブックレットを取り寄せて調べる意欲も能力もない」などと言いながら議論を吹っかけてくる方には「機械的に削除しないで執筆者と対話を」という提案は理解も納得もできないでしょうなぁ。あと、ルールを緩和しようなどと言う提案も見当たらないんですけど、どっかにありましたっけ?

前に指摘したとおり、問題の本質はルールの問題と言うよりコミュニケーションの問題なんですよね(ネタにされた当人が言ってるんだから間違いない)。それぞれの考える落としどころと違うところに本質があるので、理解できない人はいつまでたっても理解できない、それだけの話です。--Mt.Stone 2008年1月31日 (木) 23:43 (UTC)返信

えーと、上のおーたさんの議論展開というのはいただけないな、と私も思います。検証可能性に関しては、私はおーたさん(その他、おそらくKs aka 98さんとか、Nekosuki600さんとか、Tomosさんとか)と近しい考え方をしていると思うのだけど、これは「信頼性のない記述を書きまくる行為」も「出典がない記述を消しまくる行為」もどちらも牽制し、両極端は排除しなければならない、というスタンスなんですね(その中でもどちらかというと「除去しない側より」と言った方がいいかな?)。そういう立ち位置から見ると、上のおーたさんの意見と言うのは(対立論への反論なんでやむをえないと感じる部分は大きいのだけど)「信頼性のない記述を書きまくる」人たちにも濫用されかねない論理なんです。だから同じようなスタンスにある私は(あるいは、同じ側に立っているからこそ)、「信頼性のない記述を書きまくる連中」を調子づかせないためには、そのおーたさんの意見に反論せざるを得ないわけでして。
ただ、おーたさんの「気持ち」はよーくわかるし、心情的な部分を言えば、私も含めて多くの執筆者が感じるものなんだと思います。要するに、そういう部分が「出典のない記述をいきなり除去する」ことに対する反発になっているし、記述を除去するというのは「自分自身がそういう『執筆者の心情』というか『他人の心の痛み』を理解できない人だからにできることに違いない」と思うのは、心理的に仕方がないことだろうと思います。実際、私がそうされても、そういう「執筆者の心がわからない人がやった」んじゃないか、という思いは、まぁ100%ではないにしろ、そういう可能性をいくらか疑い思いはいくらか生じることでしょう。
でも、そういう思いというのは、もしかしたら「信頼性のない記述を書きまくる人たち」も、同様に持っているかもしれない。いや、むしろそういう人たちにはWP:GAKIと呼ばれるような人も多いだろうから、自分を正当化するため記述を削られたことに対する「反論」を求める度合いが高いんじゃないかと思います。「せっかく書いた内容を削るなんて!コイツは執筆の何たるかがわかってない」ってのは、まさにそういう反論の典型的なものじゃないかと。私は、WP:GAKIがそう反論するのを受け入れられないのと同様に、おーたさんの上の意見も受け入れられないし受け入れるべきではない、と考えます。要は、確かに「心情的な問題」に根ざしていることだし、そこを波風立たせないような「コミュニケーション」は大事なんだけど、それ「だけ」で解決しようというのは無理がある、と。
で、まぁDwyさんに関して言うとですね…んーと、Dwyさん個人を批判するつもりはなくて、ある意味「除去する側の人」と相対したときの実例みたいなものなんだと思うんですが…私は一年前と比べると、Dwyさんが随分「除去しない側」に理解を示していただけるようになったな、という印象を持ってます。もし、ここで行って来たような対話がDwyさんのスタンスを変化させるのに少しでも役立ったのであれば、ここの長い議論も全部が全部無駄なものではなかったのかな、と感じたりして。ただ、元々のスタンスが「記述の除去」から入っているためか、未だに「検証可能性を満たす」方法として「記述の除去」をまず取り上げる、という傾向が残っているように感じます。多分、これはDwyさんに限らず「除去する側」あるいは「記述除去厨」に共通してみられる傾向じゃないかと。
