「私人」「政治家、またはそれに準ずる」について 編集

事件・犯罪と氏名の掲載について 編集

Wikipedia:削除依頼/証人喚問にて、証人喚問された人物が政治家に準ずる扱いになる、という意見が出ています。このあたりの問題に関して、法律的バックグラウンドをお持ちの方はいますでしょうか。もし、可能なら、このページでよいので、「私人」または「犯罪被疑者の氏名秘匿」に該当する場合、「政治家」もしくはそれに準ずる扱いになる場合の、それぞれの判断基準を教えてもらえないでしょうか。Wikipedia自体の法的準拠がいろいろなところで問題化しているので、本当は全面的に方針を見直さなければいけないと思うのですが、とりあえず、目に付いたところで、この問題で。ゆきち 2005年12月15日 (木) 03:43 (UTC)[返信]

削除依頼で「私人だから実名表記は削除」という意見をよく見ますけど、そのようなルールはそもそも存在しないと思うのですが。Wikipedia:削除の方針にも「積極的に実名を用いて活動しているスポーツ選手・研究者・作家・芸術家・アーティスト・芸能人」に関しては実名表記してよいとされていますし、だいたい政治家など公職にある「公人」に対するそれ以外の人という意味での「私人」という理由だけで実名表記できないなら、政治家以外の名前はWikipediaに全く記載できなくなるという馬鹿げた話になります。Hermeneus (talk) 2005年12月15日 (木) 04:03 (UTC)[返信]
犯罪被疑者に関して「政治家以外かけないじゃないか」というのは、僕はありだと思います。Wikipediaは別に犯罪目録じゃないので。あと、Hermeneusさんの主張の法的根拠はなんでしょうか。申し訳ないですが、意見ではなくて、法的根拠を知りたく思っています。ゆきち 2005年12月15日 (木) 04:17 (UTC)[返信]
単に私人かどうかのみでなく名誉毀損/名誉毀損罪に当るかどうかだった筈です。証人喚問はその性質からして事実のみの記載であれば名誉毀損には当らないでしょう。余りこの話とはかぶりませんが、名誉毀損の主張があった場合の法的状況の判断と法的対応に関する議論等があります。流れとしてはスーパーフリーの削除依頼辺りから現在の傾向が出来てきたようです。johncapistrano 2005年12月15日 (木) 04:30 (UTC)[返信]

犯罪被疑者の場合は、前科の暴露が名誉毀損にあたることが法的根拠です。ウィキペディアはニュースサイトではなく、何十年も読みつがれ修正を加えられることを想定する百科事典ですから、これは必要なことです。証人喚問された人の名前を証人喚問の文脈で記すのは、公益性の観点から可となるでしょう。他にプライバシー侵害を避けるための実名回避がありますが、その境界は私にはよくわかりません。Kinori 2005年12月15日 (木) 05:50 (UTC)[返信]

ちょっと問題の整理をしておきたいのですが。

顕在化しているものとして、「犯罪被疑者名を記載していいかどうか」と「私人であり項目として不適当」という2つのケースがあります。この2つのケースは分けて考えた方がいいだろうと思います。犯罪被疑者の名前を記さないというのは「当該事件項目の存在の是非は別として、その中に氏名を記すべきではない」という主張を伴って表面化するもので、「私人であり項目として不適当」というのは多くの場合「項目としての存在を認めるべきではない」という主張を伴って表面化します。前者は名誉毀損などの問題が関係し、後者はプライバシー侵害などの問題が関係するもので、かなり性格が異なります。

削除要請における私人性の問題は、この両者が混在しているので、どちらについて論じるかを明らかにしないと混乱する可能性が高いです。両方について論じるのであれば場合わけをした方がいいでしょう。個人的には、私人性問題はけっこう連続して起きているように思うため、両者についてそれぞれ論じておきたいように思いますが。

--Nekosuki600 2005年12月15日 (木) 06:08 (UTC)[返信]

最近起きたばかりの事件・事故の場合、事態の真相が不明な内に噂やら「祭り」やらが発生しますから、その一部としてWikipediaが利用されることを避けたい、という部分が大きいと思います。そのへんもはっきりさせた方がいいかもしれません。 -- NiKe 2005年12月15日 (木) 06:19 (UTC)[返信]

速報問題とはちょっと分けておいた方がいいと思います。阿部定事件と実父殺し事件との境目をどうするのか、みたいな古い話もありますし(「阿部定」だって実名っちゃあ実名なんだよなあ)。--Nekosuki600 2005年12月15日 (木) 06:25 (UTC)[返信]

該当する話題は「Wikipedia:削除依頼/証人喚問」をみてください。要するに、犯罪被疑者の場合、氏名秘匿が原則ですが、今回の問題は、証人喚問を行ったことによって、「政治家に準ずる」という解釈がなされている点です。それに付随して、従来までの記事中にも、犯罪被疑者の名前が出てきたケースがあり、これについて、どういう判断を下したらよいか、という点について問うています。従って、単なる私人/公人の話題とは、一線を画します。証人喚問など、政治的な動向に私人が関わった場合、これを公人として扱うのか、ということです。まあ、分かりにくいのは、申し訳ないです。ゆきち 2005年12月15日 (木) 06:22 (UTC)[返信]

なんかこの問題も「氏名の記載=名誉毀損」といった短絡的な理解があるようだなあ、という印象を持ってます。まあ「わかりやすい基準」として「氏名の記載の有無」を持ってくるというのは、あまり深く考えてくださらない方向けのガイドラインとしてはありかもしれませんが。
「氏名が記載されていれば名誉毀損が成立、氏名が記載されていなければ名誉毀損は不成立」という話はありません。氏名が記載されていても単なる公知の事実にすぎなければ名誉毀損の成立は考えにくいし、氏名が記載されいなくても個人特定が可能で不適切な表現があれば名誉毀損が成立する可能性があります。
犯罪の被疑者・有罪判決を受けた者に関しては、Wikipedia独自のガイドラインとして「記載しない」となっています。このガイドラインについては、「名誉毀損のおそれを包括的に抑制するため」であり「Wikipediaは個人を処罰するための場ではない」という理由と思われます。よって、この範囲については不記載ということで、争う必要はないでしょう。
で、証人喚問を受けたケースや、個人的な実績となんらかの犯罪や事件との関係が密接なものについては、上記の原則をふまえた上で、個別具体的に検討するしかないのではないでしょうか。あいまいなところはありますし、面倒でもありますけれれども。なお、こういったケースで「氏名の記載を容認すべき」という議論結果が出たとしても、なんらかの弾劾的意図で氏名と評価を並べたがるひとや、おまけでプライバシー曝露をしようとするひとが出ることは用意に想定できます。ですから、氏名記載を容認した場合にはそういった悪意に基づく記載がなされないよう監視を強める必要がでてくるでしょう(監視するのがめんどくさい場合、安全側に倒して「氏名記載をすべき積極的な理由が危険性を下回る」と構成して氏名記載を否定するということも、当然あり得ます)。
--Nekosuki600 2005年12月15日 (木) 08:35 (UTC)[返信]
Wikipedia:削除依頼/証人喚問」にも書きましたが、証人喚問日本国憲法における意義を考えた場合、その事実を隠蔽する事は公共の利益並びに立憲主義という日本国の法体系にある原則に反しているのではないか?そもそも証人喚問は犯人探しの場では無く、国政遂行において重要と思われる事項に関する事実関係を調査する場であり、憲法解釈上の建前上あくまでも「刑事被告人を調査対象者」としているわけではなく「調査対象者が刑事被告人となった」と見るべきである。更に問題の一件は今後被害者に対する公的資金(国民の税金)による補償措置が取られる可能性ががあり、その場合には対象者が私人・あるいは刑事被告人であったとしてもその事実関係の記述を避ける事は困難であると思われる。--水野白楓 2005年12月15日 (木) 11:59 (UTC)[返信]
その観点からも、「何が語られたか」について記述することには意味があるかもしれませんが(現時点で速報的に記述することに意味があるかどうかには、今は踏み込まない)、「証人として喚問された者の氏名が重要な情報であるかどうか」については別途検討する必要があるでしょう。証人喚問がなされたからといって即座に氏名を記載していいという結論になるかどうかは別問題ということです(もちろん、検討の結果「記載していい」という結論となる可能性があることを否定するものではありません)。--Nekosuki600 2005年12月15日 (木) 18:52 (UTC)[返信]

止まってますんで、改めて整理を兼ねて。

事件・犯罪の関係者の氏名掲載についてですが、論点は「プライバシー侵害になる可能性がある(不掲載方向の理由)」「名誉毀損の訴訟リスクがある(不掲載方向の理由)」「事件・犯罪を同定するための手がかりとしての氏名掲載の必要性(掲載方向の理由)」「事件・犯罪を説明するための氏名掲載の必要性(掲載方向の理由)」といったあたりになろうかと思います。他に、現象的には「記事に氏名をあげつらうことでバッシングしたい」というケースが考えられますが、これはまあ論外ということで。

で、いずれにせよきっぱりと割り切れるものではなく、どのあたりでバランスさせるかという問題になってくるんだろうと思います。政治家・公人などについては氏名掲載がOKになっているわけですが、これらにしたって「プライバシー侵害の可能性」や「訴訟リスク」がないと断言できるわけではない。じゃあなんで掲載が許されるのかというと、政治家・公人については多くのケースで「その政治家・公人としての立場が、事件・犯罪の内容と密接にかかわるものである」ことや「政治家・公人には高いモラルを求めてよい」といった理由から、まるっきりの無名私人とはバランスポイントが異なるためでしょう。

さて。そしたらまぁ、氏名を掲載していい場合とよくない場合とかってのは、そんなに不明確ではないのではないかと思うんですね。おれが考えるところでは、こんな感じでしょうか(あくまでもこれはおれの感覚なんで、違うというひとは意見の開陳をどうぞ)。

