Wikipedia:井戸端/subj/削除依頼での特筆性判定のあり方としきい値について

削除依頼での特筆性判定のあり方としきい値について

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猫が好き♪は第三者による出典はないうえに、「「環境運動家」として特筆性ある成果・業績があるという証拠はない、また確認できない。」とさえ書かれています。しかし削除依頼では次の理由により存続が決まりました。

削除すべきとのコンセンサスは形成されていないことと、削除しなくても法的問題は無いこと

疑問なのは特筆性理由の削除依頼ならばそれを示すことが存続条件ではないかという点です。ところが本削除依頼では特筆性を示す第三者による出典を出していない存続票を有効としているようです。しかし、特筆性をまったく示せなかった以上削除すべきではないのでしょうか?特筆性判定ではブレが大きいような気がしますので広く特筆性判定の考えとしきい値を知りたいと思います。--125.172.13.58 2010年1月1日 (金) 15:24 (UTC)[返信]

何か誤解があるようです。
> 疑問なのは特筆性理由の削除依頼ならばそれを示すことが存続条件ではないかという点です
「個々の削除依頼は管理者による終了判定で終了します」(Wikipedia:削除依頼#依頼の終了)。
> 存続票を有効としているようです
不正投票(例えばソックパペットによる投票)や参加資格をもたないユーザによる投票(Wikipedia:削除依頼#参加資格)でない限り表は無効化できません。
どうでもいいのですが、「「環境運動家」として特筆性ある成果・業績があるという証拠はない、また確認できない。」という記述に出典がなく、検証可能ではないことは問題にしないのを見る限り、特定の記事やその対象となる人物を叩きたいがために、方針を巡る議論をしようとする(しかもIPユーザのままで)ようにしか見えず、感心しません。--116.0.147.80 2010年1月2日 (土) 16:05 (UTC)[返信]
◆ビミョーに関係者なもんですから、当該項目の編集には参加しませんし、削除議論においても意見の表明や投票はさしひかえておこうと思っていますが、この削除依頼が「削除」で決した場合波及する部分がそこそこあるのではないかと懸念しておりました。で、と。
特筆性判断について。
特筆性に基づく削除依頼の取り扱いについては、確かに振れはありますが、原則として「全ての要素について特筆性がない」ということを削除依頼側が立証し、その主張がある程度説得力をもっていると判断された場合に、はじめて削除されるという性格のものであると考えます。「自分が知らなかったから」とか「特定のベクトルからは突出したものがない」とか、そういう立証があれば削除されるというものじゃないわけです。また、単に出典未記載などの場合は、加筆の対象であるとかスタブ貼り付けの対象であるとかがせいぜいであり、削除の対象とはなりません。
特筆性の判断基準についてブレがあるというのは、まあ確かに問題ではあろうかと思います。ただ、過去に「特定分野においてやたら厳しく特筆性が問題とされた(たとえばインディーズバンドの分野など)」といったことがあるものだから、異常に特筆性への要求が厳しい感性があるのも確かでございまして。その異常に厳しい特筆性への要求が根本的な問題であるように思います。「特筆性がない」という理由での削除依頼が出されたとして、それに反論をくらったら、「誰かにとっては特筆性があるんだなあ。ま、おれには無縁な項目だけども」とか思って引き下がり、当該項目を見るのをやめるってのが正しい道なんじゃないでしょうか。
特筆性については、過去にも山ほど問題となってきました。鉄道駅についても国道県道についても河川についても橋梁についても建築物についても、「自分には必要がない情報だし、たいして有名なもんじゃないだろ」という理由での削除依頼が山のように出されてきたし、これからも出される可能性があるんです。しかし、そういう情報を必要としているひともいるんですよ。あんたにとっていらない情報だからってそれをなきものとすることについてはもうちょい慎重であってはもらえないもんだろうか。
でだ。