これも実は一年前にDwyさんやAlbumさんと議論したときから言いつづけてた(なんかこういうと、Dwyさんと比べて私の方は進歩してないような気がするけど)ことなんですが、「記述の除去」は「検証可能性を満たす」ための方法のうちの一つでしかありません。しばしば「記述除去厨」と呼ばれるような「出典のない記述を消しまくる人」も「検証可能性を満たさないから消した」と、自分の行為を説明(ないし釈明)するようですが、その理屈は必ずしも正しくない。なぜなら選択肢としては「検証可能性を満たさないから、要出典タグをつけた」「検証可能性を満たさないから、ノートで説明を求めた」などの『手段』もあり得るわけで、記述の除去という『手段』を選んだ理由としては、不十分なんですね。逆にもし、記述の除去という手段の方をそのままにして、それに見合う『理由』を挙げるのであれば「『デタラメ』(pseudo-infomation, 偽情報)だから除去した」という論理であれば、それは正しい理屈だと言えるでしょう。
この「デタラメ」って表現は、上でTomosさんと議論してたときに出てた、「出典が存在することが極めて疑わしい、信頼性のない内容」を指してます。Jimboが言ったところの"pseudo-information"(偽情報)ってやつです。以下、私の文中では「デタラメ」をそういう意味で使います。「真偽」の「偽」だと、NPOV的観点と紛らわしくなりそうなので(まぁ「デタラメ」と「偽」の不可分性についての議論もありますけど、ここではオフトピックということで)
しばしば「除去側の人」が持ち出すものに、Jimboの発言の「pseudo-informationに要出典タグを貼るのは間違っている。pseudo-informationは直ちに取り除かれるべきである」ってのがありますが、これはつまりこういう「デタラメ」についての対処を言っていることなんですね。出典がそもそも存在しない記述に、「要出典タグ」を張って待ったところで、出典が出てくるわけでもなく、そんな対処は時間の無駄でしかない。ただし、これは「出典が存在しない」ってのが明らかな、あるいはその可能性が高い「pseudo-information」への対処について言ってることであって、「出典が明記されてないだけの」記述全部について言ってるわけではない。出典が明記されてない記述全部が「デタラメ」というわけではなく、まだ示されてないだけのものもあれば、別の理由で出典を明記してない(出典明記の例外が主張されうる)ものも含まれている…というより、そっちの方が今はまだ多いのが現状なわけです。そういう「デタラメ以外のもの」に対して、もし誰かがいきなり記述を除去してしまったら、そして後から出典が示されてその記述が確かに「デタラメでなかった」ことが判明したのであれば、結果から見るとそれは「いきなり除去した」人の行為の方が間違って「いた」し、その人の行為は一時的に「記事を破壊した」ことにもなるわけです。要するに、いきなり「記述を除去する」ということは「私はその記述がデタラメだと判断した」と言ったものと思われても「仕方ない」(「検証可能性」の要約風に言うならば「文句がいえない」かな? ;P)行為なんですね。だから、そういう行為を乱発する人には、「オマエは自分がやってることを、他人が書いた記述が『デタラメだ』と断じていることだ、という自覚があるのか?」と感じてしまうこともしばしばあります。
ただし、もちろん適切な判断材料が乏しい(出典が示されてない)段階では、そういう「デタラメかどうか」の判断を下すのは難しいし、間違ってしまうこともままあるでしょう。「結果から見ると」なんてのは、出典が出された後から言えることであって、それ以前の、情報の乏しい段階にはどっちが正しいかなんてわからないことがままある。だから、そういう「判断を下した状況」を考えずに、結果だけ見て「ほれ見ろ、お前は記述を削ったけど、間違ってたんじゃないか!」と責めてはいけない。しかし逆に(多分Dwyさんはこの立場だろうけど)「そもそもお前が出典を最初から付けてれば問題ないんじゃないか!」というのも、よくないと思うんですね。