  • 事件・犯罪の同定に氏名掲載が有益である場合
典型例として「阿部定事件」など。
マスメディアなどを通じて事件名として人名を含むものが報じられ、それがある程度認知されてしまっている場合。あえて別の名称などに言い換える必要はないでしょう。たまたまいまマスメディアで名前が取りざたされている、という程度のものは含める必要はないと思います(当面のポインタとしてリダイレクトを置いておくという程度はあり)。
  • 事件・犯罪の内容理解に氏名掲載が有益である場合
典型例ではないが、たとえば「旧石器捏造事件」など。
登場人物の立場などが特異なものであり、事件・犯罪の内容に「その者であったこと」が密接にかかわる場合。その者としての実績やそれまでの評価が関係する場合には、その名がポインタとして機能し続けてしまう可能性が高いため、内容理解のためには氏名掲載が有益である可能性ある。

もちろん「プライバシー侵害」「名誉毀損」などのリスクをあえておかす必要はないわけで、事件・犯罪の内容説明に役立たないワイドショー的なプライバシー情報や過度に批判的な文面は避ける必要があります。ただ、抑制的な批判的指摘くらいであればそうそう問題になるとは思えない。また、プライバシーの侵害性や名誉毀損性についてはマスメディア報道などの方が(事件直後は特に)はるかに激越であり、Wikipediaが狙い打ちにされる可能性はあまり高くはないとも思います。

で、あとはこう、個別判断をやっていくしかないんじゃないのかな。面倒かもしれませんが、事件も犯罪も個々に異なる様相を見せるものなのだし、そうそうきっぱりと割り切れる基準なんかはあり得ないわけで。

--Nekosuki600 2005年12月21日 (水) 18:25 (UTC)[返信]

ついでに、もうちょっと広い「私人性」の問題について 編集

問題提起者より「犯罪報道における実名問題が主たる話題である」という釈明がありましたが、「私人の取り扱い」そのものも密接に関係する話題であると考えるため、小項目を立ててそれも話題提起しておきます。--Nekosuki600 2005年12月15日 (木) 06:27 (UTC)[返信]

削除依頼に、「私人である」といった理由での項目削除要請が出される場合があります。現時点で、悪魔と神フクダユウイチ桑田潔五十嵐文郎などの項目が「私人である」という理由での削除要請に出されています。何をもって私人であると考えるのかということも、ついでに論じておくことを提案します。

私人の項目を立てないという主張の根拠は「プライバシー侵害のおそれ」「検証不可能性」あたりではないかと思います。また、ネット上の有名人・トリックスターなどの場合は、生没年・経歴などが伏せられていることが多く、通常の人物項目に記されることが多い情報がないことから、人物項目用のスタイルに照らし合わせると「スタブ」になってしまうという問題もあります。

しかしなんですな。たいていの人は、テレビタレントでもない限り、あまねく名前や存在が知られているということはない。専門分野の中でのみ有名なひとは、その専門分野を出てしまったらもう無名な私人にすぎないわけです。その専門分野の中での「存在の公共性」のようなものは、専門外のひとには見えないものです。そういったケースで「私人性」を理由として判断できるのだろうか。

私人であるから項目は不要、というのはちょっと安易です。「たまたま一般的に有名ではない(そして問題提起者も知らなかった)」というだけの理由を言い換えただけのものにすぎない可能性が高い。せめて「プライバシー侵害のおそれ」や「検証の不可能性」あたりまで踏み込んで問題提起をすべきではなかろうかと思うのであります。 --Nekosuki600 2005年12月15日 (木) 06:40 (UTC)[返信]

閉じた世界の中で有名であるというだけでは、百科事典に掲載すべきではないと思います。Wikipedia:ウィキペディアは何でないか#ウィキペディアはナレッジ・ベースではありませんの「家系図や人名録ではありません。」をよくお読みになってください。
また、該当記事の削除依頼サブページにてご自分の意見が通りそうもないからといって、事後的に井戸端にて議論を提起し、「議論が進行中であるから削除はやめるべき」という主張をなさるおつもりでしたら、おやめください。--210.228.201.251 2005年12月15日 (木) 08:13 (UTC)[返信]
すみませんねえ。「有名である」ということと「閉じた世界で有名である」ということとの違いを説明していただけると幸いです。というか、私人性の問題は、記述される対象の側の属性問題ではなく、なにをもって「有名である」と認識するのかという評価する側の属性の問題になってきていないか、というのがおれの指摘なんです。
後段については、性急な処理を行うべきではないということのみでございます。また、この大項目の初期のコメントに私人性問題が出てきていたことから、改めて問題を提起したものです(問題提起者が否定的意見表明をしたため、改めてこういう問題もあるということを明記したという経緯)。
--Nekosuki600 2005年12月15日 (木) 08:41 (UTC)[返信]
百科事典として特筆すべき業績を残しているかいないか、社会に影響を与えたか否か、が採用可否の基準になるのではないでしょうか。「記載されている内容が特筆すべき事項か」という点で議論になるのならわかりますが、「検索してもヒットしないし、自分も知らないから不要」という論調が強くなっているのは気になります。--Tamago915 2005年12月15日 (木) 09:16 (UTC)[返信]
そうですね。特に「ちょっと前の出来事(具体的には1970年代~1990年代あたり)」については、Web上の情報が浅く、検索してもヒットしないことが多く、かといって歴史としてまとめられているほど遠い年代でもないため、実質以上に価値が低く見積もられるという傾向があるように思います。個人的な経験をあげれば、熱海オーシャンカップなんか、いちおう日本選手権がかかった国内最大のビッグレースだったのに、インターネットがはやりはじめたあとの年代には行われていないためWeb上ではほとんどヒットしません。まあWebの検索は便利ではありますが、その結果を鵜呑みにして社会的価値を推し量ることには限界があるのだというあたりを認識していただければと思うのですが。--Nekosuki600 2005年12月15日 (木) 10:00 (UTC)[返信]
その分野において「有名である」というだけでは、百科事典に掲載すべきでない内輪ネタの延長上と捉えられてしまうかと思います。「有名である」以外にウィキペディアはナレッジ・ベースではありませんにいう「大きな業績を残した」ことが必要かと思われます。ここではなく個別記事にて、客観的且つ具体的に例示していただけるとありがたいです。--210.228.201.251 2005年12月15日 (木) 09:26 (UTC)[返信]
さて、「その分野において『有名である』」の「その分野」についての価値判断というのが、そこに介在していないでしょうか。たとえば分野が「法律学会」だったらどうか、「建築業界」だったらどうか。「文筆業」「アニメーション業界」「芸能」「生物学」「理論物理学」「パソコン通信」など、いろいろな業界を外挿して考えてみるといいと思います。
有名というのには、プラス評価(famous)もあればマイナス評価(infamous)も含まれます。現状ではプラスなのかマイナスなのかわからんけどとりあえず有名ではある、というのももちろん含まれます。また、一時期は確かに有名であり時代を象徴したり転回点を示したりしたが、おそらく今後はもう二度と名をとどろかせることはないだろう、なんてのもあります。
「分野それぞれに対する個人の評価」「同時代性」などの、評価者側の評価が、記載するに足りるか記載するほどの価値がないかという判断に大きな影響を与えているということは確かだろうと思う。最低限、そこのところで共通認識があれば、その評価差の部分での議論や合意形成に向けての努力ができるかもしれません。しかし現状、そのレベルまではなかなか行かず、「評価者自身が、自己の評価を疑わない」ために、その自己評価に基づく結論を言い募るといった現象がたいへん多く見られるように思うのです。
--Nekosuki600 2005年12月15日 (木) 10:00 (UTC)[返信]
もう一点。
確かにまあ、記事内容がスタブであり、その項目の存在意義が十分に書かれていないというケースは多々あります。その項目について知っているひとにとってはとにかく知らないひとにとっては、説明不足が原因となって「書かれるだけの内容がないのか、書かれるに足りる内容はあるのだがいまだ書かれていないだけなのか」の区別がつかないといったことは、あるでしょう。
しかしここでお考えいただきたいのですが、Wikipediaでは「書かれるに足りる内容はあるのだがいまだ書かれていない」という場合には、削除で対処するのではなく加筆を待つのが正しい。
一方で、項目を立てるひとに対して「わかっていることは全力で書け。調べる気もないんだったら安易に項目を立てるんじゃない」ということを言いたいとは思ってます。削除要請だ即時削除だに出されたものについてほんの5分くらいでぐぐって加筆しただけで救済できちゃった項目はけっこうたくさんあるわけですが、そのくらい最初に項を立てるやつがやっておいてくれれば問題なかったはずなんだ。他人に尻拭いさせんなバカヤロー、と夕日に向かって叫びたくなることは珍しくないです。しかしだ。だからといって、「重要性がよくわからないから削除」というやり方が正当化できるとも思いません。それは「5分ぐぐるという労力もかけずに項目を立てる」のと、姿勢としては大差ないんじゃなかろうかと思うのであります。
けっこうメジャーどころの人物・事物についても目を疑うような削除要請がけっこうあります。特定分野ネタになると、「その分野では有名」「その分野では実績が大きい」人物・事物が、おれも気づかないようなレベルで無造作に削除されているのではないでしょうか。こういうのは、すごくこわいことだと思うなあ。
また、個々の記事について客観的かつ具体的に加筆をして救済するということはこれまでにもやってきましたが、これからも暇をみつけてやっていきたいと考えております。
--Nekosuki600 2005年12月24日 (土) 18:55 (UTC)[返信]