「特筆性判定の考えとしきい値を知りたいと思います」についての答えですけれども、閾値は「ほとんど誰もが別段知りたいとも思わないような瑣末な対象」は、特筆性に基づいて削除されてしかるべきってことになるかと存じます。ただしそれは「(ある程度の客観的指標を伴っての)ほとんど誰もが」なのであり、決して「あなたが」ではないのです(「Lonicera思うにこのインディーズバンドは屑」なんていうのも基準とはなり得ません)。誰かが知りたいと思うかもしれない対象については、情報を充実することを優先して考えるべきなのであり、削除は少なくとも第一選択とはなりません。そこんところをきっちり肝に銘じなさい。
しかしまーなんだ。オポ姉も、生きているんだったらこの削除依頼を受けてフォローしろよ、とか思ったりしなくもないんですけどね。つつくとめんどいことになりそうなのでそこらへんはパスさしてもらいます。
ついでなんですが、この流れに悪乗りして名誉毀損系で作成保護されている項目あたりもまとめて復活させようとかいう意見が出ているようですが(って、それはいやがらせにすぎないと思うんだけども)、複数の要素をとっちらかりつつ主張をするのは馬鹿の証だからそういうのはやめておきなさい、と念のために言っておこうとか思うのでありました。世界ってあんがいめんどくさいんだよなぁ(ためいき)。--Nekosuki600 2010年1月2日 (土) 17:12 (UTC)[返信]
Nekosuki600氏へ原則として「全ての要素について特筆性がない」ということを削除依頼側が立証し、その主張がある程度説得力をもっていると判断された場合に、はじめて削除されるという性格のものであると考えます。としていますが、これは悪魔の証明と言って存在しないものの証明を要求する無理難題です。だから特筆性はそれが存在する証拠を示すのが筋だと考えます。(125.172.13.58)--125.172.10.125 2010年1月2日 (土) 19:11 (UTC)[返信]
悪魔の証明にしないために後段があるんだけどね。
特筆性問題については、「特定の見地からのみ特筆性がない」という指摘に基づく削除依頼が横行しており、甚だしい場合には「どの見地から特筆性がないのか」についての見地が点々とするようなケースすらあるわけで、もっと慎重であるべきだという見解を強く維持します。ていうか、あって困らない項目は放置しておけばいいのになんでそんなに削除したがるのかが、おれにはわかりません。
時々間違っているのがあるのが困るわけだが、特筆性がないと言われかねない駅や特筆性がないと言われかねない交叉点なんかについても、「その読み」の情報あたりがおれにとっては貴重だったりする。「あなたにとって必要がない、特筆性がない情報である」ということは特筆性の判断基準にはならないんであって、「おそらくほとんど誰にとっても必要がない、特筆性がない情報である」という自信が持てる場合(そしてその自信がひとりよがりではないという自信も兼ね備えている場合)以外は、特筆性を理由とする削除依頼なんか出さないでもらえないだろうかと思います。--Nekosuki600 2010年1月3日 (日) 07:26 (UTC)[返信]
  コメント削除依頼への対処手続としては「削除すべきとのコンセンサスは形成されていないこと」を理由に存続、念のため「削除しなくても法的問題は無い」ということを添えているということでよいのではないでしょうか。「特筆性理由の削除依頼」というのは、現状では「百科事典らしくないことを理由とした削除依頼」で、その判断は、依頼の場での審議に委ねられています。提示された材料から、それぞれが特筆性があるかないか、またあると捉えてよいかどうかを審議に参加する利用者が判断し、根拠を書いて、必要なら(ノートなども使って)議論をすることになるでしょう。
判断の閾値は、人それぞれでしょうが、「インターネット上にあり、量的な制限がなく、誰でも編集できて、改訂が容易で、将来にわたってその情報が残るという性質を持つ百科事典に掲載するに足りるかどうか」ということになるでしょうか。「あなた」にとって些細だからといって削除するわけではなく、「あなた」にとって必要だとしても百科事典としては不要な場合もある。
審議の中では、少なくともその特筆性を判断する情報源が示される必要があると思います。誰かが記事を作ろうと思う程度には知られている事柄や人物に対して、「特筆性がない」と断じるのは、なかなかに失礼なことでもありますし、本人が関係しての論争となる可能性があります。また、審議参加者は、その対象について十分な情報を得られるわけではなく、また得るための努力をする義務もないですから、情報の一部をもとに判断していることになります。削除するとしても、「特筆性があると判断できるだけの情報が得られていない」という理由が望ましいと考えます。
