Wikipedia:井戸端/subj/出典(特に執筆者)について

出典(特に執筆者)について 編集

 
私は、現代の話題を記事にすることがあまりないので、議論に関わっていませんが、関心のある意見を静観しているので、井戸端での皆さんのご意見を伺い、Wikipediaの方針ではどのように考えられているものなのか知りたいと思い話題の投稿をさせていただきます。

「芸能人」による政治に関する書籍が政治記事の出典として、認められないとする意見をもとに議論があり、個人的に関心があり静観しています。

意見のポイント

この意見に対し以下3つのポイントがあると思います。

1:芸能人の意見

自分がある分野の専門家だと主張することは誰にでもできます。そのため、自費出版物、個人のウェブサイトやブログは、ほとんどの場合は適切な情報源としては認められません。ブログや電子掲示板の発言を一意見として紹介するのも同様です。例外となりうるのは、関連分野において著名な専門研究者や有名ジャーナリスト(記者)が自主公表した場合でしょう。(Wikipedia:検証可能性#信頼できる情報源

2:芸能人の書籍

その人の著作がこれまでに信頼できる第三者によって出版済みであるなら、その人の自主公表物を情報源として認めてよいこともあり得ます。(Wikipedia:検証可能性#信頼できる情報源

3:芸能人は芸能のみの情報源としかならないのか。

ポイントの解釈

このポイントの解釈については主に以下のものがあると思います。

1の自費出版、個人のウェブサイトとブログについては、芸能人に限らず信頼できる情報源とは言えない。

2の解釈によって、議論が行われているものと思います。、

2ー1は、芸能人は政治の専門家ではないのだから、たとえ第三者による出版であろうとも、その意見は信頼できる情報源とは判断できない(否定論)。
2ー2は、芸能人であろうとも、第三者による査読をもって出版された書籍なのであるから、その意見は信頼できる情報源と判断できる(肯定論)。

3については、1に関わるものと思います。この点についてあまり議論が見られないのですが、以下のように解釈できると思います。

3ー1は、芸能人は政治の専門家として認められないため、情報源として扱えず、信頼できる情報源とは判断できない(否定論)。
3ー2は、芸能人の政治学などの学術的な専門家ではないかもしれないため学術資料とは言えないが、社会活動などに関わる限り伝聞資料と判断できる(肯定論)。
追加(また、芸能人の中には、政治に詳しい人物もいることから、一概に「芸能人」であることから、その意見は信頼できる情報源と判断できないことはない)。
投稿者の見解

1は問題ないと思いますが、2と3については現在議論が盛んにおこなわれていると思います。

個人的な見解では、「芸能人」であるから、その資料を出典として扱うことは認められないといのは、賛成できません。現在、国会議員でも、所謂「タレント(芸能人)議員」が多数います。タレント(芸能人)の意見が現在国に政治に影響をもたらしているともいえます。「芸能人」だから、「・・」だからその書籍は出典として認められないとする意見は支持できません。

「百科事典を編纂する際、良い記事を執筆するためには、広く信頼されている発行元からすでに公開されている事実、表明、学説、見解、主張、意見、および議論についてのみ言及すべき」とあります。

たしかに、政治学などの、学説、見解、主張、意見、および議論については学術的な専門家の意見を扱うべきです。しかし、広く信頼されている発行元からすでに公開されている事実、表明については一般市民からの資料であろうともWikipedia:検証可能性#信頼できる情報源に則したものであり、特筆性のある記事であれば出典として認めていいのではと思っています。

芸能人は政治に関する情報源として認められないとする意見は、あまり賛成できません。政治を研究していない芸能人の発言を、政治学の情報源とすることは支持しませんが、一般市民による社会活動に参加した芸能人の伝聞資料なのであれば十分利用できる情報源と思います。、記事として特筆性があるのであれば、出典として認めることが可能と考えていますが、いかがでしょうか。

しかし、Wikipediaの規則をすべて理解できているわけではありません。ベテランの方々からのご教示いただければ幸いです。。-- 平成28年6月22日 (水) 15:25‎ Koshi2016 (会話 | 投稿記録)‎ ----署名忘れていました。----Koshi2016会話) 2016年6月22日 (水) 15:28 (UTC)-一部修正---Koshi2016会話2016年6月22日 (水) 23:16 (UTC)[返信]

