Wikipedia:コメント依頼/KAGEROU
利用者:KAGEROU氏に対するコメントを依頼します。--頭痛 2010年2月24日 (水) 01:38 (UTC)
これまでの経緯
編集昨年11月になりますが、私(頭痛)はCategory:国文学者について「「国文学」という名称は日本中心の呼称であるためより中立的な「日本文学者」にするべき」として改名提案を行ないました(Category‐ノート:日本文学研究者。改名済み)。この提案に対して被依頼者は「主に近世末までの日本文学を国文学と言います」として、つまり「国文学」と「日本文学」は別物であるという意見を述べて反対したのですが[1]、私が両者が違うということの論拠となる出典を求めたところ、
- 「昔は国語学といってたのですが、現在は日本語学と言っていますよね。>国語学会結成の目的は、明治以来、種々雑多な系統の上に成立し、未だ全体として体系を成すに至らなかった国語学に体系的な組織を求め、国語学展開の根本理論を確立して、近時漸く問題になりつつある国語の実践部面の発展に即応して、国語学の再出発を期そうとした<そうです。しかしね、これ国文学者だけのあつまりじゃないんですよ。大学では国語国文学という言い方しますしね。では、こんど国語学者と変えたいという人きたらどうします?国語学と日本語学の違いはなんでしょうね?」[2]
という、意図の把握しがたい文章で返答し、その後繰り返し出典を求めたところ「国文学研究資料館では、(当初は)主に近世末までの日本文学の資料を収集した」といった、論拠の出典とは到底言い難い事柄や、「私も国文学がかなり古い分類とは思います。しかし、その分類でのみ区分される学者もまた存在するはずです」[3]という、さらに論拠の不明な自説によって返答が行なわれました。
このように出典を示さず自説を繰り返したことによって堂々巡りが続き、その後他の参加者との協議で「日本文学研究者」への改名が決まったものの、上のような被依頼者との議論のために著しく改名議論が停滞し、やっと改名が決まりかけてからも「「日本文学研究者」ではなく「日本文学の研究者」でなければならない」というつじつまの合わない反対意見を出すなど[4]、議論を妨害したいだけではないのかと思いたくなるような言動を行なっています。
またこの改名の間に、以前私が使いやすさの観点から「舞台芸術作品」より改名したCategory:舞台作品で、以前の「舞台芸術作品」に戻すべきと主張し、その理由として、
- 「頭痛さんは、芸術 > 舞台芸術 >舞台芸術作品を、芸術 > 舞台芸術 >舞台作品としたわけですね。この改名は、入れ子を上から見るといたし方ないですね。しかし、下から見ると、舞台作品=舞台芸術ととる向きもあるということで、おかしな具合です。また、舞台作品のサブカテゴリが、 日本の舞台作品 、オペラ作品 、戯曲 、バレエ作品 、ミュージカル作品 と舞台芸術そのものだからです。」[5]
という、またしても意味の把握しがたい文章を記しています。
問題点
編集これまで被依頼者が参加したカテゴリの改名議論では、被依頼者は要するに「改名前の名称(国文学者/舞台芸術作品)と改名後の名称(日本文学研究者/舞台作品)は意味合いが違う」ということを延々と述べているわけなのですが、別の名称であればニュアンスや用法に違いがあるのは当たり前であって、「名称がイコールかどうか」ということと「カテゴリの名称としていずれがふさわしいか」ということとを混同しているようです。加えて、例えば「国文学者」の議論で「サイデンスデッカーなどの日本国外の研究者を「国文学者」と言ったりするのはおかしいのではないか」という意見に対し「エドワード・G・サイデンステッカーにCategory:国文学者を貼るのはなんか変なのは、きっとカテゴリー違いだからでしょう」[6]というだけで、それでは「国文学者」の替わりにどのようなカテゴリ使えばよいのか、といった点はまったく無視しています。カテゴリの構造や便宜といった観点をまったく度外視して、かつ出典を示さない自説を繰り替えすため発展的な議論が非常に困難です。