削る人には「記述を除去するか、それとも他の対処をするか」という選択をする余地があったのに、「記述を除去する」という対処を選んだということ、自分の判断に対しては「責任」がある。それを棚に上げて、相手だけ責めるのはある意味「開き直り」でしかないです。つまり、そういう結果になったケースでは「最初に出典を付けなかった方」にも落ち度があるし、「いきなり記述を除去するという選択をした方」にも判断ミスがあるわけです。自分のミスを認めるというのはとても難しいことなので、この手のケースでは相手の落ち度だけを責めたり、別の方向に話を逸らしたりして議論になることが多い。これが、検証可能性の議論を巡るいざこざの原因にしばしばなっているのだろうと。双方が自分の瑕疵を認めることができれば(これが結局コミュニケーションの一番難しい部分だろうけど)、大抵の問題は解決するのになぁ、とか思ったりするわけです。
で「記述の除去」についていざこざが起こったとき、しばしば問題になるのは、除去する人が「検証可能性の確保」イコール「出典のない記述を除去すること」と認識してることなんだと思うわけです。これも一年前の議論から指摘してたことなんですが。「検証可能性」というのは『目的』(厳密に言うと、より大きな「信頼性の確保」という目的を満たすための小目的というか)であり、『出典のない記述の除去』というのは、その目的を満たす『手段』、それも複数ある手段の一つに過ぎない、ということが、上手く伝わってないのではないかと。で、そういう「上手く伝わってない」「記述の除去という一手段だけが偏重されてる」理由は何なんだろうな?と考えたときに、「検証可能性」の要約として掲げられてる文章が、やたら「記述の除去」だけを印象づける文章になってるからなんじゃないか、と思ったわけです。で、一年前の議論で、上で再掲したような「修正案」を出した、という風につながっていくんですが。
こういう「検証可能性」から即「記述の除去」に結びつけて考えるのはよくない、というのは、一年前にAlbumさんやDwyさんら「除去する側」の立場であった人に言った言葉でもあったんですが、今回の議論では、おーたさんの意見の中でも混同が見られるように思いました。ここらへんは結構重要な部分に当たるので、できるだけ丁寧に分けて議論していただければと。「執筆者側」から言うと、除去する人が「デタラメ」な部分をばんばん削るのには当然文句を言うつもりもないし、むしろどんどんやってくれ、とすら言いたい。けれども、それが本当に「デタラメかどうか」という判断には、当然責任をもっていただきたい(当然、何の責任も伴わない行為はないんですから)。もちろん人間は間違いを犯すものなのだから、判断を間違ったって構わない。けれど同じ間違いを何度も繰り返さないようにしなければなりません。「デタラメかどうか怪しいと思うんだけど、自分には判断が付かない」という部分については、まず何らかの形で「指摘」してくれ、ということですね。そして「いきなり除去」をそういう指摘の代わりにできるとは思わないで欲しい。Nekosuki600さんの言うように、それは「対話を試みようとしない」という点からいうと「対話拒否」に相当するコミュニケーションの欠落だろうと、私も思います。--Y tambe 2008年2月1日 (金) 03:13 (UTC)返信
Y tambeさんの御意見、ツマミ食いで思ったことを書きます。
「消しまくり」と「書きまくり」が両極端にあるというのは観念的にはその通りだと思うのですが、両者を放置したときの、あるいはどちらかが消滅したときの結果を考えるとやや異なるのではないかと思います。
ある記述が出典の無いことを理由に除去され、後日それが出典付で復活したというケースで、タグ付けその他の選択肢を採らなかったことでその期間有用な記事を読者の目に触れさせなかったというのが除去者のミスだというのは無理がありませんか。百歩譲っても選択を誤ったという「ミス」でしょう。一方で出典無しの記述をするということは、他者からは信頼性があるかないか判らないのですから、そのことで記述部分、いや記事全体の信頼性を貶めているわけで、さらにはいつまでもそのままで存続し続けるという危険性もあります。しかも出典無しの記述はいけないと知っていて敢えてやっているのだとしたら、それは「ミス」では済まないと考えるのは間違っていますでしょうか。