  コメント-追加-JapaneseAさんの投稿から、私の疑問点がぶれてしまう心配があったため、改めて疑問点を提示します。
  • 出典となる記事の信頼性は、執筆者も一つの要素ですが、同様に記事の内容も同様に確認するべき要素であり、また第三者からの出版物であることも重要な要素だといえます。また、政治に関する意見は、学術的な研究者からの意見、議員からの意見、一般市民からの意見などそれぞれ立場からの発言があるといえます。
  • 一部の人々の意見(見解)のみ情報源として有効でないとすることは、その意見を(いい意味でも、悪い意味でも)差別化しているといえます。これまでの、投稿とウィキペディアのガイドラインの理解から、私は「では、すべてを扱いましょう。なんでもかんでも利用しましょう。」となっていないと思います。そのようにならないために、記事内容の特筆性、二次資料の利用、中立的な観点、検証可能性などのガイドラインのもとに記事内容について検証を行うことが求められていると思います。執筆者の社会的立場によってのみ、その情報の使用が認められない(出典として利用できない)とするのはあまり合理的な見解とは思えません。
  • ただし、情報源からの記事に特筆性が認められないのであれば、それをウィキペディアに記事として記載するべきか否かについては、もちろん議論をする必要のないものと考えています。--Koshi2016会話2016年6月23日 (木) 01:46 (UTC)[返信]
コメント(議論の場)
  •   議論提起感謝します。皆様へ。政治記事への芸能人の書籍を認めない、と言っている当事者です(ノート:日本共産党#千葉氏の主張)。タレント議員は、芸能人かつ政治家ですので、「政治家の意見」として扱う事もできるでしょう。しかし、政治家ではない芸能人は、「芸能人の意見」です。例えばAKBの誰かが自民党の党員になって、それで批判本出したら、自民党の記事に書くのですか? こんなものを認めてしまえば、Wikipediaに記事のある人物の著書であれば、どの記事に書いても構わない、となるでしょう。なお、議論となった本ケースでは、「芸能人が共産党の支持しているある市民団体のデモに参加し、氏と団体で意見が分かれ、氏は批判本を出した」、それを元に日本共産党に書けるかどうかという話です。--JapaneseA会話2016年6月22日 (水) 23:53 (UTC)[返信]
    • 芸能人だからとかではなく、載せる価値があるかどうかだと思います。芸能人も幅が広くMCおよびニュースキャスターまで含めるのであれば、例えば池上彰氏がそうなり、意見の食い違いとやらが的を射た重要なことであれば載せてもよいと思います。芸能人で線を引くべきではないと思います。もちろん載せる価値がなければ載せないというだけのことです。--琥珀の杖会話2016年6月23日 (木) 02:52 (UTC)[返信]
      • このケースでは、じつは〈第三者からの出版物〉といえるかどうかも問題なのです。この版元、現在では中立的な立場とは言い難いところにたっています。 --ねこぱんだ会話2016年6月23日 (木) 03:34 (UTC)[返信]
        • それらを踏まえて、芸能人かどうかで線引きをするべきではないといっているのです。JapaneseA氏は”政治家ではない芸能人は、「芸能人の意見]”、”政治記事への芸能人の書籍を認めない、と言っている当事者”と書かれています。芸能人かどうかではなく、記事が重要かどうか、載せる価値があるかどうか、中立的な意見かどうかも入ってくるでしょう。だから、芸能人かどうかということは重要ではないといっているのです。--琥珀の杖会話2016年6月23日 (木) 04:01 (UTC)[返信]
          •   コメント-JapaneseAさん、コメントありがとうございます。疑問の発端は、JapaneseAさんの主張にあります。ただ、今回のノートでの議論、井戸端でのコメントの理解はできますが、納得できるかといえば説明が不十分です。もう少し合理的な説明が欲しいと思うのが正直なところです。--Koshi2016会話2016年6月23日 (木) 04:59 (UTC)[返信]
          •   コメント-琥珀の杖さん、コメントありがとうございます。芸能人の意見をどのように扱うか、あるいは扱えるかについて、示したものと理解しています。記事の内容に特筆性が認められれば、記事として載せられる。載せる価値がなければ載せないとするコメントは支持できる意見とかんがえています。--Koshi2016会話2016年6月23日 (木) 04:59 (UTC)[返信]