また「国文学者」の改名議論中、被依頼者の意見に反対した利用者に対する拙速なブロック依頼(Wikipedia:投稿ブロック依頼/hyolee2/H.L.LEE 2009)、および依頼者に対するブロック依頼とコメント依頼を提出しており、ブロック依頼の方は反対のみですぐに終了、コメント依頼ではそのコメント依頼自体への妥当性に対する疑念のコメントしかよせられておらず、またコメントを寄せた他の利用者に対し「あなた方には議論のメカニズムがわからないからだ」[7]という趣旨の身勝手な返答を行なっています。
上述したように「Category:国文学者」の改名は既に済んでおり、被依頼者自身この件に関して以後口を出さないという意見を表明していますので[8]、この改名についてのコメント依頼ではありません。被依頼者の上記のような言動に関し、特に「コミュニティを疲弊させる利用者であるか」「投稿ブロック依頼は可能か」という観点を含めたご意見をお願いします。--頭痛 2010年2月24日 (水) 01:38 (UTC)
関連リンク
編集自由に追加してください(上記の議論に関連しないものでもけっこうです)。
被依頼者のコメント
編集- 依頼者の問題行動は累積されています。それについていの指摘も累積しています。また、すでに問題行動ゆえに投稿ブロックまで受けています。--KAGEROU 2011年12月1日 (木) 05:11 (UTC)
- Wikipedia:投稿ブロック依頼/hyolee2/H.L.LEE 2009,hyolee2氏へのブロック依頼は、かなり唐突でいい加減に見えたと認めます。当方は依頼に書いてある理由を根拠として、ある種の解析ソフトを試用し、多くの関係すると思われるテキストを解析したところ、氏と思われる方がきわどい二重投稿をされている可能性が高いと判断して、ブロック依頼を行いました。しかし、これは方法において全く奨励されないし、また、正確な判断がこれだけで出来るわけもないことなので、当方の疑惑は全く誤りであったことを認め、氏に対してもこの場を借りて、軽率であったとお詫びします。また、解析ソフトによる多重投稿者疑いの結果を今後公表することは一切しません。--KAGEROU 2011年12月1日 (木) 06:50 (UTC)
- 頭痛は症状であり、ふさわしくないという考えについては、冗談の範囲と前置きされて変更を示唆されている方は他にもいらっしゃいます。それをして暴言というならば、その方にも暴言であるとご指摘ください。この点に関しては、現在も考えに変わりはありません。下痢、嘔吐、腹痛、歯痛、腰痛、これらが相応しいと思えない理由において、相応しくないと考えます。--KAGEROU 2011年12月1日 (木) 10:51 (UTC)
- 先ず、頭痛氏には非常にアタマに来ていたことは事実です。理由は彼が絶えず揶揄する調子を繰り返すから。例えばこのページの最初[9]も「面倒くさいです」と要約をいれていますが、万事この調子です。しかし、頭痛氏の態度や発言については全く問題がないそうなのでここではこれ以上触れません。
- 次に彼のいう、意図の把握しがたい文章は彼が私の暗喩や省略を、単に彼が理解しようとしないために起きた問題です。
例えば、国文学を日本文学に置き換えられるか?は[10]ここでKAGEROUが国文学の定義を出展付きで書いています。 これに因れば、国文学は「国語国文に依って芸術家の心理過程の顕現せられたもの」で「芸術の一分野である」と定義しています。その上で、国文学者の仕事を「国文学が芸術の一分野として確立する以上、其研究は、作物それ自体の避芸術的価値の批評を其本質とすべき」だとあります。
つまり、分野は芸術、「作物それ自体の避芸術的価値の批評を其本質」とする作業をする者を国文学者とするとしています。つぎに、「日本文学とは、日本人によって日本語で書かれた文学作品の総称」という日本文学の定義からすると、「国語国文に依って芸術家の心理過程の顕現せられたもの」の翻訳された「日本文学」を扱う者が日本文学の研究家であることに間違いはないが、はたして「国文学者と呼ぶことは出来るのか」という疑問は当然成り立つのは自明だと思います。
そこで、国文学研究家と日本文学研究家の「統合自体がそもそも無理なんじゃないでしょうか」と書いたら、[11]「国文学と日本文学はこれこれこのように違う」とはっきり定義づけされている出典を示すようにと頭痛氏は言う訳です。?何を言ってるんだろうか?
