Wikipedia:井戸端/subj/存命人物記事の、百科事典的な記述と百科事典的でない記述の区別の仕方について

存命人物記事の、百科事典的な記述と百科事典的でない記述の区別の仕方について 編集

存命人物記事の、百科事典的な記述と百科事典的でない記述の区別の仕方について教えてください。先行する議論があれば、教えていただければ助かります。営業コンサルタント・実用書の著作家である和田裕美の記事で以下のような平行線の議論になっており、困っております。

  • 神社関係の活動について書くべきか。社団法人神社プラス1 を立ち上げ、熊野本宮大社参与であり、第三者が神社復興活動の熱心さに言及しており[1]、和田氏自身の神社への言及もあり[2]、『神社が教えてくれた人生の一番大切なこと』[3]神社のおかげさま――これがあなたの生きる道』といった著作もあります。
  • 「花の蜜にミツバチがよってくるように、自然といいことやいい人が集まってくる明るいオーラ」の大切さを説く和田氏の理論「ももいろ波長」について書くべきか。『いいことだけが「今」から起きるももいろ波長の身につけ方』という著作があり、公式サイトでも紹介されています。

両方掲載すべきという私と、一般的に和田氏が紹介されるときに触れられることはなく、百科事典的でない情報なので掲載すべきでないというもうお一方とで、終わりの見えない平行線になっています。些細なことかもしれませんが、私には、このふたつが百科事典的でないという主張の根拠が分からず、納得することができません。納得できないので、合意することもできません。 存命人物について、出典のある記述の掲載の「あり」「なし」を判定することはできる、またはすべきなのでしょうか?する場合、どのような基準で行えばよいのでしょうか?その基準はあるのでしょうか、それとも都度都度話し合って決めるのでしょうか。話し合いが座礁した場合は、どうすればいいのでしょうか? 堂々巡りになっており、皆様のお知恵をお借りしたく、よろしくお願いいたします。--名香野会話2019年6月24日 (月) 13:36 (UTC)[返信]