          •   コメント-ねこぱんださん、コメントありがとうございます。ケース1として第三者からの出版といえるのかの問題があることのご指摘ありがとうございます。この点についてもう少し詳しく説明いただけると幸いです。説明いただければ、何をもって、第三者からの出版となりうるのかについてご意見を求める一つの参考となるご意見としたいと思います。(この辺のご意見が明らかにされると、現在出典として利用されている文献(書籍)の中には、ねこぱんださんのご意見ではさらに出典としてふさわしくないものが増えるのではと思われます)。ところで、第三者からの出版という条件が適う情報源であれば、(芸能人であっても)利用できるとお考えなのでしょうか。--Koshi2016会話) 2016年6月23日 (木) 04:59 (UTC)--Koshi2016会話2016年6月23日 (木) 05:03 (UTC)[返信]
  コメントの打順私で良かったでしょうか?「もう少し合理的な説明が欲しい」との事なので、再度コメントします。一言で言えば、専門家であるか・ないか、だと思います。例えば、池上彰氏は長年政治ニュースに関わって来られた方ですので、「専門家」と判断できるかと思います。次に、政治分野に関して「一般市民からの意見」については、「芸能人」と同じ扱いだと思います。これらは「新聞報道」という形で掲載できると思います。Wikipediaでは「産経新聞は、~~~のような意見があると、報道している」という例がよく見られますが、これは正に「一般市民からの意見」だと思います(それを取捨選択している産経の見解でもあります)。つまり本議論の元となったケースでは、[1]を出典にした記述は掲載できる、と思います。ただし、「千葉麗子は、国会前のデモなどは共産党関係者が多い、と主張している[産経の出典]」の一文しか掲載する事ができません。その一文を日本共産党に掲載する価値があるかといえば、ないでしょう。--JapaneseA会話2016年6月23日 (木) 08:46 (UTC)[返信]
  •   コメント-インデント戻します。変説されてますよね。JapaneseA氏の意見は「政治家ではない芸能人は、「芸能人の意見」」、「政治記事への芸能人の書籍を認めない」だったはずで、載せる価値があれば芸能人であっても載せるし、載せる価値がなければ載せないといっていたのは私のはずです。また、「タレント議員は、芸能人かつ政治家ですので、「政治家の意見」として扱う事もできるでしょう」と言っておられましたが、池上彰氏は政治家になったことはありませんし、現在は芸能人辞典に記載されることもあるかたです。つまり芸能人にもいろいろな方がいます。JapaneseA氏の唱える芸能人だからNGというのは、上記の会話氏のコメントを見るとご自身で否定されているように見受けられます。--琥珀の杖会話2016年6月23日 (木) 10:25 (UTC)[返信]
    •   コメント-コメントありがとうございます。JapaneseAさんの2度目のコメントでは、芸能人による情報源であるのでその記事は有効か否かについて説明しているものではなく、その出典による情報による記事および内容に記事の特筆性が認められないから、信頼できる情報源からの特筆性ある記事として認められなかったことを説明しているものと言えます。ところで、一般市民からの意見が認められるのであれば、それは芸能人も同様となるのが自然な考えと言えます。ケース1などについては、記事としての特筆性があるか否か、記事に記載するべきか否かについては各々のノートで、議論を進めて頂ければよいと思われます。
    • 私の重要な議題として、井戸端に投稿しているのは「一概に芸能人による情報源を認められないとするのは適当か」に終結するものになります。--Koshi2016会話) 2016年6月23日 (木) 10:33 (UTC)--体裁の修正 --Koshi2016会話2016年6月23日 (木) 10:53 (UTC)[返信]