ここで、当然私は「研究のアプローチが違うと先に定義で書いてるじゃない?日本文学の研究と国文学が違うなら、違うといいうるだろう?いい得るだけで同じというのは誤りじゃないか?」と当然考えるわけです。 ここで私が言いたいのは「国文学者と日本文学者とは同じじゃないということ」ですが、なぜか話は国文学と日本文学にすりかわっているわけです。私にはワケがワカランというところです。
この後IP氏[12]が、今現在「日本文学」と「国文学」を明確に区別し、「国文学」の方を使用するにたる理由がある(必要がある)なら、是非その根拠をうかがってみたいと思うのです。と書いた後、この依頼となっています。
頭痛氏はほんとに、私の話の訳がわからなかったのでしょうか?しかし、議論を訳のわからない議論に換えてしまったのは頭痛氏だと思うのですが?少なくともIP氏のような議論の進め方はできなかったものでしょうか?--KAGEROU 2011年12月1日 (木) 09:58 (UTC)
- 5ヶ月後になって文句を付けー>五ヶ月後の「取り消し」と関連付ける理由が、自分の五ヶ月前の何か「汲平さんにお礼と感想を述べた」ところであるとする考え方は、私には全く理解できません。自分の認識の範囲の関係の中で全てを関連付けることの正当性は、一般的な理解からはほど遠いと考えます。
またここで問題とされる、差し戻し[13]の理由は「参加に当たって」の「安全策」を 「ぜひ守ってもらいたいこと」と勝手に主観によって書き換え、更に「穏当な行為」としてくくっていた行為について穏当か否かを、勝手に変える前に合意を求めるべきことではないでしょうか?という差し戻しであり、問題はありません。また英語版ともかなり違うでしょ,という話です。これについて、ノートなりに疑問をお書きになられれば当然お答えしたと思います。--KAGEROU 2011年12月1日 (木) 10:07 (UTC)
- ブースカ氏よりの批判はそういう点も見られるのだろう。と反省の材料にしたいと思います。>曰く「ブースカは議論の仕方がわからなくて当然である」という言葉は知らないのですが…。似たことは書いていますが、もし当然と書いているなら何故当然かすら分らないので謝ります。上から言ってるつもりはないですが…。--KAGEROU 2011年12月1日 (木) 10:51 (UTC)
コメント
編集- コメント 『身勝手な返答をされた者』です。私自身、最近はWPでの活動をあまりしておりませんでしたが、ずいぶん前より被依頼者の言動を拝見させていただいておりました。出典を明示せずに自説を元にした議論をなさる姿勢を改善されないまま、不適切なブロック依頼・コメント依頼の提出に至ったことを非常に残念に思います。
- 私から指摘させていただきたい点は2点ございます。1つは、「議論の手法は一つではない」ということです。WPで求められているのは議論の手法を指摘することでも、議論で人を論破することでもありません。あくまで「合意形成」です。合意を形成しながら方針・ガイドラインに沿った記事の発展を目指すべきところを、あくまでも自説を譲らず、あまつさえ問題を指摘されれば議論の手法自体を不備として指摘してしまう。これでは合意形成にもほど遠い結果しか得られない、ということをもっと早くご理解いただきたかったと思います。
- もう一つは、「他人を糾弾される前に、ご自身の行動を省みていただきたい」という点です。被依頼者は、依頼者に対して行ったコメント依頼において、「依頼者による暴言」を指摘していました。しかし、被依頼者はそのコメント依頼において私に対し暴言とも取れる発言をされました。曰く「ブースカは議論の仕方がわからなくて当然である」と。確かに私の説明不足、言葉の不足はあったのかもしれませんので、ご指摘自体は受け止めますが、他人の暴言を指摘しながら、自ら暴言まがいの発言をされる行為はまさしく本末転倒であると指摘せざるを得ません。しかも、被依頼者はかつて依頼者に対し「頭痛という名前自体がふさわしくない、UsernameBlockだ」との暴言まで書いていらっしゃる。これが初めてのことではないのです。被依頼者には、このような本末転倒的な行為を省みていただきたいと強く思います。