回答を待っていたら「議論が止まっている」とか言われてしまったので、未読作りを兼ねて書いておくわけなのですが。

百科事典に掲載するに足りる実績というのはどういう基準で選ばれるものなのでしょう(そもそも「百科事典というのはどういうものか」という問題も、この手のことを議論するたびに争点になるんだけど、それはまあちょっと置いておく)。

たとえば、「オスカー・シンドラー」なんてひとがいます。トマス・キニーリーの本が出たあたりで知る人ぞ知る程度にはなっていたんですが、それまではまあ無名でしたわね。また、第二次世界大戦が終わったあとはたいしたことをやらずにお亡くなりになったようです。人生の一時だけ、すごく限られた世界でのみ、輝いたひと。トマス・キニーリーが本を書かなかったらおれはやつのことを知らなかった。スピルバーグが映画にしなかったら、たぶんあなたは今も知らなかったに違いない(あ、おれと同時期あるいはそれ以前に知ってたひととか、ごめんなさい。でも大多数の日本人は、いまだに知らないままでいたはずなんだというところには同意してもらえると思う)。

私人については、まあなんだね、「検証可能性」というまたひとつ別の問題もあることは事実だ。だからなんでもかんでも無名個人についての記事を作っていいということにはならない。しかし、ある程度以上の検証ができる程度の人物であるならば、プライバシー侵害や名誉毀損につながらないように注意しつつ、載せておいてもいいのではないだろうか。載せておいたらどういう困ることがあるんだろうか。

よく知らないひとの記事ができたとして、「検証可能性は満たされているか」「プライバシー侵害はないか」「名誉毀損につながる恐れはないか」くらいをチェックしてだいじょうぶそうであれば、あとは通常の記事と同様に扱えば問題なかろうと思う。ついでなんだが、「検証可能性がある」というのをおれが重視しているのは、ある程度の検証可能性があるのならばそいつは何か記録に残す価値があることをやってきたと考えていいんじゃないかと思うからだ(まあこのあたりは、おれが「比較的スタブ記事に寛容である」というあたりも関係しているだろうけれども)。

なお、たとえば「そんなことを言って、ちっちゃな地方自治体の首長、地元の名士みたいなやつの記事がぼこぼこ出来たらどうする」という反論が来そうなんですが、んー、そういう情報もそれなりに面白いし貴重なものではあるのでね。地元の名士であるのなら、それなりに書くべき内容くらいあるだろう。あとは他の記事同様、書き手にめぐまれるかどうかの問題だろうと思う(世間的にマイナーになればなるほど書き手が現れにくくなるという問題はあるわけだが、それもまあマイナー分野が抱える問題と同じなんじゃないだろうか。ま、マイナー分野も、しばしば知らないひとからの削除要請攻撃を受けてるわけで、そういう意味でも似てたりするな)。

--Nekosuki600 2005年12月21日 (水) 18:43 (UTC)[返信]

基本の部分についてはおっしゃるとおりだと(個人的には)思います。
やはり「検証可能性」ということがネックになってくるのではないでしょうか。この場合客観的にその事象について検証可能である、というのもありますが、今いる執筆者で検証可能かということもある程度重視されるべきだと考えます。
将来Wikipediaが発展していき、執筆者も管理者も十分な数になってそれなりにチェックが行き届いてくると「あらゆる事象の網羅」などということも可能かもしれませんが、現段階において地元の名士みたいな記事が量産されると、それぞれについて記述が正しいかどうか確認するのは大変困難だと思うのです。これは現状でも末端記事で放置されている(と思われるもの)がたくさんあること、またこの間の「暗殺」騒ぎなどがあることから推測できます。
また、(どちらかといえば「人」の話ではないのですが)目が行き届かなくなると宣伝行為に利用されるのではという危惧もあります。Wikipediaの記事は検索で上位に来ることもあって、宣伝(バイラルマーケティングというのですかね)のために編集がされることは十分考えられます。このあたりは難しいですが、露骨にやられたときに気づけなかったりすると後々問題になってくることもあるでしょう。
そうしたことを考えると、仮に宇宙大百科を目標にするとしても、まだ今の段階では便宜上少しハードルを高めにしておいたほうがいいんじゃないかなという気がします。執筆者の分布状況を見ながら少しずつ範囲を広げていけば良いと思います。最終的には「目指す百科事典はどういうものか」ということになるのでしょうが。なんだかまとまりのない文ですみません。
ただ、まあ、アニメ記事など架空のもの(人為的に特徴が設定されたもの)は検証可能性という意味では容易なものの、それだけをもって単独項目を許せば収拾がつかなくなる気もしないではありませんが・・・(偏見)たらこ 2005年12月22日 (木) 11:03 (UTC)[返信]
ま、「検証可能性」のみを基準に判断するとアニメ記事の量産などの悪影響が考えられますが、基準は検証可能性のみではありませんから(個人的には、あえて分割する必要がないような項目については、がんがん統合やリダイレクト化をしてしまえばいいと思っていますが、そうはならずに削除要請に出されることが多いのはなんなんだろうという疑問を持ってたりしますけどね)。
検証可能性に問題がある一般的には無名なひとの記事が作られた場合の手続きですが、「検証可能性についての検討」をすればいいと思います。で、現時点で検証可能性に問題があるということになれば削除でいいでしょう。
少なくとも現在多発している「私人である」という理由の削除要請については、実際に「そのひとが私人であり特筆すべき業績がない」のか、それとも「削除提案者がたまたま知らなかったため私人であり特筆すべき業績がないと思い込んだだけ」なのか、わかんないのですよ。さらに、投票結果に拘束されるわけではないにせよ、単純多数決では「マイナー分野の事物人物が不適切な削除判断を下されることが多い」という問題も解決されません。その点の解決策として「検証可能性」をクローズアップするというのは、悪い方法ではないように思うわけです。
--Nekosuki600 2005年12月23日 (金) 06:32 (UTC)[返信]

リヴァーベンド」とか「キム・ロンジノット」などという、考えようによっては超マイナーな記事をたまに投稿いたします関係上、「検証可能性」には関心があります。もっともロンジノットはカンヌの受賞で、もはやマイナーとはいえません。でも、チャネルフォー (Channel 4) のテレビ番組を毎日見るイギリス人には知名度が高くても、日本での知名度ということになると依然として超マイナーでしょう。日本を題材にした映画は、マイナーな単館映画として、そこそこの興行収入を得て日本でも一部に熱心なファンが存在するらしいことも窺えますが、映画としての収入の大部分はチャネルフォーなどテレビ局からの放映権だろうと思います。著書もなければ、日本のマスコミ報道も、いくつかの小さなカコミ記事(ミニコミは別ですが)しかなく、日本での「検証可能性」はきわめて低いため「業績の少ない一私人」と言われても弁明のしようがなく、投稿用の原稿をハードディスクに暖める期間が長く続きました。検証可能性の低さで「不要な記事」とされるのを怖れ、長らく投稿を躊躇していたんです。今年カンヌを受賞し、「日本版ウィキペディア」ではなく「日本版ウィキペディア」であり、英語版に記事があったこと、など条件が揃ってから投稿いたしました。このように知名度ひとつをとっても、ひとくくりにしてしまえない事情があります。日本語版ウィキペディアには、知名度の低い人物を「私人」と決めつけ、「百科事典には不要」と排除(削除)される傾向、あるいはその危険性がありますし、また削除依頼にならなくとも、ノートなどで「業績がない私人」と指弾を浴びる可能性もあるわけです。百科事典として意味のない記事が大量に投稿されるのが困るという意見が時々みられますが、そうおっしゃる方に「日本版ウィキペディアには駅関係の記事が大量にありますが、そのことでお困りになったことはございますか?」とお尋ねしたくなります。財団の資金力に限界があることは承知していますが、だからといって安易な削除依頼が横行するのは、一種の頽廃だと思います。Wikipedia:削除依頼/悪魔と神 (ハンドル)の削除の趣旨を述べた文章には、たったひとこと「私人であるようです」の一文しかありません、「であるようです」と賛否表明者に丸投げする表現も問題ですし、これが適正な削除依頼と呼べるのか、非常に理解に苦しむところです。
- Opponent 2005年12月23日 (金) 10:05 (UTC)[返信]