ぼく個人としては、特に存命人物について特筆性が理由とされる削除依頼では、その記述が将来的にプライバシーなどの問題を生じうることもあるため、年齢や職種などに応じて比較的「特筆性」については厳しめに捉え、その特筆性を判断する情報源が示される必要があると思います。たとえば第三者的立場から記事の対象を扱った情報源の存在というのは(不可欠ではないとしても)ひとつの基準になると思います。
例示されている案件では、特筆性についての閾値とその判断基準について全体的にも審議の中でもコンセンサスが得られていないという前提で、本人がウィキペディアンであり上で書いたような懸念はおそらく生じないと思われ、また本人による宣伝的な記述への懸念も小さいと思われるために、存続となったと捉えるのがよいのだと思います。この案件が存続となったからといって他に波及させるべきではなく、むしろ、今後、他の存命人物の特筆性の判断から整合性をとるために削除にもなり得るということではないでしょうか。--Ks aka 98 2010年1月4日 (月) 03:20 (UTC)[返信]
例示案件の依頼理由は「インターネット検索でヒットしない=特筆性がないのでは?」ということだと思います。これはNekosuki600氏の述べる「特定の見地からのみ特筆性がない」状況ではないと思います。これに対して存続を主張するならば特定の見地からでもよいので出典を示すことが筋であると思います。私は出された存続票にはいずれもそのような出典はないと見ていましたので判定に疑問を感じていた次第です。ところが「自費出版ではない著書を複数確認できる」という特筆性の基準が示されましたので納得できました。ただ、コンセンサスの形成という点については疑問が残ります。それは対象や執筆者が有名なウィキペディアンかどうかや審議の場の空気に影響を受けると思うからです。やはりできる限り客観的出典に基づいた判断を目指すべきだと思います。(125.172.13.58)--222.145.22.6 2010年1月4日 (月) 15:58 (UTC)[返信]
◆たっとえっばさー。こんな橋があるんすよ。ところが、少なくともWeb上で探した範囲では、この橋の名称がわかんないんだなあ。まあ、全く情報がないということは考えにくくおれの探し方が良くないんだろうと思うのだが、おれはサーチャーとして弩無能なわけでもないと思うんで、おれに探せない情報はそんなに簡単にみつからないのではないだろうかとか思ったりして。知ってるひとやわかったひとがいたらレスつけてね(=^_^;=)。
果たしてこの橋に特筆性はあるんだろうかないんだろうか。
まあ、こんな橋なんざ普通の人にとっては単なる実用品でありどうでもいい橋梁なのかもしれません。それを言ったら大半の橋梁項目なんか特筆性がなくなるような気もするわけだが。ソリッドリブタイドアーチ橋の見本として無名橋の事例としては使えるかもしれないなー、とか思うやつもいるんだろうな。
なんていうの。「特筆性を理由として『百科事典的に不要』という判断を下せるやつ」って、すんげえ思い上がってるやつであるような気がする。まあ確かになんだ、インディーズバンドの関係者あたりが宣伝目的で立てた項目あたりについては頭が痛かったりするが、そのあたりだってあればありがたい日が来るかもしれないんだぜ。おれの手元に1980年代なんだろうかに松戸~土浦あたりの常磐線エリアのライヴハウスで録音されたらしい『Tokyo』というタイトルらしいすばらしい歌のテープがあるんだが、これを誰が作り誰が歌ったのかがわからなくて困っていたりするんだよなあ。誰か「血に飢えた子守の汚い手を見ろ♪」ではじまる『Tokyo』の正体がわかるひとはいませんか(さすがにここらへんまでを視野にいれた情報の蓄積をWikipediaに求めるのは無理だろうなあ)。
果断に「おれの価値をかけて、これはいらんと思う」とかいう問題提起をするのは、それはそれでありだろうと思うし、そういう勇気をおれは尊重したいと思う。ただ、偏狭な価値判断で「これはいらん」とかわめくだけでは、それは勇気でも果断でもなく、単に独断であり偏狭であることの証明にしかならないだろう。削除依頼ってのはそれなりに怖いものなんだってことをわかった上で削除依頼に参加しろとか思うのでありました。--Nekosuki600 2010年1月6日 (水) 12:14 (UTC)[返信]
「本人希望」という要素