また、両者のコミュニケーションの問題・欠落といわれますが、基本方針のどこをどう読んでも出典無しの記述で構わないとは書いてない以上、「少しだけ待ってくれ」「一生懸命書いたものだから、除去だけは見逃してくれ」的な懇願ベースの遣り取りを超える議論は発生するとは想像できません(例外として、「これは公知の事実だ」というのがあるかもしれませんが、これは「公知」に関して議論の余地がありそうですが、今私の頭の中で整理できていませんので横へ置かせてください)。削除厨の活動を現在に比べて抑制しようとしたら、何らかの形で検証可能性を犠牲にしなくてはならないのは必至であり、つまりそれは方針自体の改正を避けては通れないのではないかとも思います。
執筆を主としている方々には苦々しいことかもしれませんが、「除去厨」はある一定の割合で存在していることを是認していかなければならないのかと思います--FXECG 2008年2月1日 (金) 09:35 (UTC)返信
んーと、私もFXECGさんのコメントを読んで思ったことを書きますと、私はいろんなケースというか「対象」を細かく分けて議論しているのに対して、FXECGさんはもう少し大雑把な分け方で議論している部分があるように感じました。こういう議論では、「その言葉が指しているもの」が異なることによる、意見のすれ違いが生じがちなので、そこらへんをまず補足しといた方がいいのかな、と。
  • まず一点目として、FXECGさんが使ってる「出典なし」という表現は、どうも私が言っているところの「典拠に基づかない(=デタラメな)記述」と「出典を本文中で明示してない記述」という両方の意味で語られているように思いました。なので、一意な言葉として意味を取った上で議論することができないというか、そこが上では一番大事なポイントなんで区別して読んで欲しかった、というか。前者はもちろん即刻除去されるべき記述ですが、後者についてはケースバイケースで(要出典タグを貼るとかも含めて)対処すべきものであるため、ここでは、まず両者を明確に区別して話をする必要があると思ってます。この違いは、それぞれ元を辿れば、上で別の議論でも述べた、「検証可能性」と「出典の明記」という、二つの方針の違いに行き着くだろうと考えてます。「検証可能性の例外」は(例外のないものはない、という観点から例外そのものは存在するとして)極めて限定されなければならないのだけど、「出典の明記」の例外に該当するものはそれよりも少し幅広く認めた方がいいだろう、と。これ、実は逆から言うと「出典の明記」と「検証可能性」を別の問題として切り分けて考えることで、「検証可能性の例外」を認めなければならないケースを激減させることが可能だと考えてまして。そのことで「検証可能性」が基本方針として「硬い」、つまり例外が(あまり)存在せず、揺るぎない堅牢な方針となるんじゃないかと考えてます(そもそもウィキペディアでは「出典明記」のための方法論があんまり練られてない部分もあるので、そういう「練り込み」の足りない部分が落し穴になりかねん、と)
  • 二点目として、私は「除去する側」に位置する人と、「除去厨」というのは、区別されるべきだと考えてます。丁度「執筆/加筆する側」に位置する人と、「加筆厨」を区別すべきなのと同じように。まぁ厳密に言うと、どちらも「その行為を行う人」という形で(いわばレッテル貼りのような形で)「人」を中心として考えるべきではなく、あくまで「編集内容」を中心に考えるべきなんでしょうけど、まぁここでは、いわゆる「厨」な、記述除去/加筆を連発する人が、それぞれ「除去厨」「加筆厨」ということで(なお、Dwyさんが上で「削除厨」という言葉を使ったので「厨」という語を継続的に使ってますが、私はDwyさんが「除去厨」だとは思ってません)。私は、執筆者側に近い立ち位置にある者として「デタラメな加筆を行いまくる加筆厨」の存在を「是認」しようとは思いませんし、是認して欲しいとも思いません。それと同様に、もしFXECGさんが除去する側に近い立ち位置におられるのであれば「デタラメでない記述を除去しまくる除去厨」の存在を「是認」はして欲しくないなと思ってますし、私も是認しようとは思わないんですね。いや、ま、FXECGさんが万が一「除去厨」も含めて、皆「除去する側」の仲間同士、全部まとめて擁護するぜ!とか考えてるのであれば、私も考えを改めて、対抗しないといけないんだろうけど(笑)