(承前)前回冒頭に挙げました「リヴァーベンド」の場合にも「検証可能性」について「私人性」に多少は関係する、別の次元の問題を孕み得るので少し触れておきます。リヴァーベンドを「名乗る」執筆者のブログそのものは、"Riverbend - Baghdad Burning"(英語公式ブログ)、"Baghdad Burning"(日本語訳)、"Bagdad en Llamas"(スペイン語訳)の三つがあり、インターネット上ならばいつでも検証は可能です。さらに英語で二冊、日本語で一冊が出版されており、本からも検証可能です。ところが「リヴァーベンド」を名乗る人物が、実在の人物であるかどうか検証できない、という難点があります。たとえば、複数の人物が手分けして執筆している可能性や、バグダードに在住していない可能性など、は否定できません。このことは日本で出版の際にも問題になりましたし、おそらくユリシーズ賞選考の際にも注意深く検討されたはずです。さらに、著名なブロガーであることは事実ですが、ブログ上の仮想人格「リヴァーベンド」による執筆以外の領域において、執筆者は実在する正真正銘の「私人」にほかなりません。おそらくNSACIAイラク移行政府など、リヴァーベンドが敵と見なした勢力は、血眼(ちまなこ)になって「私人」である執筆者を追跡・捜索しているに違いありません。そこで、仮に執筆者が追跡者(NSA、CIA、イラク移行政府)によって拘束・逮捕されたとしても、現在はブロガーとして世界中から注目を浴びている事実を「百科事典に掲載するに足りる実績」とみなし、これまでに少なくとも三冊の本が刊行された事実や、ユリシーズ賞を受賞した事実も「百科事典に掲載するに足りる実績」とみなし、そして「キム・ロンジノット」同様、英語版に記事があったこと、などの諸事情を考えあわせ、英語版にみられる「若い女性」などの断定表現を避け、「推定されている」との表現で投稿いたしました。時代状況の変化によって、今後削除対象になる可能性はありますが、検証可能性の幅をひろげておくためにも出版社のリンク、米原万里さんの書評や他マスコミによる書評などのリンクもあわせて掲載しました。いずれも出版の事実、書評の対象になった事実で、「様々な外部の情報源において取り上げられている」ことを検証可能にするためでした。以上が記事「リヴァーベンド」の投稿経緯です。/なお、前回末尾に「理解に苦しむところです」と申しました「Wikipedia:削除依頼/悪魔と神 (ハンドル)」について、削除依頼提案者の利用者‐会話:Yukichi99に、再考をお願いする文書を掲載したことを付記いたします。
- Opponent 2005年12月24日 (土) 09:24 (UTC)[返信]
リヴァーベンドについては、リヴァーベンドという「事象」が確認できればよいのであって、「人物(中の人)」を検証することは必ずしも必要でないでしょう(実在するか不明なら、その旨記事に書き加えればよいのですから)。まあ、あれだけ報道でも取り上げられれば個別の記事としては問題ないとは思いますが。たらこ 2005年12月25日 (日) 03:06 (UTC)[返信]
ま、それはそうなんです。でも「この記事は、特定個人の評価を行うものでは無い」(いま一つ意味不明ですが)とか、事象に関する「記述を行うのが目的であって、個人の実績を評価するものでは無い」、あるいは出版されたからといって「私人では無い、というのはおかしいです」とし、個人名を記事の名前にしてはいけないというご意見(ゆきちさま@ノート:悪魔と神 (ハンドル))が出て参りました。また、「残念ながら百科事典に掲載するほどの活動歴が記入されていない。ソフトウェアの開発者でもなく」、ブログを「根城とした社会運動をしたわけでもなく、著作がある訳でもなく、この方は何を残したのですか?」というご意見もございました、確かに出版物はありますが他人による出版で、リヴァーベンド自身は単にブログを書いているだけなんです。「リヴァーベンドという『事象』が確認できればよい」とおっしゃっていただけましたが、「事象なら事象名で記事を立てて、そこに書けばよい」「私人の名前は不要」という理屈が出てきたり、「この記事がOKになるとブロガーすべて記事にすることになってしまう」という極端なご意見が出てくることもございます。これがウィキペディアの現状なんですよ。
- Opponent 2005年12月25日 (日) 04:03 (UTC)[返信]
「リヴァーベンドという事象」と申し上げたのは、「中の人はともかくとして、リヴァーベンドとしての活動記録を追っていけばよい」という意味であって、「Baghdad Burning」を指しているわけではありません(もっとも、リヴァーベンドバグダッド・バーニングのどちらで記事を立てるかは別に議論があってよいと思いますが)。また悪魔と神 (ハンドル)については、議論がかみ合っていない部分があるようで、また私が「悪魔と神」という事象を直接には知らないので、リヴァーベンドと並べて議論してよいのかどうかは判断しかねます。
その上で、「この記事がOKになるとブロガーすべて記事にすることになってしまう」という意見を極論と言ってしまえばそれまでですが、それはつまり瑣末なブログ記事ならば排除されるという前提だと考えます。では「著名な/瑣末な」の線引きはどのあたりなのか、判断はどう行なわれるべきなのか。ここで個別の議論だけでなく、私人性(あるいは「検証可能性」など)の意味を検討しなければいけないのでしょう。たらこ 2005年12月25日 (日) 05:18 (UTC)[返信]
全面的に記号論に同意するわけじゃないんですが(言霊論にも耳を傾けるべき側面はある)、しかしまあなんですな、全ての言葉には記号的側面があります。たとえばの話が、「キリスト」という項目にしても、キリストという一個人について語る側面と、キリストによってもたらされた現象について語る側面とがあります(現実問題、キリストという一個人はもう歴史の彼方にかすんでしまって見えないとも言える)。さてその一連の事象をなんと呼ぶのが正しいのか。やっぱ「キリスト」という記号で呼ぶのがわかりやすさという意味ではよろしいんじゃないかと。
個人の名前についても、記号としての意味合いがあります。その記号として個人の名前を使うことには、事象を指し示すポインタとしての長所と、個人の名前を使うことによるプライバシー侵害などの恐れという短所と、両方あるわけです。で、あとはそのバランスじゃないでしょうか(リヴァーベンドとバグダッド・バーニングは、事象を指し示すポインタとしては、おれの感覚ではおおむね等価であり、どっちを使っても良い。少なくとも、どちらかに「もう片方を使うより圧倒的に好ましいという理由」はないように思う)。
ポインタとして機能するであろう個人名の場合、「その事象を指し示すという機能」が重要なのであり、個人そのものはさして重要ではない。プライバシー侵害などの恐れについてのチェックを要件とした上で、その事象を象徴する個人名を項目名として使う分には、問題はないと考えます。何があればその項目として十分なのか(あるいは必要最低限を満たしたことになるのか)は、その項目が意図するところそれぞれであり、必ずしも個人名項目だからって生没年だの出身地だの学歴だのが必要だとは思わないんですよねえ。
--Nekosuki600 2005年12月27日 (火) 10:16 (UTC)[返信]

いろいろ探してみたんですが、少なくとも現時点で、Wikipedia日本語版の公式なガイドラインとして「私人の記事を作らない」というものは発見できていません。関連する可能性があると思われるものは以下のあたりでしょうか。

  • 個人的なページ
  • 個人などを扱い、執筆者やその周辺の人物以外は、内容の正しさや不正確さを検証できない記事。

私人性が問題となる項目はこれだけのように思えます。そして、この条項は、「私人性」に着目したものではなく、「検証可能性」に着目してのものです。なお、参考にすべきものとしては、他に以下のものがあります。

(内容略)

というわけで、「私人性」のみを理由とする削除要請には、Wikipediaガイドライン上の根拠はない、と言っていいと思います。

とりまとめますと、やはり「検証可能性は満たされているか」「プライバシー侵害はないか」「名誉毀損につながる恐れはないか」の3点をチェックして問題がないようであれば、その記事の存在を認めてもいいのではないでしょうか。削除すべきであるという積極的な理由として「私人性」を挙げるのは不適切である。もし削除すべきであると考えるなら、別の説得力のある理由を提示しなければならない、と。

これだけで、世間一般ではあまり有名ではないがそれなりの業績・実績のあるひとの項目が「投票参加者の多くが知らない」というだけの理由で削除されてしまうということは、かなりのケースで避けられるのではないかと思う。

本件、後日「人物」だけではなく「事物」についても同様の確認をすべきかもしれません。マイナー分野の項目が無造作に削除され執筆者の熱意が無にされるというのは、悲しいことですから。

--Nekosuki600 2005年12月24日 (土) 16:31 (UTC)[返信]

Wikipediaガイドライン上の根拠を求めていくと、大方針としてはWikipedia:ウィキペディアは何でないか内の「ウィキペディアはナレッジ・ベースではありません」があります。これをどう解釈するかによるでしょう。たらこ 2005年12月25日 (日) 03:06 (UTC)[返信]
はい。その場合も、「私人である」あるいは「私人性がある」という理由での削除ではなくなると思います。掲載するに足りる業績があるかどうかで判断が分かれる可能性はあると思いますが、少なくとも「私人である」という理由に基づきそれ以上踏み込まずに削除すべきとする主張は、認められる余地がなくなります。業績判断については「その分野についてよく知っているひと」の判断が優先されることになるでしょうから、一歩前進とは言えるのではないかな。--Nekosuki600 2005年12月25日 (日) 06:23 (UTC)[返信]
でだ。とりあえず「私人である」という理由による削除依頼はだめですよってことでいいんでしょうか。無名なひとの場合には、「プライバシー侵害」「検証不能」(否定的記述が多い場合には「名誉毀損」も)などについて慎重な検討が必要ではあるにせよ、単に「私人」というだけでは削除依頼理由の説明としては不十分である、と。--Nekosuki600 2005年12月26日 (月) 05:37 (UTC)[返信]
その方向で話が進められるのはよいのですが、「それで決定」というのであればもう少し多くの人を交えて議論しないと心配です(「私人」というのが辞書的な意味、すなわち公職についていない人ということならこれで終了で構いませんが)。「検証不可能性」って具体的にはどういうことなの、という疑問もあるかと思います。たらこ 2005年12月26日 (月) 14:59 (UTC)[返信]
まあなんというか、「決定」とかいっても実効性はあんましありませんし。でもまあ、現時点で「私人である(or私人性がある)=項目を作るべきではない」という主張は出てきていないわけで。「そういう主張はありませんね?」という念押しくらいならばここでもできるかと。
個人的にはまあなんだ、「検証可能性」「プライバシー侵害」あたりをわかりやすく説明するための方便として「私人の項目は作らない」という言い方をするのはありだろうと思います。しかし、それはあくまでもわかりやすく説明するための方便にすぎず、実はその背景に「検証可能性」や「プライバシー侵害」というものが問題となっているのだということは理解してないとまずいと思うんですね。現状「私人」「私人性」という言葉は、そういう理解を伴うものとして用いられてはおらず、こう言っちゃなんですが思考停止フレーズのように使われている。それがすっごく気になるわけです。それはまずいわけで。
ま、しばらくしたらまた「私人だから」とか「私人性があるから」とかいう理由での削除要請が出てくることになるんだろうとは思いますが、そのときにはこのあたりの議論でも紹介しようかと思ってます。多少は手間が省けるかもしれませんし。
--Nekosuki600 2005年12月26日 (月) 15:45 (UTC)[返信]
だいぶ待ったのだが、「私人である」という理由で削除要請を出していた方とかにもこの議論はご案内したのだが、「私人である、というだけでは削除の理由とはならない」ということについて異論が全くでないので、とりあえずそういうことでいいかな。もっと具体的に書けば、「『私人である』『私人性がある』という理由では削除要請をするには足らず、そういった理由で削除がなされる必要はない。削除するためには、もっと踏み込んで『検証可能性』『プライバシー侵害』『名誉毀損性』などについての具体的な疑義の提出が必要である」ということになりますか。--Nekosuki600 2005年12月31日 (土) 04:24 (UTC)[返信]