存続終了の判定を出したsysopです。存続5・削除4で存続終了するに当たっては、ラフ・コンセンサスおよび法的問題が無いこと以外に、(1)自費出版などではない著書がNDL-OPACで複数確認できること(このため特筆性がないとは言いきれない)、および (2)この依頼について存命人物本人が特に削除を要請していない こと も考慮しました。もし存命人物本人と強く推測される人が削除を要請なさっておられた場合、私は存続終了判定は出さなかったでしょうし、コンセンサスが存続・削除、どちらにも形成されなかった場合には削除したかもしれませんー英語版で言えばen:Wikipedia:Deletion policy#Deletion discussionにおける、"Discussions concerning biographical articles of relatively unknown, non-public figures, where the subject has requested deletion and there is no rough consensus may be closed as delete."ということです。--2010年1月3日 (日) 02:23 (UTC)

  コメントうーん。該当する感じの『個人攻撃専用アカウント』については、こちらでコメントを募集しています。宜しかったら皆さんどうぞ。で、特筆性の閾値ですが、何を問題とするか、この議論がよく分からないのです。特筆性が無いので削除すべきである、の根拠はなんでしょうかねぇ?

猫が好き♪(ねこがすき)は、日本のネットワーカーである。様々なネット環境で活躍したため、ごく一部の人のあいだではよく知られている。

の出典に関しては、この議論(が保存されたもの)を出典とすれば検証性は満たせるかと思われます。少なくとも一人は確認出来ますね。でまぁ、その場合、保存された議論を出典とするのはアリなのか。ナシなのか。 で、同様な件として擬古猫に関しての記述が止まってて翻訳も出来てません。申し訳ないのですが、情報が結構足りず、脱稿当時検証性を満たすはずであった過去ログ保存サイトは現在ありません。となると、自らが保存ログを提供する感じになるのですが、これだと第三者の観点によるログの提供では無くなってしまい改竄の可能性を疑われる結果になりますから出来かねます。こういった場合、出版物による検証可能性を満たす事がもっともポピュラーではあるのですが、どうもそういう話はありませんし著作権保護の観点から勝手に出すわけにもいかない、かつ文化庁長官の裁定を得るための資金も無いため非常に記事の成立が危うくなっています。脱稿当時に比べて現在の記事はあらゆる意味でその検証性の一部が成立しえない状況です。困ってます。ま、それはさておき、冗談による記述と荒らし行為についてはこちらの記事でその対応に困っています。コレの原因は多分写真掲示による人格権についての警告を使った個人的な嫌がらせではないかとも思われまして、こういう場合はどこに相談をしたらいいのかなーと対応に苦慮しています。当面は編集対応で何とかなりそうですが、そのうちwikipedia:半保護を依頼しなければならなくなるのでは? とも思われまして……まぁ、ぶっちゃけ荒らしの対応というよりもそんだけのツッコミを私が受ける理由は何やねん、ってのが最大の疑問ですが……まぁ、これも一つのwikipedia的対応、みたいな感じを凄く受けますね。以上、乱筆失礼いたしました。くだらない記事、の閾値ですが、僕はそんなものは基本的に存在しない、と思います。内容が充実しないstubだらけは困りますが、ソレもひとつの記事の表現として適切かと。--基 建吉(MOTOI Kenkichi) 2010年1月6日 (水) 17:54 (UTC)[返信]

改めて、特筆性について

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しばらくコメントがなくて話が終わりそうなものですから、ホーミングがてら、というか「特筆性についてのある程度の決着」をつけらんないかという意図をもって、続きを書いておきます。

まあ、特筆性についてはいろいろな考え方があるわけですが、と。

たとえば地方政府の項目があります。都道府県や市町村特別区です。それらについては「全てに特筆性がある」という認識でおおむね一致しているように思われ、「網羅すべきもの」とされているようです。過去に短期間存在しただけのものについては保証の限りではありませんが、日本語版Wikipediaでは、おおむね網羅されているようです。おれ的にはなによりであり、ありがたく、その情報を使わせてもらっています。

それらの全てに「特筆性を理由として削除依頼を乱発する方々に納得してもらえるようなレベルの特筆性やニーズがあるのかどうか」というと、微妙な疑問を感じたりもします。しかしこれらについては「網羅すべきもの」という点で合意されており、「無名な村であり特筆性はないから削除すべき」という削除依頼を見た覚えはありません(ないと断定するつもりはない。丁寧に探せばあるんじゃないかなあ。もっともそれはもう覆し得ないレベルで否定されているコンセプトだけれども)。