まず言うまでもありませんが、芸能人を差別しているわけではなく、政治という主題に対して「芸能人の意見は一般人の意見と同価値」だと申しています。よって、私が提示した「「産経新聞は、~~~のような意見があると、報道している」」については「一般市民からの意見が認められるのであれば、それは芸能人も同様となるのが自然な考え」に賛同します。さて、池上氏が芸能人なのであれば、琥珀の杖様が仰るように「政治家ではない芸能人は、「芸能人の意見」」は、私の発言と矛盾し、「〇〇ではない芸能人は、「芸能人の意見」」に私見を修正する必要があります。「(政治に対し)一概に芸能人による情報源を認められないとするのは適当か」という主題に対しては、「芸能人」が「著名な活動が芸能人のみ」であればYES、「芸能人でもあり〇〇でもある人物」であればNO、となります。この肝心の「〇〇」には、政治家・政治の専門家・政治学者などが入ると思います。この〇〇が簡単に決めれないのであれば、各ノートで議論すべきって話になります。皆様のおかげで自分が何を言いたかったのか、何を言わなければならなかったのかが、見えてきました。中間コメントではありますが、御詫び・御礼します。--JapaneseA会話2016年6月23日 (木) 11:26 (UTC)[返信]
  •   コメント-「(政治に対し)一概に芸能人による情報源を認められないとするのは適当か」という主題に対しては、「芸能人」が「著名な活動が芸能人のみ」であればYES、「芸能人でもあり〇〇でもある人物」であればNO、となります。には、反対します。著名な活動が芸能人のみであっても、非常に的を射た重要な発言をする場合があります。また、裏で政治の勉強をしていたり、司会業の芸能活動などによって知識を吸収したり、いろいろなケースが考えられます。「著名な活動が芸能人のみならNG」ではなく、個々のコメント、記事が重要かどうかで判断すべきです。特筆性があれば芸能人であろうがなかろうが載せるべきだし、特筆性がなければ載せなければいいのです。検証可能性などを満たしている場合、そこに芸能人や素人は関係ありません。もちろん、芸能人が特記事項を発言する可能性は専門家よりかなり低いでしょう。ですが、だからと言って「著名な活動が芸能人のみならNG」とはならない。--琥珀の杖会話2016年6月23日 (木) 11:56 (UTC)[返信]
  • 千葉麗子さんの著書は、体験談であって、きちんと自分の体験を何かで検証したものではないようです。そういうものを、どこまで〈信頼できる情報源〉としてみられるか、ということではないかと思います。青林堂にかんしては、みずから、〈左翼の本とうちの本とが両方ある〉的ないいかた(詳細は当該ページからのリンクでみていただければと思います)をしているので、そういう出版社だと考えればいいのだと思います。 --ねこぱんだ会話2016年6月23日 (木) 14:11 (UTC)[返信]
  •   コメント-ねこぱんださんコメントありがとうございます。このコメントはつまり、青林堂は信頼できる出版社ではないと説明づけるものでしょうか。ただ、青林堂の評価をウィキペディアのページだけで判断するには参考文献があまりに乏しく、資料が少なすぎます。適当な説明資料とは言えません。ねこぱんださんは青林堂の評価を説明づける、また裏付ける資料の提示および説明が求められます。また、ケース1における諸資料が他の出版社であった場合には、その情報源は認められるものとお考えしていると理解してよいのでしょうか。
  • ところで、「体験談であって、きちんと自分の体験を何かで検証したものではないようです」とする具体的な根拠、あるいは裏付ける説明があるのかなという疑問もあります。(ただ、この点についてはケース1のノートでの議論が行われていると思いますので返信は必要ありません。)--Koshi2016会話) 2016年6月23日 (木) 15:42 (UTC)--修正---Koshi2016会話2016年6月23日 (木) 16:06 (UTC)[返信]
  コメント最近、「出典として認められるかどうか」という形で議論が生じている感じですが、それは問題の立て方があまりよくないと思います。
芸能人が政治に言及している、ということを、政治学の記事に書く必要はないでしょう。しかし政治家や政策についての記事についてなら、反響や評価として書いたほうがいいこともありえます。ただし、政治に関する芸能人の意見は、専門家の意見として扱うべきものではありません。政治学者や経済学者による評価とは異なりますし、ある事実についての言及であるとしても、ジャーナリストや研究者の手法とは異なります。書く上で、また情報を取捨選択する上で、適宜区別する必要はあります。また、記事で取り上げるかどうかは、その芸能人の立ち位置や知名度、その言及していること自体がどれくらい話題になったか、といったことで判断することになると思います。これは記事の書き方の問題、情報の取捨選択の問題です。