- 私自身の個人的な心情により、ブロック依頼に直接関与する意見の陳述は行いません(コミュニティを疲弊しているか、ブロックするのふさわしいか、など)。被依頼者においては上記2点について何卒ご理解いただき、今後の活動に反映させていただきたいと願います。--ブースカ(talk) 2010年2月25日 (木) 06:28 (UTC)
コメント被依頼者について、私は以下のような特徴を見いだしています。
- 特定の利用者の投稿を追いかけて嫌がらせ・妨害する。依頼者である頭痛さんの提起に反対して回ったり、Dr jimmyさんの会話ページでしつこく苦情をいう(ここでは長期荒らしとされるIPとも協調)のがその典型です。
- 自分の主張をするのみで相手の意見を理解しようとしない。すでに挙げられているカテゴリの改名議論以外に、私の会話ページ、ないしはノート:ジークフリート (楽劇)が参考になると思います。
- 自分の行為に無自覚・無反省。これまでDr jimmyさんの会話ページや被依頼者の会話ページでもたびたび指摘・注意を受けていますが、まともに応答しておらず、今後も同様の行為を繰り返す見込みが大です。
- すでに触れましたが、私は過去に自分の会話ページとノート:ジークフリート (楽劇)で被依頼者と接触を持ちました。被依頼者の趣旨はワーグナーの楽劇『ニーベルングの指環』の各作品について「序夜、第1日、第2日……」としているものを「序夜、第1夜、第2夜……」に変更するべきというものでした。被依頼者はこれについて、「Abentは一日のはじまり」だとか、「Tagだけで~日と書かれると、正確でないという点では、夜以上である」などといった独自の主張をしつつ、こちらの意見については気ままに端折って勝手な解釈をしています。かつ、自分は「ワグナーとヒトラーにはかかわりあいたくない」などと捨て台詞をいいながら、しばらくするとまた戻ってきて同様な主張を繰り返すという支離滅裂なふるまいに、閉口させられました。これらから私は被依頼者は「わかりたくない人」だという感想を持ち、当該議論の終了(被依頼者は会話ページで、ご自分が持ちかけたコメント依頼への質問を「つきまとわれるのは迷惑だ」といっています。)後、参加者であった汲平さんにお礼と感想を述べたところ、被依頼者はこれを恨んだようで、5ヶ月後になって文句を付け、その後Wikipedia:規則の概要での私の編集を差し戻しました。この差し戻し理由も、例によってわけのわからないものですが、被依頼者の投稿傾向から、目を付けた利用者を狙い撃ちしていることに気づき、私の投稿を追いかけて嫌がらせしているのだと判断しました。
- 私は楽しみのためにインターネットやウィキペディア編集をしており、被依頼者のような方の相手をするのはむしろ苦痛でしかありません。これ以上つきまとわれるのは非常に迷惑なので、そのまま長期ブレイクしました。しかしこの結果、頭痛さんやDr jimmyさんに被依頼者の攻撃が集中したことは、たいへんお気の毒だと感じています。被依頼者のこうした行為はすでにかなりの長期間にわたっており、率直に言って改善を期待するのは無駄だろうと思います。--みっち 2010年2月26日 (金) 11:01 (UTC)
コメント「自分の主張をするのみで相手の意見を理解しようとしない」とのみっちさんの指摘に同意します。コメント依頼というのは第三者の意見を拝聴しましょうという場のはずですが、Wikipedia:コメント依頼/頭痛をみると、意に沿わない意見を書いたブースカ氏にKAGEROU氏は「再度のコメントは一切必要ありません」と言い放ち、ほとんど自分の演説の場にしてしまっています。わけのわからないコメント依頼といいブロック依頼といい、他の参加者に対する妨害行為を継続していると言って過言ではない状況ですので、ブロック依頼もやむを得ないと感じました。--Kojidoi 2010年2月26日 (金) 18:34 (UTC)