たとえば学校の項目があります。公立私立を問いません。それらについては、日本語版Wikipediaのコミュニティ上で「全てに特筆性がある」という認識はなく、しばしば「ごく普通の小学校であり特筆性はないから削除すべきだ」という提案がなされています。しかし実在した学校については、現存するものであれ廃校になったものであれ、そして現在の在校生あたりが投稿したスタブにすぎない自画自賛情報しかないものであれ、項目として育つ可能性があるし、そういう情報を求めるひとがいるかもしれないのであって、あえて削除をしなければならない理由はないんじゃないかと、おれは思うんです。たとえばおれは、すでに廃校になった「八総鉱山小学校」のことを知りたいと思っているけれどもなかなかまとまった情報が得られなくて苦労してたりするし。

なんで地方政府については「網羅すべき」とされているにもかかわらず「学校」については「特筆性があるものだけしか存在してはならない」という考えが延々と主張され続けているのだろう、とかいう疑問を抱いたりするわけです。個人的なニーズで申し訳ないけれども、おれはたとえばたまたま通りすがりで目にした「芳醇小学校」について「なんでそんな名前になったんだろうか」とか思ったりするし、「現・柏市立第二小学校」が小金牧の捕込に立地した理由を知りたかったりするし、「柏市立小山小学校」が移転を余儀なくされた経緯を知りたかったりするし、「西尾小学校」の歴史を見直してみたかったりするぞ。それらは、まあ確かに突出した歴史を持っている学校ではないが、それぞれの場所の郷土史と密接にかかわりあってくるんで、情報があっても誰かが迷惑するようなものではないだろう。なんで「学校項目は網羅すべきだ」というコンセンサスがなく「突出した学校以外は項目があってはならない」という考えがあるんだろうか。おれはその理由が知りたい。

ある分野について「網羅すべきだ」というコンセンサスがある場合があります(地方政府や鉄道駅の項目がそれらの代表例でしょうか)。ある分野について「突出したもの以外はいらない」という主張が声高に述べられる場合があります(コンセンサスがあるかどうかについてはいずれも微妙だ。学校やバス停や交叉点あたりが典型例になるでしょうか)。その違いは何なのか。それを考えてみませんか。

かなり挑発的に書いてみるんだけどさ、おれ思うんだけどさ。

インディーズバンドの項目あたりについても、あんなに血眼になって削除してまわる必要なんかなかったんじゃないかなあ。関係者・当事者が立項したんだとして、そいつらが「おれらWikipediaにも載ってるんだぜ」とか言って威張るくらいのことはあったかしらんのだが、でもそれでそいつらが売れるわけじゃないっしょ。そいつらが馬鹿だったり思慮が浅かったり才能がなかったり運にめぐまれなかったりしたら、未来から振り返れば「存在したのだが、馬鹿であった・思慮が浅かった・才能がなかった・運にめぐまれなかった、などの理由で、結局売れませんでした」という情報を提供してくれたってことにとどまるんです。それならそれでいいじゃないですか。そしてそいつが堅気の生活を送り始め、若気の至りを恥じる気になったとして、しかしそんときにはもう「Wikipediaに投稿をした」ということは消せなくなっているのだってことで、ぜんぜんかまわないんじゃ、ありませんか。

基本線として「有害なもの以外は貪欲に取り込んで残して行く」ってことで何が問題なのかが、いまだにおれにはわかりません。Wikipediaなんてどうせトップダウン的完成度を求めても無理なしろものなんだ、という諦観を共有できるといいなあなんてことを、改めて述べてみようと思うんですよ。トップダウン的完成度を求めてるひと、おれも過去にはそういう可能性があるんじゃないかと思って模索してみた時期があります。でもおれは、そういう道は「あり得ない」と結論したんです。そこを突き詰めて考えずに削除主義に走っても、暇があればおれはその全てに反論することができるだろうと思う(さすがにそんだけの時間はないんで、いちいち応じませんが、同じコンセプトに基づいて削除主義に立ち向かってくれる包摂主義者が増えたらいいなとは思っています)。--Nekosuki600 2010年1月20日 (水) 16:21 (UTC)[返信]