ポイントとして挙げられているものについては
  • 1)その芸能人は「ある分野の専門家だと主張」しているわけではないのですよね? その引用部から読み取らなければならないのは、一般的な記事については、その主題を専門とする人たちの見解をまとめることが求められていて、そうでない人の意見を、専門家の意見と並べて書くことは適切ではない、ということです。記事の種類によっては、専門家の見解だけではなく、社会的な反響を書く必要があるものもあります。そうしたときに、芸能人の発言は話題性や影響力があることもあり、記述するに値することもある。通常、学説や事実といった事柄については、芸能人の意見は、あまり役に立ちません。
  • 2)芸能人の政治的な発言を掲載する場合は、その発言の中身についての査読が必要というわけではありません。むしろ専門家ではない人々の意見を代表していたり、素朴な本音の発露のようなこととして取り上げられるわけです。ここで求められる「信頼性」とは「確かにその芸能人がその発言をしている」ということです。またその出版元や発表の方法によって「その発言がどれくらいの人に届くものか」ということを、記事を編集する時には評価することになります。
  • 3)基本的には、芸能人は「芸能」の情報源にもなりにくいでしょう。その芸能人自身、仲のいい他者の行動や考え方について、当事者的な情報源にはなりえますし、その芸能人が専門とする芸の話についてなら実践者の考えとして扱うこともできる。
  • 「タレント議員」と「芸能人」は区別するべきです。タレント議員は、タレントであり議員でもあるのですから、政治に関する事柄に関しては「議員」として扱うということになるでしょう。
もともとの議論は
自由と民主主義のための学生緊急行動(SEALDs)のデモに参加した経験がある千葉麗子は、SEALDsは共産党の傘下にあり、共産党員の子弟が多いと述べている[162][163][164]。
について、なのですね? これは政治についての芸能人の意見ではなく、デモに参加した人の当事者による事実に関する報告として扱われているもの、だと思うのです。ならば、その報告者の信頼性、出版時のファクトチェックの信頼性が問題となります。千葉さんはジャーナリストではなく、出版時にこの種のファクトをチェックするような類の本ではなさそうです。少なくとも当事者としてデモに参加した際に感じたことの記録としては使えなくはない。
傘下、と書くなら、そのような関係が明確に結ばれていなければならないでしょう。共産党とSEALDsの関係について書くのならば、まずは当事者双方のコメントなどを探すのが先です。千葉さんの本は未見ですが、そこで断定的に書かれていたとしても、当事者が傘下に入った/入れたと言っているとか、組織図に書かれているとかでなければ、「傘下に入っている」とは書けません。「共産党員の子弟が多い」と書くなら、どのように調べたか書かれていなければ印象の域を超えないでしょう。適切な情報源の使い方とは言えません。常識的には「デモに参加した経験がある」だけでは、事実として「SEALDsは共産党の傘下にあり、共産党員の子弟が多い」と書くのは無理があります。本の中で、ちゃんと調査しているなら、別ですが。一方「SEALDsのデモと日本民主青年同盟のデモの類似性」なら、当事者が感じた印象ということであれば、書くことはできると思います。
[163][164]には「SEALDsは共産党の傘下にあり、共産党員の子弟が多いと述べている」ことが確認できませんでした。[163]のlivedoorニュースのほうは「SEALDsは共産党の傘下にあり、共産党員の子弟が多いと聞きますが、中には共産党と無関係の学生が、シンボルマークやフレーズの格好良さ、音楽やダンスの楽しさに惹かれ、事情を知らずに入ってくる、そんな学生もいるでしょう」とあります。この部分が記事の著者によるものか、千葉の本にあるものか分かりません。この記述では「と聞きますが」という誰が言ったか分からない伝聞に過ぎず、伝聞であることがウィキペディアの記事の記述に反映されていません。引用部の区別も明瞭ではなく、情報源として信頼できるものではないと感じます。