いまさらながらひとつ聞きますが、掲載範囲の拡大を行うことによって、不要な、百科事典的でない項目の増加、ならびにそれにまつわる議論の長期化、そしてなによりもその労力の疲弊に付いては、どのようにお考えでしょうか。一歩間違えば、2chの有名コテハンがばんばん書かれることになって、Wikipedia自体の質が非常に下がるのですが。ゆきち 2005年12月31日 (土) 05:01 (UTC)[返信]

少なくとも、「自分が知らないひと」について「私人だから」という思考停止フレーズを理由としての削除依頼がなくなれば、もうちょっと実質的な話ができるようになるんじゃないかと思います。--Nekosuki600 2005年12月31日 (土) 06:22 (UTC)[返信]

公益性とプライバシー 編集

上のほう(Kinori 2005年12月15日 (木) 05:50 (UTC))に、公益性の観点から氏名の記載は可能とする意見がありますが、この場合の公益性とは何を指しているのでしょうか。一般の人々がその氏名を見ることで何らかの利益を得るとはいえず、単に野次馬根性を満たすだけにしかならないと思います。とくに現在進行の事象である場合、あるかどうかわからない公益性よりもプライバシーを重視して、個人を特定する情報は何も書かないくらいの取り決めが必要だと思います。--Tamago915 2005年12月15日 (木) 09:12 (UTC)[返信]

構造計算書偽造問題で言えば建築確認の審査業務の民間委託との関連などで、名を挙げられた人を悪者にするのではそうとは言えないが、事実を明確にすること自体に公益性が含まれるかと。ただウィキペディアは報道ではないので、メディアの後追いは不要。薬害や汚職でも事実解明がやはり公益性に繋がるでしょう。それらと無関係な部分はいずれにせよ削られるかと。johncapistrano 2005年12月15日 (木) 09:43 (UTC)[返信]
事実解明は重要だと思いますが(もっとも、ウィキペディアはジャーナリズムではないので率先してやることではないですが)、個人名を出すことが果たして事実の解明につながるのか疑問です。個人名を出さなくとも事実を明確にすることはできるでしょうし、そういった方向を目指すべきではないかと思います。--Tamago915 2005年12月15日 (木) 09:57 (UTC)[返信]

関係者が少数なら名前を出さずに記述できるかもしれないが同じ立場に複数の人間が当った場合など名前を出さないと判り難いかと。johncapistrano 2005年12月15日 (木) 10:18 (UTC)[返信]

公益性とは何を指しているのでしょうね。難しい問題です。しかし、国会で論じられた問題について語るとき、人名を伏せなかったのは野次馬根性で名誉毀損にあたるという判決が出る可能性は、ゼロに近いとは言えるでしょう。公益性は名誉毀損にあたるかどうかを判断する重要なポイントです。Tamago915さんにわからないからといって無視していいようなものではありません。そういうレベルの話と、よりよい記事内容にしようというレベルの話とは区別して議論していただきたく思います。前者はウィキペディアの存亡に関わる話で、後者は多分に好みの問題です。Kinori 2005年12月15日 (木) 10:24 (UTC)[返信]
国会で論じられた問題を語るときに、誰が証人喚問されたかを書くことは絶対条件でしょうか。私はそうではなく、証人喚問の場で何が語られたかを書くほうが重要で、何が語られたかのほうが公益性を伴うのではないかと考えます。それに、名前を出さなかったからといってウィキペディアが存在価値をなくすとは思えませんし。--Tamago915 2005年12月15日 (木) 12:45 (UTC)[返信]
Wikipediaは「責任追及をすることが目的」で作られているわけではありませんから、責任追及のためにのみ必要な個人特定手段を提供する必要はないように思います。ただ、氏名というのは記号的機能がありますから、識別のために必要になった場合には考慮の余地があります(識別というのは、同事件内での識別にかかわらず、ある氏名が出来事・事件などを特定する手がかりとして重要なものとなった場合を含みます)。また、責任追及目的を伴わないケース(賞賛的であるか、ニュートラルであるか、特に評価を示さず淡々と事実を述べたものなど)の場合には、名誉毀損などの危険性が大幅に低減されることから、氏名を表示することが許される範囲は広がることでしょう(大半の著名人項目などはこれに相当する)。--Nekosuki600 2005年12月15日 (木) 18:52 (UTC)[返信]
公益性があるとは証人喚問を受けた人物名を用いた検索が出来るという意味です。Tamago915さんの言い分には説得力がありません。「何が語られたか」の方が重要としても、それは「誰が証人喚問されたか」を伏せる理由には到底なりえません。(既に世間一般に知られている人物の)名前を伏せるという行為はウィキペディアの情報価値を大幅に破壊します。Sionnach 2005年12月22日 (木) 02:21 (UTC)[返信]
プライバシーの問題も重視していただきたいと思います。一度出てしまった情報を消去するのは非常に困難ですから(記述を消しても誰かが読んで覚えているでしょうし)、プライバシーに関わる情報については公益性より優先して考えるべきではないでしょうか。とくに事件報道に関しては、名前の出た人物にすべての責任を負わせるような風潮もありますから、なおさら実名の公表には慎重になるべきであると考えます。--Tamago915 2005年12月22日 (木) 04:05 (UTC)[返信]
誰もが知っているこれ以上評判の悪くなり様の無くなった人の実名を掲載した責任をウィキペディアに問われるとは考えられません。実名を公表されて困る人が居れば考慮できますが、既に公表された実名を再掲して実害を被る人が存在するとは思えません。無い袖は振れないと思います。この様な場合、名前の掲載を禁止せずに記載内容に関して厳重注意・監視すべきです。その人物に関する情報が既に隠し様の無い公知の事実であれば記載して問題はないでしょうが、ウィキペディアがその情報を公知の事実にする手伝いをするのは百科事典としての存在理由を逸脱しています。この様な方針でいかがでしょうか。Sionnach 2005年12月22日 (木) 09:23 (UTC)[返信]
誰もが知っている、に異議があります。今日明日の段階なら誰もが知っているでしょうが、1年、2年後に誰もが個人名を覚えていられるかどうかというと、覚えていないだろうと思うからです。1年、2年先の時点で、名前を公開して(表現は悪いですが)さらし者にしておくことが果たして望ましいことなのか、考慮していただければと思います。記載内容に関しての注意、監視は必要だという意見には賛同いたします。--Tamago915 2005年12月22日 (木) 10:08 (UTC)[返信]
公知の事実でも名誉毀損は成立するんです。例えば、現在削除依頼になっているWikipedia:削除依頼/ロス疑惑のようなケースがそれです。この事件の被告とされた方は、マスコミ相手に多数の名誉毀損の訴訟を提起され、連戦連勝、勝訴でなくとも和解に持ち込み、負けたケースはほとんどないという実績をお持ちです。また、三億円強奪事件で容疑を受け、連日実名報道された方も、容疑が晴れたのちに損害賠償を提起され、こちらも連戦連勝。一部の図書館では新聞や雑誌のバックナンバー、新聞の縮刷版などに至るまで、実名部分を閲覧禁止にさせるという成果を上げられました。何十年もかかりましたが、逆にいえば何十年も苦しめられたといえます。もちろん勝訴しても、たいしたお金にはなりません。ほとんどは訴訟費用や弁護士費用に消えてしまいます。ですから、公知の事実であっても、名誉毀損が問われることもあります。
- Opponent 2005年12月22日 (木) 10:23 (UTC)[返信]
ロス疑惑や三億円強奪は容疑者ですから犯罪者ではありませんゆえ実際の犯罪者と同列に扱えません。容疑の固まっていない者に関しては事実の正確性に問題があるので削除に賛成します。過去の事件の記録は、ウィキペディアがさらし者にするまでもなく、元々誰でも見る事ができますはなっから禁止するのは考え物でしょう。そもそもその人に対する見方は時代時代で一定している保障がありません。確かに今は好くても10年後は駄目というケースがある事を認識しておくに越した事はありません。しかしその場合はその時に対応すればよい訳です。その時のガイドラインを制定するのはいかがです?Sionnach 2005年12月22日 (木) 10:55 (UTC)[返信]
十年後に問題になって履歴がばっさりとかいうのはめんどくさくていやなので、やっぱ最初から十年後を見越して「必要がないなら書かない」で行く方がよろしいかと存じます、はい。また、世間が誰かをさらし者にしたがっていたとしてそれに加担する必要があるとは思いませんし、「さらし者にしたい執筆者」が悪さをしないよう歯止めをかけておくほうがラクだとも思います。もちろん、今の時点で「十年後にも大丈夫だろう」と判断されたものが十年後にだめになる可能性もありますが、そういうのは十年後に対応するしかないでしょうけど。--Nekosuki600 2005年12月22日 (木) 11:00 (UTC)[返信]