Nekosuki600さんのご意見を読んで、Wikipediaで記事を投稿しながら常々考えるところがあり、私なりの意見を書き込ませていただきます。最近私は関東地方の古墳の記事を多く書いていますが、中には地元の人でもあまり知らない、世間的にはほぼ「無名」に近い古墳の記事も書いています。またアウトサイダー・アート関連の記事などを書いた経験上、いわゆる特筆性なるものの危うさを感じています。
例えば古墳は全国に16万基以上存在するのだそうで、「16万基ある古墳一つ一つについて記事が立ってしまうのはどうなのよ?」という考え方もあると思います。そうするとどこかでWikipedia上に記載されるべき古墳、記載されるべきではない古墳についての線を設けることになります。私の最近立てた記事に駄ノ塚古墳がありますが、この古墳、現地に行けばわかりますが、下総台地の植林された杉林の中に、地元の教育委員会などが立てた古墳についての説明版もなく、ただ大きな土まんじゅうがあるだけです。それもそのはず、駄ノ塚古墳は国、県、市いずれの史跡にも指定されていません。「突出したもの以外はいらない」という論理でいくのならば、「そんな地元自治体の史跡にも指定されずに放置されているような古墳なんか、書く必要がないから削除だ」という意見も成り立ち得るでしょう。ただし、駄ノ塚古墳は史跡指定こそされていませんが、終末期の古墳として専門書でかなり良く取り上げられている古墳で、史跡の指定云々で削除されるとしたらたまったものではありません。駄ノ塚古墳の場合、これは自治体と専門家との間で古墳についての評価にギャップがあると考えられます。つまり自治体は特筆すべき古墳ではないとの見解で、専門家は特筆すべき古墳と考えていることです。そして実際古墳を見て廻り、調べていく中で感じるのは、専門家の中でも評価が定まっていない古墳がまだまだたくさんあり、「専門家が大きく取り上げていないので特筆性がない古墳」という切り分けも成り立ち得ないように感じています。そのため私としては「客観的な参考文献に基づいて書くことができる古墳は、全て記事として成立させるのが望ましい」というスタンスを取っています。
アウトサイダー・アートの問題はもっと深刻です。これはアウトサイダー・アート自体の定義が「既存の美術体系に属すことなく、独自に創り上げられた芸術」なのですから、既存の美術の網(例えば権威ある賞の受賞とか…)にかかる方がむしろおかしい。つまりアウトサイダー・アーティストの記事はインディーズバンドではありませんが、究極のインディーズ芸術活動について書かねばならない、そんな「権威ある賞」のような、Wikipediaで望ましいとされる特筆性から背を向けるようなアウトサイダー・アートの特筆性っていったいどうやって担保するのでしょう?
私はNekosuki600さんほどの過激派ではないので(笑)、全部の学校の記事や16万基あるという全国の古墳全てについての記事があって良いとまでは主張しません。ただし特筆性とはそれぞれの立場からどうしてもゆらぎが生じてしまう概念であり、またアウトサイダー・アートのように特筆性の概念になじみにくい分野も百科事典として取り上げていく必要がある以上、どちらかといえば緩めかつ慎重に扱うべきで、基本的には客観的な出典があり、それに基づく記事が立てられるものならば存続するのが望ましいと考えています。--のりまき 2010年1月30日 (土) 01:25 (UTC)[返信]
のりまきさんどーも。古墳ですか(「古墳」というワードに反応してぴくぴくしただけなんですが)。
いやあ。16万くらいならば網羅してもいいんじゃないかと思ったりします。誰がその労力を負担するのかってのは別論として、まあわれわれの世代で網羅が出来なくてもいいじゃんいつか網羅される日を期待してやっていきましょーよ、みたいな。いまざっと気になって検索してみたのですが、玉造町の三昧塚古墳も流山の三本松古墳もまだ記事ないのねー、みたいな(なんでそんなマイナーなものを思いつくんだ(=^_^;=)>おれ)。
なんていうの。もし16万余の古墳の記事が網羅されたとして、こんどは「今自分が知りたい古墳の情報にどうやってたどりつけばいいのか」みたいな問題が出てくるだろうと思うんですよね。そして、そのたどり着き方についてのノウハウで悩むとかっていうのが、Wikipedia的には正しいあり方じゃないんだろうかなんて思うんです。それは検索システムの増強によるものかもしれないし、関連項目からのリンクの整備によるものなのかもしれないし、全然違うテクノロジーの支援を受けたものなのかもしれないけれども。「有り余る情報に悩む」くらいのところまで早くたどりつきたいものだ、みたいな。