当該部分から書けるのは、せいぜい「SEALDsは共産党の傘下にあり、共産党員の子弟が多いという話が広まっている」でしょう。それならば、SEALDsのほうの記事にある、公安関係者の東スポでのコメント「共産党や日本民主青年同盟(民青)が裏で手を引いているとの指摘もありましたが、それはないと判断しています。むしろ、共産党や民青が一枚かみたいとシールズに近づいているという構図。それもうまくいっていません」[2](内容は[3]など)を併記するべきです。小坪の見解[4]も似ていますね。「共産党のHPには「各地の行動予定」というページがあり、ここにSEALDsの日程も告知」したり、「SEALDsの車両が共産党のそれであったり、明確に関係性を示す物証」が出てきているが、「デモにしてもノウハウが必要であり、安保法案反対という同じ活動方針ゆえ「融通しあったり、助け合ったり」しただけ」で、「実態としては、党組織の若返りが悲願の共産党であったり、もしくは過激派などがSEALDsに近づいている程度」であり、「関連はないと考えています」が、「しかし、混同されつつある」。
共産党とSEALDsの関係として、「互いに直接の関係があるとはしていないけれど、比較的近い関係と思われるし、連携している場面も多い」というようなことを書くのなら、その関係の近さを物語るエピソードの一つとして、現場に足を運んだ当事者の印象を含める、ということで、千葉さんの本を使うことはできるでしょう。ただ、共産党の項目もSEALDsの項目も、千葉さんの本や世界日報といった情報源で書くよりも、赤旗を情報源にして「志位さんがスピーチするなど」にしたほうが「互いに直接の関係があるとはしていないけれど、比較的近い関係と思われるし、連携している場面も多い」ってことが伝わると思いますけれども。--Ks aka 98会話2016年6月23日 (木) 17:47 (UTC)[返信]
そりゃ確認できませんわね。もともとの出典は[5]だったのだから。タブロイドは不可として無条件削除していたグループなので、これが元々夕刊フジに書かれた千葉のインタビュー記事だったのを指摘され出典は千葉の著書だと言ったあたりで記事矛盾。夕刊フジを出典として認めればいいだけなのにね。なら「夕刊フジによれば」で記事にできるし。シールズのことはシールズに書けばいいだけと思うけど。学校公式のそれとは別の有志による同窓会HPやらも出典にしているし、別の場では否定的な記事は一律削除だと言ったり、このグループの基準が不明ですね。--58.90.13.157 2016年6月23日 (木) 23:56 (UTC)[返信]
  コメント-Ks aka 98さん、コメントありがとうございます。
記事の書き方の問題、情報の取捨選択の問題において、記事の信憑性を検証し、掲載するべき記事を検討することに議論が交わされることは十分納得のいくお話しです。「その芸能人の立ち位置や知名度、その言及していること自体がどれくらい話題になったか、といったことで判断することになる」、その点を判断する指針となるものの一つが第三者から発行されたものであることがあると考えています。
しかし、芸能人であることを前提条件として、出典として利用できない理由とするお話しは理解に苦しむ点があります。芸能人による記事を検証して掲載するべき記事として判断できるのであれば掲載すればよい話ですし、掲載する必要がないあるいは掲載するには信憑性が薄いとするのであれば、掲載しなければよい。それだけのお話しと考えています。あまりにも「芸能人」であるために広義の政治(政治学、政治団体、社会活動など)、全てにおいて情報源となりえないとする意見はあまりに極端な考えと思われます。
ところで、共産党とSEALDsの関係に関連する千葉氏の発言、書籍に関わる議論そのものには、あまり関心がないため、私からのコメントはありません。各々のノートによる参加者の議論にお任せする限りです。--Koshi2016会話2016年6月24日 (金) 02:40 (UTC)[返信]
  •   コメント
    • IPさん:「国会前などのデモが、共産党関係者ばかりになるのに気づき」[6]の部分ですか。これを「傘下に入っている」「共産党員の子弟が多い」の出典に用いるのは不適切です。発言者が誰かとか情報源となる媒体が何か以前に、文意や情報の確度が違いますから、ジャーナリストやルポライターがタイムズやガーディアンに語っていたものだとしてもダメでしょ。