コメント みっちさん同様ノート:ジークフリート (楽劇)で関わり合った者ですが、ご自分が提起した議論でありながら、真摯に議論しようと言う姿勢は見られず、議論の相手を愚弄するような発言を繰り返されます。議論を促した事に対して「あなたにつきまとわれるのは迷惑です。」と言われたのは、さすがに「・・・?」でした。その後の活動は存じませんでしたが、ご本人が特定の利用者につきまとっていたのですね。率直に言って、議論をすればすれだけ疲弊させられる方だとの印象です。--汲平 2010年2月27日 (土) 08:37 (UTC)
コメント 「コミュニティを疲弊させる利用者であるか」についてはそうである、と考えます。Wikipedia:コメント依頼/頭痛では、被依頼者に対しては当然として、依頼者に対しても皆さんのコメントを募り拝聴して自己を省みる場であるはずですが、その正しい利用方法を理解できるレベルまで至っていないようです。そしてブースカさんへの暴言。コメントにある他のページを拝見しても「他者への上から目線」の多さが目に余ります、これが他の編集者に対し非常に失礼な行為なのは明らかなのですが、それを指摘された際に自己反省するという当然の行為ができず、それどころか逆に相手を攻撃する。どうも被依頼者は周囲の認識とは異なり「自分は偉い大人だ」と思っていらっしゃるようだ、というコメントを送り閉めさせていただきます。--Springtide 2010年3月1日 (月) 03:25 (UTC)
まとめ
編集皆さんコメントをお寄せいただいてありがとうございました。開始から一ヶ月ほど経ち新規のコメントも付いていない状態ですのでいったんまとめに入りたいと思います。
まず、いただいたコメントのおかげで被依頼者の問題点ははっきりしたと思います。論拠を出典の形でしっかりと提示しないまま独自の主張を続ける点は私の関わっていないノート:ジークフリート (楽劇)でも同様であり、同じような問題行動を複数の場所で起こしていたことが確認できました。議論相手へのつきまとい的な行為や、他者の忠告を聞き入れず自分勝手な解釈をするなどの点も同様であり、コミュニティを疲弊させるユーザーであると言う点も概ね同意が得られていると思います。
ただし、このコメント依頼以後被依頼者は編集を行なっていないようです。このコメント依頼から自分の意見・態度に賛同者がいないことがはっきりしたことからWikipediaでの編集をやめたのかもしれません。したがって、少なくともWikipediaでの編集再開が確認できるまでは、ブロック依頼などの対処は見合わせることとし、さしあたり本件はクローズということにしたいと思います。ご協力ありがとうございました。--頭痛 2010年3月24日 (水) 03:47 (UTC)
- KAGEROUさんは編集を再開されたようです[14]。とりあえずご報告まで。--超 2010年5月22日 (土) 09:41 (UTC)
- しばらく止んでいましたが、なにごともなかったように私が参加しているノートに現れました。--頭痛 2011年10月8日 (土) 19:05 (UTC)
今頃になって被依頼者からコメントが付けられたので一応それに対してコメントを。まず、ここは被依頼者の議論態度が議題であって、国文学と日本文学が同じかどうかといった話題は別の適切な場所でやってください。(そもそも私は国文学と日本文学がイコールだなどという主張はしていないし、件の議論は「Wikipediaにおけるカテゴリの名称として一番ふさわしいのはどれか」という前提の上での議論ということを被依頼者がどうしても理解できなかった、そして未だに理解できていない[15]、ということにつきると思います。)ある程度批判を受け止めようとうする姿勢は見せていますが、長期間のクールダウンを経たうえでもなお、自身に存する問題の本質を理解するには至っておらず、依頼者(私)への人格攻撃と自説への固執に終始されているのは残念です。依頼者は現在あまり時間が取れないし、投稿ブロックについての考え方も変わってきましたので、さしあたりこの話題について再度身を入れる気はありませんが、現在の態度を被依頼者が続けるのであれば再び利用者の問題として他者からの指摘を受ける事になるでしょう。本件はこれでクローズし、以後私からの書き込みは行ないません。他の利用者の方は、もし必要があれば再度の依頼をお願いします。--頭痛 2011年12月4日 (日) 13:14 (UTC)