ある意味「特筆性を問題として削除を主張するやつが続出するような状況」というのは、その「必要な情報にたどりつくための手段が未整備である」ってことなのかもしれません。それが整備されていれば、削除したがるひとが削除したくなるような情報にたどりつくことがむずかしくなるわけですし。しかし今情報が失われたらあとあとそれを取り戻すことは難しいわけで、やっぱり「なるべく情報は残す」方向で考えてもらえるとうれしいんだけどなあ、とは思うのでありました。
なお、「現時点で、そして将来的にも、全面的に解明されることはなさげな古墳が、いっぱいある」というあたりはわかった上で言ってます。わかってる範囲でのみ書けばよく、わかんなけりゃわかんないと書いておけばいいだろう、みたいな感じ。--Nekosuki600 2010年1月31日 (日) 14:14 (UTC)[返信]
  コメントのりまきさんの考えは、特筆性を理由に削除しようとしている人たちや、正式化されていないの特筆性関連の方針とも共有されていると思いますよ。Nekosuki600 さんの意見とは本質的に異なると思います。
「終末期の古墳として専門書でかなり良く取り上げられている」なら、複数の専門書を出典として挙げ、終末期の古墳を研究する上でよく取り上げられていることがわかれば、特筆性は担保されたと考えられます。「アウトサイダー・アート」は、「既存の美術体系に属すことなく、独自に創り上げられた芸術」で、単に「独自に作り上げられた作品」ではないですよね。既存の美術体系からは評価されていなかった、無視されていたけれど、誰かが芸術だと評価し、価値が認められたものの一群が「アウトサイダー・アート」です。「ミンガリング・マイクとは段ボールでレコードジャケットを作ったアーティスト」だけではなく、情報源として『ミンガリング・マイクの妄想レコードの世界 アウトサイダーソウルアート』[1]を示してあれば、その作品をまとめた書籍があり、日本でも刊行されているというだけの特筆性があることがわかります。
ウィキペディアの執筆者の誰かが、、「既存の美術体系に属すことなく、独自に創り上げられた」無名の作品を、俺が素晴らしいと思ったから、俺が重要だと思ったからということで記事にすることを回避するのが「特筆性」です。その境界線を引く上で、有効だと考えられるのが、のりまきさんも書いている「基本的には客観的な出典があり、それに基づく記事が立てられるもの」ということになると思います。特筆性というのは、単に誰でもが知っているということではなく、たとえば自治体の評価は低いが専門家の間では重要であるということならば、専門家の評価を示すことができます。もう少し踏み込むなら、本人が公開している出典の場合は「客観的」とは言えないでしょうし、出典がデータベース的な書籍・記事だったり、その出典の内容から、たまたま名前が出ているだけのようなものであれば、特筆性の判断では重視できないでしょう。ある概念が用例として存在することだけはわかる、事物の実在だけは確認できるということでは、特筆性の問題を回避できたとは言えないでしょう。
ただ、どこで線をひくか、どの程度の情報源が示されればよいか、情報源そのものの評価はどうなるか、といったことは、分野によって相当異なるでしょう。そうしたことは、まずプロジェクトで意見を出し合うなどその分野の執筆者間で意見調整をするということになると思います。16万基あるとされる古墳すべて作るべきだ、古墳である可能性がある土まんじゅうはすべて作るべきだ、地元自治体の史跡に指定されたものに限定する、専門家が大きく取り上げているものに限定する、客観的な参考文献に基づいて書くことができるものなら書く、どれが妥当なのか、というのは、実際に調べている人でなければ判断が難しい。それとは別に、その分野を書いている人は、何でも書きたいと考えて広めにとることもありますから、削除依頼ではコミュニティ全体としてそれはいくらなんでも、という意見が出るかもしれません。
学校やバス停や交叉点は、それぞれのプロジェクトのなかで、比較的抑制的な意見が出ていたようですし、バス停や交叉点だと「基本的には客観的な出典があり、それに基づく記事が立てられるもの」は、それほど多くはないと思います。--Ks aka 98 2010年2月1日 (月) 01:58 (UTC)[返信]