    • Koshi2016さん:「しかし、芸能人であることを前提条件として、出典として利用できない理由とするお話しは理解に苦しむ点があります」と書かれていますが、上のぼくの意見は、「なりえない」と考えるのは適切ではない、「なりうる」けれども信頼できる情報源として使える範囲は限られるし、書き方にも注意しなければならないと書いているつもりですが、そうは読めないでしょうか。
    • 「その芸能人の立ち位置や知名度、その言及していること自体がどれくらい話題になったか、といったことで判断することになる」ことを判断する指針の「一つ」は「第三者から発行されたもの」です。ただしそれは、今回で言えば、「千葉麗子が左翼批判を行った」ということにはそれなりに話題性があるということへの指針として使えるということで、本文中にある共産党とSEALDsの関係について、とまでは言えないと思います。
    • 今回は、基本的にはデモに参加した時の目撃情報ってことになると思うのです。「傘下に入っている」は見て分かるものではないのですから、目撃情報を超えたことを言っている、書いている。調査したうえでの発言である、という部分については、その発話者である千葉さんも、報じているメディアあるいは本の性質からも、信頼できる情報源とは言えない、と思いませんか? これが「誰某の姿もあった」と書いているなら、「千葉はその著書で誰某が参加していると書いている」と書けるでしょう。この場合は、その「誰某」の外見を区別できるかどうか、という部分の判断で足ります。これなら「その芸能人の立ち位置や知名度、その言及していること自体がどれくらい話題になったか、といったことで判断することになる」ということでよいでしょう。
    • 「当事者情報」を超えて、専門的な内容や調査が必要な事実について、記事で断定的に書こうとするような場合なら、「芸能人による記事を検証して掲載するべき記事として判断」する際の「検証」や「判断」をウィキペディアの編集者が行うのならば「独自研究」となります。検証や判断について信頼できる情報源があるのならば、それを用いて書くことはできる。これは芸能人だから、ということではなく、専門的な事柄を専門的な見解として書く場合は、専門家以外ならば、誰でも同じです。量子力学についての記事の主要部分に芸能人の見解も経済学者の見解も使わないし、国際法分野の事項の説明に芸能人の見解も文学者の見解も使わない。その芸能人や経済学者や文学者が有名で、それが話題になったり論争になったりしたら、「話題になった」「論争になった」ということについて記事に含めることはできる。--Ks aka 98会話2016年6月27日 (月) 08:37 (UTC)[返信]
  •   返信 (Ks aka 98様へ宛) -Ks aka 98様、誤解を招きかねないコメントをしてしまったようです。失礼しました。私は、Ks aka 98様は「、「なりえない」と考えるのは適切ではない、「なりうる」けれども信頼できる情報源として使える範囲は限られるし、書き方にも注意しなければならないと書いているつもりですが、そうは読めないでしょうか。」と説明しているものと理解しています。「しかし、芸能人であることを前提条件として....」以降のコメントはKs aka 98様に対するコメントではなく、私の疑問点の発端となる意見に対する私の考えを示したものになります。
  • 「「当事者情報」を超えて..」以降のコメントは納得できます。今後の活動のために参考とさせていただきたいと思います。ありがとうございます。--Koshi2016会話2016年6月27日 (月) 09:31 (UTC)[返信]

  返信 (議題提起者より全体へ宛) -多くの方々からのコメントありがとうございます。井戸端により、芸能人から情報源については、記事の書き方の問題、情報の取捨選択の問題において、芸能人の立ち位置や知名度、言及していたことの話題性、そしてその記事の信憑性を検証したうえで、その記事の掲載の判断をすればよいものとする考えに納得でき、私個人の疑問はほとんど消滅しました。したがって、議題提起者からのコメントは終了とさせていただきます。 (ところで、共産党とSEALDs等のノートにおける出典に関わる議論について、私からのコメントはありません。)--平成28年6月24日 (金) 09:04‎ Koshi2016 (会話 | 投稿記録)--署名を忘れていました。失礼しました。----Koshi2016会話2016年6月24日 (金) 15:39 (UTC)[返信]