  • それから三点目として、まるっきり上の繰り返しになるんですが、FXECGさんのコメントを読むと「要出典タグを貼る」という発想がまったく伺えないあたりが気になるんですね。だから全部が全部を「記述の除去」で対処しようとしか考えてないというか、「まず除去ありき」で考えているというか、そういう風に見えたりします。多分、コメントのうち一番の関心事である「その一部分」をツマミ喰いしたからでしょうし、まぁそれはあんな長文投下した私の責任なんですけども、そこが上の私のコメントのポイントでもあったわけでして。こういった「場合分け」についても、一度考えていただければなあ、と思ってます。--Y tambe 2008年2月4日 (月) 13:17 (UTC)返信

おーたです。誤解も多々あるようなので、私の現在のスタンスをまとめておきます。私は「確認:「出典不明示は削除」は、オールマイティな規定ではない」でY.tambeさんが提案されている、「冒頭のまとめ文の修正案」に賛成しており、それ以上の改正を求めていません。(ついでに言えば明確な反対者がいないのだから、修正を進めていいと思います。)そして、そのルール適用にあたって「検証可能性を盾にとってルーチンワークで削除することは避けよう。Wikipediaの5つの柱であるWikipedia:礼儀を忘れないに則って、既存執筆者との対話を試みる程度のことはしよう」と言っているだけです。

ところが、Y.tambeさんによれば、私の論法は「「信頼性のない記述を書きまくる」人たちにも濫用されかねない論理」なのだという。この指摘は、私も重く受け止めて反省する必要があると思いますが、ここではとりあえず誤解されているらしい私の考え方を釈明させていただきたいのです。私もまた「信頼性のない記述を書きまくる」人たちへの抑制は必要だし、そういう人たちを諦めさせるために(あるいはお引取りいただくための)「検証可能性が欠如していることを理由にした削除」は必要だと考えています。Y.tambeさんはじめ、多くの人が指摘するように「信頼性のない記述を書きまくる行為」も「出典がない記述を消しまくる行為」も似たような行為だし、両者は等しく抑制すべきです。私自身も、ゴミ撒き屋さんの文章をかなり強引に除去した過去はあります。

ただ、「私が分かっていないだけで、実はそこそこ根拠ある記述だった」という可能性が無い訳じゃありません。そういうリスクは、減らす意味で「この記述は問題あると思うんですが?」という対話のステップを入れておくことは必要なんじゃないかと思うのです。で、「検証可能性」という五文字だけで機械的に削除している人は、その辺りもうちょっと考えて欲しいと思うわけで。Y.tambeさんが指摘するように「いきなり記述を除去するということは「私はその記述がデタラメだと判断した」と言ったものと思われても「仕方ない」行為なんです」。そうであれば、リスクを回避する意味で執筆者に声を掛けてみるという手続きはやっておいたほうが良いし、その手間を省くのは良くないと私は思います。

その程度で「ゴミ撒き屋さん」を利するとは思いません。むしろ、一度声をかけた方が、ゴミ撒き屋さんの正体ははっきりすると思う。そして、強引に記事を排除しても構わないと判断できれば、「Wikipedia:検証可能性ぐらい読みなさい」と書いて排除すればよいと思います。履歴から見てゴミ撒き屋さんだとはっきりしているなら、それを告げて排除すればよろしいですし。こんなことを書くのは、私の修羅場体験が少ないせいなのかも知れません。しかし、私は「出典がないことのみを理由に、自分の気に入らない記述を除去する」行為には胡散臭さを感じます。対話するのを邪魔臭がっているのか、勇気が無いようにも見えます。