居ない人の立場を擁護するのは止めてください。無い袖はどう頑張っても振れません。名誉毀損の定義は「公然と事実を摘示し、人や企業の名誉を毀損すること」です。他者の示した事実を公然と提示して毀損された名誉をそのまま毀損された状態にとどめおく事は名誉毀損とは言いませんし、中立です。時代をどんなに経ても、それこそイデオロギーの風潮でも変化しない限り社会的評価の低い人の評価は後世に残ります。もちろん名誉が回復したのに、そのまま毀損されたままでとどめおく事は避けるべきです。単に「さらし者にする事を悪者扱い」するならば今度は表現の自由を奪います。重大事件に関わった人の実名は「必要があるから書く」ものです。めんどくさいなら参加しなければよいだけです。Sionnach 2005年12月22日 (木) 12:59 (UTC)[返信]

刑事における名誉毀損罪が問題になっているわけではないと思うのですが・・・たらこ 2005年12月22日 (木) 13:06 (UTC)[返信]
Shionnachさんの主張は明確に間違っています。名誉毀損は、一次的には名誉毀損的言辞を表記したものにかかっていく責任ですが、「毀損された名誉をそのまま毀損された状態にとどめておいた者」にも二次的な責任がかかる恐れがあります。たとえばニフティFSHISO訴訟においては、名誉毀損的発言を管理者が削除しなかったことについての責任を問われ、FSHISOシスオペおよびニフティ社が、巻き添えをくらうかたちで被告となっています(民事の損害賠償請求訴訟)。同様のケースが2ちゃんねるをめぐる訴訟でもいくつか起きており、執筆者ではなくシステム管理者のひろゆき氏に損害賠償を命じる結果となったものもあります。Wikipediaの場合、管理者ないしはWikimedia財団が巻き添えをくらう恐れは少なからずあります。「名誉毀損的言辞をそのまま放置したこと」についても責任を追及される恐れがあるのであり、そういう観点からWikipediaは第三者ではなく当事者なのです。Shionnachさんの「(そのまま置いておくだけならば)中立」という主張は、間違っています。
また、氏名を表記することが必要であるということについては、依然説明がなされてはいないと考えます。Shionnachさんが「必要である」と考えていることはわかりましたが、それだけではPOVの範疇を出るものではありません。
--Nekosuki600 2005年12月24日 (土) 10:29 (UTC)[返信]
念のためだが、おれは「現状は神経質に過ぎる。もうちょっと穏やかな基準で運用してもいいのではないか」と思っているのですが、こういう暴論を出されると「氏名記載は一切まかりならん」という主張が力を持ってしまう。足を引っ張るんじゃねーぞ、と思っていることを付け加えておきます。
--Nekosuki600 2005年12月24日 (土) 10:32 (UTC)[返信]

Nekosuki600さん、あなたの例示は全くお門違いなところがあります。詭弁の特徴のガイドライン第6条に当て嵌まります。その理由は:

  • 「名誉毀損的発言を管理者が削除しなかったことについての責任を問われ」たのいずれも本人・当該企業からの削除請求に応じなかったから
  • それらの訴訟で問題となったのはいずれも個人的な事象や企業機密といった明かされるべきでない上、名誉毀損的
  • それらの情報が公示されたのは当該フォーラム/掲示板であり、既に大型メディアにより全国規模で知られていた事実ではない。
  • 被告となったのはその管理者であってその情報を二次使用したり影響を受けるなどした別のウェブログ・掲示板の書き込みの消去は命ぜられなかった
  • 原告は犯罪者ではなく、ウェブ上の書き込みによって初めて名誉を傷つけられた

以上の事からそれらの訴訟を「二次的な責任がかかる恐れがあ」る例としてウィキペディアを当事者とする根拠と認める事はできません。ウィキペディアが全国規模の(←ここ重要)公知の事実を書いただけで罰せられる恐れはありません。
それともう一つ、「依然説明がなされてはいないと考えます」と仰いますが、「人物名を用いた検索ができる」ことの何処が公益性で無いとお考えで?そもそもですね、実名の記載と名誉毀損を切り離さずに考えるのは可笑しいですよ。Sionnach 2005年12月25日 (日) 06:14 (UTC)[返信]

全くお門違いは、Shionnach さまの方だと思います。はるか上の別の項で三億円強奪事件に触れましたが、容疑が晴れて無罪放免になったその方は、全国規模で(←ここ重要)公知になっていたんです。何故ならば、逮捕されたわけでもなく、被告でもなく、単に事情聴取を受けただけにすぎないのに(形式上重要参考人ですが実際は容疑者扱いで実名を警察発表され)、ほとんどのマスメディアが実名、住所、生い立ち、人間関係に至るまでを報道してしまったからです。そこで、どこへ行っても誰かが顔を覚えていたりする、名前を覚えていたりもする。職を転々とし、しばらく気付かれなくても、かならず露見し追及を受け、いられなくなる。こんな生活を何十年も強いられたという事実があります。そこで訴訟で争ったわけです。図書館に行けば誰でも知ることができる、すなわち公知となっている状況を何十年もかけて改善しつづけることになりました。彼は「人物名を用いた検索」をされ続ける恐怖に耐え続ける人生を送っています。公知であってもダメなものはダメ、名誉毀損になります。
- Opponent 2005年12月25日 (日) 08:41 (UTC)[返信]
- Opponent 2005年12月25日 (日) 09:14 (UTC): (形式上重要参考人ですが実際は容疑者扱いで実名を警察発表され)[返信]
あんまし訴訟を起こす側に知恵を授けたくはないんだがな。
何かの記述を理由として名誉毀損訴訟を起こす場合、被告を選ぶことが出来ます。全く同じ記述が新聞・雑誌・Wikipediaに記述されたとして、どこを訴えるのが楽かというと、法務部門を備え応訴体制を整えている新聞・雑誌を訴えるよりWikipediaを訴える方が楽です。まずWikipediaを相手に勝訴を取っておいてそれから新聞・雑誌を訴えるといった手順は、ごく普通に考え付くものです。
被害の大きさという意味では、新聞・雑誌・テレビなどのマスメディアの被害の方がはるかに大きいでしょう。実効的救済を求める上では、そちらを優先して訴訟を提起するのが筋というものです。しかし、法務戦略としては、「まず小規模なところから訴える」というのもありなんですね。
sionacchさんは、おそらく法律にはお詳しくないのだろうということが、これまでの記述から見て取れます。お考えは理解しましたが、それは間違っていて、危険性を甘く見すぎています。Wikipediaには「判断が分かれる場合は安全側に倒しておく」という基準があります。これは、後ろ向きなものでありおれは必ずしも同意するものではありませんが、現実のWikipediaの訴訟対抗能力を考えた場合には、現実的解法であると言わざるを得ない部分もあります。そのあたりのバランスを考えると、「他メディアに掲載されていればOK」といったシンプルだが危険性を伴う判断基準を採用することはできない、というのがおれの判断です。--Nekosuki600 2005年12月25日 (日) 08:56 (UTC)[返信]

ですから、犯罪者であれば前例はないのです。犯罪者は公人と見ても構いません。第一元々知名度を大きくしたのはマスメディアでしょう。ウィキペディアは報道目的ではないという観点から犯罪者かどうか確定していない人の記事を作るべきではない事には同意しておきます。しかし犯罪者の実名に関してはこれを危険とは決していいません。証人喚問を受けた人の名前も同じです。前例が無いのに無い袖は振れません。犯罪の加害者名積極的に公開している被害者名は削除すべきではありません。Sionnach 2005年12月25日 (日) 11:13 (UTC)[返信]

「犯罪者であれば前例はない」というのは、「有罪が確定した者を実名表記したことにつき、損害賠償請求の判決は受けたことがない」ということでしょうか? だとすると、そうともいえない気がするのですが。たらこ 2005年12月25日 (日) 11:46 (UTC)たらこ 2005年12月25日 (日) 12:10 (UTC)[返信]
どう説明すりゃいいのかよくわかんない感じがするわけですが。
とある削除依頼での話ですが、sionnachさんの発言として、以下のものがあります。
  • (削除)有罪が確定していなければ公人とは言えません。有罪が確定してからの復帰依頼に対しては賛成しますよ。Sionnach 2005年12月25日 (日) 05:13 (UTC)
この文面から推察するに、sionnachさんのお考えでは「確定有罪者は公人である」ということのようです。「確定有罪者は公人である。公人は氏名を掲載してもかまわない。∴確定有罪者の氏名は掲載してもかまわない」という三段論法のように思われるのです。しかしですね。「確定有罪者は公人である」という命題に疑問がありますし、その背景にあるのだろう「公人と私人の区別をもってして氏名掲載の是非を判断する」という考え方についても、さらに遡って「公人と私人を分けることができる」という考え方についても、目下議論が行われているところです。
sionnachさんが「確定有罪者については積極的に氏名を掲載すべきである」とお考えであるらしいことはわかりましたが、今はそういう話はしていません。sionnachさんの問題意識(あるいは提案)を共有している方は、おそらくこの議論の参加者の中にはいない(少なくとも顕在化はしていない)のではないかと思います。確定有罪者の氏名を積極的に掲載すべきであるという主張については、後日改めて問題提起をしてそちらで議論をするなりなんなりしてはいただけませんか。--Nekosuki600 2005年12月25日 (日) 17:38 (UTC)[返信]

了解しました。少なくとも有罪の確定していない者の個人情報については(私としては百科事典的でないという観点の上から)掲載を見合すべきであるという意思は一致している様ですね。Sionnach 2005年12月26日 (月) 02:32 (UTC)[返信]

すぐ上の議論が結論ではないでしょうが、いわゆる犯罪者のレベルとして、

  1. 参考人
  2. 容疑者 - 令状逮捕以降
  3. 被告 - 起訴以降
  4. 犯罪者 - 有罪以降

ぐらいでしょうか。証人喚問は1のレベル(大目に見ても2)でとても4のレベルではないので氏名非公表なのではないでしょうか?また、馬鹿に智恵つけるのは嫌なのですが(sionnachさんでないですよ)、性犯罪者の一覧(アメリカの州によっては住所まで公開しているところもある)とかつくられても問題です。公益性とはあくまで知的好奇心をみたす公益性に限定したほうがよいかも--Zz2 2005年12月26日 (月) 08:26 (UTC)[返信]