今回、一連の長い議論を経て感じるのは、「どれだけコミュニティを信頼できるか」ということです。「検証可能性の削除条項をルーチン運用すれば、Wikipediaの質は向上する」というような人間不在の主張がどうして前面に出るのか、私はずっと分からなかったのですが、削除原理主義の方々には執筆経験が乏しい方も珍しく無いらしいということを知って納得できたような気がしています。「コミュニティへの信頼」とはまた別の視点から参加しておられるのでしょう。私は、Wikipediaの参加者たちが形成している執筆者のコミュニティーを素晴らしいものだと思っていますし、このコミュニティーがあってこそWikipediaはここまで発展できたと思っています。で、削除が適当と判断したにしても

  • 機械的な削除は「私はその記述がデタラメだと判断した」と執筆者のコミュニティーに告げているのに等しい、
  • だからそれ相応の覚悟はするべき、

Y.tambeさんが指摘された、まさにそのように編集者の方々が認識していただければ私としては何の文句もありません。--おーた 2008年2月4日 (月) 15:18 (UTC)返信

(Y tambeさん)昨年10月にこのノートでDwyさんが引用されたジミー・ウェールズの言葉を敢えてもう一度引用します。
「ある事柄が本当に正しいかどうかの有効な判断を下すのは、我々にはたいへん困難です。ある人が提唱する物理学の新しい理論が正当なものであるかどうかを我々が決めるのは適切ではありません—我々はそのような判断を下せるほどの専門知識は持ち合わせていません。しかし、我々はその理論が評判の良いジャーナルや評判の良い情報源を通して発表されているかどうかは、確認できます。ですから、適切な判断能力を備えた人々によって信用できると判断された物事に単に依拠することにより、ある物事が信用できるかどうかの判断を避けることは、本当に便利なのです。歴史(学)についても全く同じ原則が当てはまります。(Wales, Jimmy. "Original research", December 3, 2004)
(一点目)ある記述が「デタラメ」だから削除してよい、とか、「出典を本文中で明示していない(だけの有用な)記述」なので存続させるべき、の判断を、そこに集まったたかだか(自称専門家)数人で行ってよいのかを考えると、どうしても肯定できません。これら二者を「区別して話をする」こと自体ができないのではないかと。だから両者ともに「大雑把」に「出典の無い記述」としか言いようがありません。出典一つ提示する方がよほど簡単(便利)なのではないかと思うのです。
(二点目)「デタラメ」な記述を削除するのが「削除する側に位置する人」で、有用な記述でも何でも削除するのが「厨」だと区別することは、上記の通り「デタラメ」かどうかを判断すること自体ができないだろうと思っている以上、できないのです。「厨」に出くわして、ほとほと困られた御経験を持っておられるのかもしれません。しかし、「厨」だけを正確に分離抽出する名案はなさそうなので、個別ケースで「厨」(と思われる者)をブロック依頼か何かで排除しようという動きがあれば、私は賛成する前にまず「(厨被害者は)出典を出し得なかったのかどうか」を考えるでしょう。そういうのが「擁護」とお考えなのであれば仕方ないです。
(三点目)私は「要出典タグ付け」は有用であると思っています例えばこれ。「出典を本文中に明示していない記述」を見かけたら、(除去ではなくむしろ)まずタグ付けをするでしょう。しかし、その後に誰かが(タグごと)記述を除去してしまったとしても、「タグ付けて充分なのに除去はやりすぎだ」とは言えないと思っています。言えるというルールを作らない限り。しかしそのルールは、何らかの形でこのWikipediaの信頼性を損なうものになるだろうから積極的には賛成できないのです。--FXECG 2008年2月5日 (火) 11:08 (UTC)返信
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