少し話題がズレてしまいます、不安になったので少しだけ。。犯罪歴のある人物について、実名と前科をセットで記述したことが問題となり、慰籍料の支払いが命じられたケースがあります。前科があっても氏名を掲載してはいけない場合があることはこの判決を見るとかなり異論のないところだと思います。(平成6年2月8日 最高裁判決
判決中ではこんな風に述べられています:「前科等にかかわる事実については、これを公表されない利益が法的保護に値する場合があると同時に、その公表が許されるべき場合もあるのであって、ある者の前科等にかかわる事実を実名を使用して著作物で公表したことが不法行為を構成するか否かは、その者のその後の生活状況のみならず、事件それ自体の歴史的又は社会的な意義、その当事者の重要性、その者の社会的活動及びその影響力について、その著作物の目的、性格等に照らした実名使用の意義及び必要性をも併せて判断すべきもので、その結果、前科等にかかわる事実を公表されない法的利益が優越するとされる場合には、その公表によって被った精神的苦痛の賠償を求めることができるものといわなければならない。」
ちなみに、ここで取り上げられた犯罪は傷害致死罪であり、実名とその前科をとりあげられた人物は懲役3年の判決を言い渡されています。それをとりあげたノンフィクション作品は高い評価を得たそうで、大宅壮一賞を受賞しています。そういう事情にも関わらず賠償責任が認められたのは、この人物が既に一般人として生活を送っていたこと、などがあったためだと思います。既に死亡しており、かつ家族などが死者を悼む気持ちを乱される可能性もない、ということなら問題ないかも知れませんが、存命中の人物であれば一般人としての生活を送ることになる可能性はあるわけで、ウィキペディアで実名が公開され続けてもよいと断言できるケースというのはどちらかというと例外ではないかと思います。Tomos 2005年12月31日 (土) 13:41 (UTC)[返信]

少し犯罪の話題からそれてしまいますが、ご了承ください。六本木ヒルズ族の最新版の更新に六本木ヒルズ族にまとわりつく有名人という名誉毀損に該当するおそれのある項目の追加がありました。確かに六本木ヒルズ族に関連した話かも知れませんが、このような陰湿なものは削除対象とすることができるのでしょうか?それともこのまま放置するべきなのでしょうか?私はまだ皆様方に比べwikipediaについて青二才ですので、是非ご意見を伺うべくここに書き込ませていただきました。個人的にはわざわざこういう事を書き込む人の気が知れないといった感じですが、人それぞれ考えが違いますしね…。Hadge 2006年1月6日 (金) 21:53 (UTC)[返信]

個人的には何を意図した情報なのかがわからないし不要だと判断するけど、いずれにせよ「私人・公人」というコンテクストの話じゃないんじゃないかなあ。少なくとも例示されたのは有名なひとであるように思うし。なお、当該表記の名誉毀損性の強さについては、おれにはよくわかんないです。--Nekosuki600 2006年1月7日 (土) 02:35 (UTC)[返信]

ガイドラインを作ってみたら? 編集

(←)Wikipedia:削除の方針の「積極的に実名を用いて活動しているスポーツ選手・研究者・作家・芸術家・アーティスト・芸能人」では、アバウトすぎるのでもう少し踏み込んだガイドを個別に作ったほうがよいと思います。叩き台の叩き台をば。

  1. 本人も宣伝したいと思っているだろう職業 - 政治家・プロスポーツ選手・芸能人・アーティスト
  2. 一般的に宣伝したいと思っているだろう職業 - 作家・芸術家・アマスポーツ選手・映画監督
  3. さらに微妙な職業 - 研究者・モデル・声優・テレビプロデューサ

個別ガイド

  • 政治家 - 国会議員以上、自治体首長は不要
  • プロスポーツ選手
    • プロ野球選手 - (もちろん1軍の)新人賞の権利以上の試合出場、もしくはもっと厳しくタイトル獲得かチームレギュラー以上
    • プロサッカー選手 - ナショナルチーム数試合以上出場、各国リーグの数十試合以上出場
  • 芸能人 - 全国放送番組のレギュラー数本以上
  • アマスポーツ選手 - オリンピック出場以上(もしくはメダル以上)

こう考えていくとその分野での所謂トップクラスということですから、

  • アーティスト - インディーズ以外ならアルバム数枚以上
  • 研究者 - その分野の権威ある賞の受賞、教授以上でさらに何かの功績(学会会長等)
  • テレビプロデューサ - 権威ある賞の受賞(エミー賞など)

内容はもちろん作成の是非はどうでしょうか?Zz2 2005年12月16日 (金) 05:35 (UTC)[返信]

時期尚早。ガイドラインの提案はもうちょっと議論が煮詰まってからでもいいと思う。また、へたにガイドラインを作ると弊害が起きる可能性も高い。たとえば上記ガイドラインに即して言うと、「非常に特徴的な村政を行い十分な実績がある村長の項目に対して、『村長の項目は不要』といった教条主義的な削除要請が出される」などの懸念があります。また、「特定分野における有名人の扱い」などについては、何の解決策ももたらさないのではないかとも思います。--Nekosuki600 2005年12月16日 (金) 07:37 (UTC)[返信]
時期尚早というよりも「不要」です。「1件1件削除が妥当かどうか検討するくらいの手間は省くな」というのが私の意見です。他はNekosuki600さんの意見にほぼ同意します。-Goki 2005年12月16日 (金) 23:36 (UTC)[返信]
en:Wikipedia:Notabilityを翻訳してそれをガイドラインにしてはいかがでしょうか。「車輪を新たに発明する」必要もないと思いますし。--Ligar 2005年12月19日 (月) 06:52 (UTC)[返信]
Goki さまのご発言「1件1件削除が妥当かどうか検討するくらいの手間は省くな」は賛同できます。というより、個々のケースごとに事件の内容、事件と職務・業態との関係などの態様がそれぞれ異なってくるはずですから、検討は必要と考えるべきです。むしろ、ガイドラインを作った結果、一つひとつ検討しないで機械的に適用して削除するなら、ガイドラインはかえって害悪になります。Nekosuki600 さまのご指摘は「時期尚早」でしたが、そういう問題ではなく、ガイドラインとして制限列挙(もれなくすべての職種、業態、そして微妙な事件の態様までを列挙)するのは無理だし、無意味だと思います。仮に、可能だとしても辞書を作るような途方もないことだろうし、絶えず改訂が必要になりますから。というわけでガイドライン作成の是非を問われるなら、「非」と申し上げます。

Ligar さまの "Notability" は、少し話が違うと思います。著名人であっても、職務・業態と無関係な「その活動に多大な影響を与えたとは考えられない逮捕歴、裁判歴、個人的情報など」(Wikipedia:削除の方針)は、当然ながら削除の対象になるからです。
- Opponent 2005年12月22日 (木) 10:02 (UTC)[返信]

犯罪の犯罪者名・加害者名の掲載にも基準が必要です。元々私人であったにも関わらず犯罪によって著名になったという例は無数に存在します。Sionnach 2005年12月25日 (日) 11:17 (UTC)[返信]

ガイドライン案派生・その基準と理由はなんだったのか 編集

なんか止まってしまっているな。でだ。

ガイドラインを作ることそのものについておれは少なくとも現時点では賛同しないんだけども、その前に。ヒアリングという感じで聞いてみたくなったんだけども、この「ガイドライン案」というのはどういう基準で考えられたものなのでしょうか。というか、Zz2さんの観点では「このガイドラインによって、記事があってもいいひととあってはいけないひととが区別できる」ということで作成されたものなのだろうと想像するわけですけど、「どういうひとの記事はあってもよく、どういうひとの記事はあってはいけないと思ったのか。その理由はなにか」というあたりを聞いてみたいわけ。

念のためだけど、「ガイドライン案が納得できるかできないか」とかいう話ではなく、また「このガイドライン案は役に立たん!」とか怒ってるわけでもないです。というか遡るとそのあたりの考え方の違いがけっこう対立の原因になっているような気がするもので、せっかく出してもらったガイドライン案、「却下」で終わりにするのももったいないんで話のネタとして使わせてもらおうかってかんじ。

--Nekosuki600 2005年12月18日 (日) 18:04 (UTC)[返信]

箇条書きのほうが書きやすいので。

  • 公人・私人問題
    • 公人・私人とか上で議論になっているが、そもそも分けることは不可能。(たんなる私見)
    • まず、本人が載せてほしいと思うかどうかを職業別に大まかに分けるべき。
  • 何のためのガイドライン?
    • 職業別分類ごとにガイドライン=大きな業績とは何かを決められるはず。
    • もちろんガイドラインであって即時削除ではなく、多くの例外は発生する。
    • Gokiさんの言うとおり結局1件ごとに削除依頼で話し合うことになるが、その議論の結論を残していけば表が埋まるはず。(車輪の再発明をしない)
  • 現状の削除依頼
    • 現状の削除依頼での票はその分野に詳しい人だけが投票している感じがするが、本来は逆に詳しくない人から見て要不要を判断すべきではないか。
    • 出来事と文章の量と質が違うので一概に比較するのはおかしいが、数日しか運行していないあきた (列車)に存続票が多く入っているのに、毎年行われる競馬レースのオープン特別(どれか忘れた)は削除票が多かったはず。
  • 私案のガイドラインがどこからきたか
    • 削除依頼の意見を拾って集めた。もちろん私の主観が入りまくり。
    • 全分野に公平な基準があれば別にどれでもよい。
    • 「その分野で1番上のリーグに参加資格がある」が削除依頼での基準だと思った。
    • 政治なら国会議員まで、プロ選手は1軍になっていること、競走馬だとG1に参加できる(重賞勝ち)、文化財なら重文以上、CDはアーティストが発表するもののみ。などなど。
    • 人物はまだわかりやすいほうなのでまずはここから。化学物質・薬品・生物・歴史・事件なんかは線引きが難しい。

大(中)項目主義か小項目主義かという話になるが、そこまでいかずにガイドラインが決められれば結構すぐに決まると思った。Zz2 2005年12月19日 (月) 00:22 (UTC)[返信]

どもです。えーと、基本的に理解はしました。同意はできないところが多々ありますけど(すまん)。

個人的にはそうですねえ。ガイドラインを決めた場合、しばしば「あるラインから下は問答無用で削除してよし」みたいな思考停止ツールとして使われてしまうというあたりの危険性が高く、その危険性をクリアしない限りガイドラインというのはあまり望ましい機能を果たさない、という感覚があります。

もうひとつ。「詳しくない人から判断すべき」というのには反対。おれは数学者の名前なんかほとんど知らないけど、だからって「不必要」だなんていうつもりはないし。現状の投票は、どちらかというと「その分野に詳しいひとと詳しくないひとの比率」で投票結果が左右されているような印象が強い。Wikipediaのライターの中に詳しいひとが多くない分野がワリを食ってるのではないかとも思う。おそらくWikipediaの参加者は世間を代表した無作為抽出のようになってはいないわけで、その「偏り」の結果でフィルタがかかるような状況になっていないかという重大な懸念があります。

最後にもうひとつ。「誰かにとって不要な記事が、Wikipedia上にあってはいけないという理由はなにか」。要不要の判断なんかいらないんだと思うのですよ。誰もが不要と思う記事は作られないのだから。名誉毀損リスクをはじめとする「有害な記事」は、確かに排除する必要がある。でも「誰かが不要だと思う記事」について、その誰かが不要だと思ったことを理由に排除する必要がどこにあるのだろうか、と(念のためですが、「出来の悪い記事が量産されていること」については、おれはかなり否定的な感覚ではあるのですが、「出来の良し悪し」と「要不要」とはまた違う基準だからそのあたりが悩ましい)。

--Nekosuki600 2005年12月21日 (水) 18:55 (UTC)[返信]

公人の定義 編集

ここで公人・私人の定義について議論されていますが、「有名人」(私も執筆に参加している項目ですが)の項目にに公人の定義について載っていますので、そちらを参照してみてはいかがでしょうか。あと、初版執筆が私ですが(というより2006年1月14日現在私しか執筆していない)、「公人」という項目もありますのでそちらも参考にして下さい。220.96.190.226 2006年1月14日 (土) 11:30 (UTC)[返信]

多くの利用者に支持… 編集

止まっているようですが、削除方針のプライバシーに関する箇所をより妥当な具体的なものへ改稿するのは急務でしょう。このような状態で「多くの利用者に支持されていて、すべての利用者が従うべきだと考えられ」ているなどとは到底言えません。Hermeneus (user / talk) 2006年1月24日 (火) 04:43 (UTC)[返信]

どこに書くべきか迷ったのですが、とりあえずこの節で述べることにします。多少ロールバックする部分もありますがお許しください。
なんだか様々な論点がごちゃまぜになってしまっているようですが、ここまでの議論を参考にすれば、ここまでの話については
  1. メジャーかマイナーかという意味での「公人・私人」論争
  2. 事件記事などで実名表記はどこまで許されるか
の2つに分けて考えるべきであるということが言えます。
1については、「ついでに、もうちょっと広い「私人性」の問題について」において現在まで大きな反対はありませんので、Nekosuki600さんの提案(「私人性を理由とする削除要請・即時削除は拒否することにしたらどうか」)をひとまず試してみてはどうでしょうか(ただ、まあ、個人的には「近所のおっさん」くらい極端な「私人」記事は即時削除で葬ってもよいと思いますが)。異論があればもう少し話し合いを続けてもよいでしょうが、2の問題とはあくまで分離して考えてほしいです。
ここしばらく問題になっているのは2であるかと思います。これについては大きくは
  1. 日本法を考えた場合、記述することによって法的な問題が生じるかどうか。
  2. 法的な問題が無い場合でも、コミュニティの方針として一定の制限を設けるかどうか。
の2つに分けられます。
1で具体的に何があるかといえば、少年法で禁止している推知報道、刑法の名誉毀損罪、民法の名誉毀損があげられます。このうち、少年法は判断が簡単ですし、名誉毀損罪については悪意を持った誹謗中傷や明白な誤りでなければ通常はひっかからないので(そのような記述を排除することは既にコミュニティの総意と考えてよいし、第一実名表記というより記述内容の問題)、議論があるとすれば名誉毀損の射程です。特に上でTomosさんもあげられている「逆転」事件の解釈などが問題になってきます。これに関しては、個人的にはNekosuki600さんが「事件・犯罪と氏名の掲載について」の節で2005年12月21日 (水)18:25にあげられたような方向性でいけば問題はないのではと考えていますが、このあたりはもう少し詰めていきたいです。
ただ、2の部分で高いハードルを設けるというのなら、結局1に関係なく制限されることになります。コミュニティとしてどのような方針を採るべきか(つまり、法的に支障がなければOKなのか、そうではないのか)については、法的な問題とは別に話し合う必要があります。
あと、ついでに付け加えておくと「歴史上の人物」とは何か、というのもありますね。削除依頼での意見の中には「死者は歴史上の人物である」という主張も見受けますが(これだと殺人事件の被害者は即歴史上の人物に認定されてしまいますが)、余裕があればこのあたりの話も進めたいところです。
・・・という感じでとらえているのですが、どうでしょう?
たらこ 2006年1月25日 (水) 15:13 (UTC)[返信]

私人性を理由とする削除要請・即時削除は拒否することにしたらどうか 編集

なんか止まってるなあ。というわけで微妙に極論かもしれない提案を出してみる。でもまあ内容をよく読めば別段極論でもなんでもないことがわかるんじゃないかと思うんだが。

提案内容

「私人である」といった理由に基づく削除要請・即時削除は、拒否することに決める。そういう理由に基づく即時削除は、見つけ次第、即時削除をひっぺがして存続。削除要請については、ま、議論をして、「私人である」という以外の理由が出てこなければ原則として削除しないものとする。

理由なんだが。要するに「私人性」なるものが、思考停止フレーズになってしまっていて、なぜ削除しなくちゃいけないのかについてほとんど考えていない削除要請・即時削除要請がなされているのが目に余るため。

削除するということは、他人の努力を抹消するということなわけで、それなりに慎重でなけりゃまずいだろう。んで、削除すべきであるという理由づけについては、これまでの議論をふまえて考えれば、「名誉毀損性(や訴訟リスク)」「検証不可能」などのものが考え付く。そういった理由があれば当然削除すべきだ。というか、他人の努力を抹消しようというのならば、「私人性」なんていうおおまかであいまいな削除理由ではなく、もっと具体的で明らかな削除理由を提示することを怠けちゃあかんだろう。そして、ほんとに削除したのがいいようなものであるなら、「私人性」なんていうおおまかであいまいな削除理由ではない明確な削除理由を提示できて当然だろうと思う。そのくらいのことは、削除要請者に義務付けてもかまわないのではないか。

削除要請者が「なぜそれを削除した方がいいと思うのか」をもう一歩踏み込んで考えてくれるようになれば、削除議論なんかも円滑に進むようになるだろうし、その項目の問題性だって明らかになることだろう。「私人性を理由とする削除要請・即時削除は、否定する」ということにしてなにか悪いことがあるのかというと、何もないように思う。

いかがなもんでしょ。

--Nekosuki600 2006年1月24日 (火) 16:40 (UTC)[返信]

「私人の私生活上の行状であっても、その携わる社会的活動の性質およびこれを通じて社会に及ぼす影響力の程度などのいかんによっては、その社会的活動に対する批判ないし評価の一資料として、刑法二三〇条の二第一項にいう「公共の利害に関する事実」に該当する場合がある」(最高裁判決1981年4月16日)という判例もあるように、単に私人であるかどうかで合法違法を決めることはできないでしょうね。実名記載についても同様だと思います。Hermeneus (user / talk) 2006年1月24日 (火) 19:47 (UTC)[返信]

削除基準を適法性、訴訟リスクに限定する 編集

現在の削除の方針にある「法令とは関係なく日本語版Wikipediaは個人のプライバシーを尊重する方針を採っています」という箇所は削るべきだと私は思います。具体的な根拠や理由の提示も無くただ「尊重せよ」では幾らでも拡大解釈して濫用できてしまいます。プライバシーを尊重するのは、(1)日本の法律において規定されるところの理由(人格権の尊重云々)ゆえにであり、また(2)その関連する法律を遵守すべきであるから、としておけば十分でしょう。「法令とは関係なく」などと付け加える必要はありません。

そして、削除の基準に関しては、2のレベル、つまり現実の法律に違反するリスクが高いかどうかに限定されるべきだと思います。プライバシー尊重の是非を個人的な道徳観やら政治理念を持ち出して云々するのは中立的観点にも反することになりますので、そうした議論には立ち入るべきではないでしょう。法律に違反するかどうかの基準は、上でも指摘があるように、もっぱらそれが刑法第230条の2で言うところの「公共の利害に関する事実に係り、かつ、その目的が専ら公益を図ることにあ(る)」かどうかにつきるわけですから、そのことも削除方針に明記しておくべきでしょう。Hermeneus (user / talk) 2006年1月24日 (火) 20:13 (UTC)[返信]