  コメント 記述バランスの問題で、現在の記事内容は殆ど全て主題の活動内容を礼賛し、節を設けて著書で述べている主張の内容を列挙解説する著作/主張紹介記事になっていますよね。ですから、その更に下に「その他の活動」と称しつつ加筆されている内容は主題の考え方と主張を更に補強するものになっており、上の節と重複していますから、正にWP:NOTPROMOTIONを地で行っているのであり、主題の人物のプロモーション活動(金銭授受の手伝い)をしている状況に陥っています。
◆それらの記述を今すぐ全抹消除去せよ、とまでは言いませんが、バランスを取って、「主義主張の結果、現状の第三者評価はどのようなものに変化しているか、または過去の第三者評価はどのようなものであったか」といった客観的かつ中立的な内容を加筆する方向にシフトし、異なる方向性を持つ記述の分量がそれぞれ同等になる程度まではこれ以上の著作/主張紹介は不要である、と断言できるように個人的には思います。
──もう少し簡単に噛み砕くと『著作の内容ではこんな主張をしている』という「だけ」で終わる記述は要らないもので、ほんとうに必要なのは『著作の内容は世間一般にこのように受け止められ、こんな評価が為された』という客観的評価の方が重視されますし、公式出典に依らない(公式が述べる/主張するのと同じ内容を記述した)第三者言及出典が見つからないのであれば、それは「公式はこう言っている、『そして』客観性評価ではこうだ」と書けない時点で中立的な信頼性が低い、と看做す見方もあります(WP:SELFSOURCE)。--Nami-ja [会話 履歴] 2019年6月24日 (月) 14:22 (UTC)[返信]
  コメント もう一方の当事者です。「特定のトピックを記述することが妥当か?」という趣旨の質問ですが、本質は全く違います。そもそも、現時点において本件で提出されたトピックの記述に反対している人はいません。
全体をお話すると込み入ってしまうので端折った説明になりますが、まず現在の構成に関して、和田氏はビジネス書作家であり、それを主たる活動の場にしているにもかかわらず、関係者と思しき者たちとの編集合戦を経て名香野氏がそれとは離れた(私には趣味に見える)神社やスピリチュアル寄りの著書、和田氏の著書は数十冊出ているようですがそのうちの2冊とごく一部の取材だけを取り上げて記述に固執するようになったものです。私は和田氏のプロフィールや紹介記事を概観して、活動として「神社」と「ももいろ波長」に特筆性があるとは思えないのですが、「出典があるのだから記述すべき、削除には反対」と一貫して主張する名香野さんの態度に折れて、バランスをとるために慶応大学で第三者がまとめた講義録などを参考に記述をしたものです。
名香野さんは特に必要もないのに存命人物の説明に「スピリチュアル」と書き足す傾向があるようで、これもその延長線上かと思われます。和田氏に対しても、出典のないまま「スピリチュアルの講演を行っている」という記述をしていて、指摘の末に削除に同意した経緯があります。また、しばしば議論の過程で「ルール」とはおっしゃいますが、具体的にどこかは説明されることが少なく、説明されたとしても「AだからBなのでC」という原文に対して「BなのでD」という誤った文章解釈を示して議論のミスリードを企図したことも一度ならずありました。許容範囲のある事項に対して、すべて禁止と解釈して機械的に除去する傾向もあるようです。
「神社」と「ももいろ波長」ばかり記述することはバランスを欠いている、なぜならば、という話も一度ならずさせていたように思いますが、名香野さんからは「それは問題ない、なぜならば出典があるからだ」というバランスのことはことごとく避けて話をされるので平行線ではなく、噛み合わない状態が続いています。
どうも、出典があれば何でも良いとお考えの節があり、それが「中立的な観点」や「独自研究を書かない」と矛盾する可能性については検討されていないようです。
今回神社と『ももいろ波長』という著書の記述を削除したのも、現在の記述では情報の合成の疑いがあるので一旦削除したに過ぎないのですが、そのお話は名香野さんにとってご都合がわるいのか、ここには出てきません。ここで議論を提示するまでもなく、記述すること自体は反対しておりませんので議論のテーブルに戻ってきちんとお話しいただくか、情報の合成にならないよう記述を改善していただきたいです。ここがご理解いただけないとなると、名香野さんの書かれた膨大なメンタルヘルス/スピリチュアル系の記述は全部査読しなければならなくなります。
Nami-jaさんからWP:SELFSOURCEの指摘もありますが、そもそも「神社」も「ももいろ波長」も和田氏のサイト内にあるものが出典です。これについても指摘しましたが、名香野さんが「問題ない」として議論になっていません。これも、私が仕方なしに折れている状態です。しかし、同じ場所からの出典として記述を追加してもよいか、という質問には名香野さんは答えません。
とにかく、名香野さんがそう仰るならば、これはOKなのですか?という質問を多数投げかけているのですが、質問に答えないことが多く、返答の代わりに下記のコメント依頼が出されたこともありました。指摘によりなくなりましたが、要約欄の不正使用による攻撃的言動もありました。いまだに謝罪もありませんが。
他の名香野さんの対話否定姿勢については、私宛のコメント依頼ではありますがまとめていますので、以下をご参照ください。
Wikipedia:コメント依頼/Lorenzo 0717
いずれにせよ、名香野さんにおかれましては、まず議論のテーブルについて、丁寧に文章を解釈して誠実に説明を行い、スピリチュアルに偏らない議論を切に切に、お願い申し上げます。--Lorenzo 0717会話2019年6月24日 (月) 23:43 (UTC)[返信]
他の方から客観的なコメントがいただければと思いましたが、Nami-jaさんのコメントに対しても、聞く耳を持たれないのですね。現状の記事に対する客観的なご意見なのですが。「「特定のトピックを記述することが妥当か?」という趣旨の質問ですが、本質は全く違います。」をおっしゃっていますが、私の理解は異なりますし、こちらからの質問に答えておいででしょうか?まともに活動もせず、特定の記事でただただご自分の主張を言い募るやり方に、その相手に、ほとほと疲れました。
私から見てLorenzo 0717さんのやり方も、やっていることも、とても受け入れられませんが、これ以上自分のリソースをつぎ込むこともできませんので、Lorenzo 0717さんに屈して和田裕美の記事からは撤退することにします。疲れたので、Leonidjpさんとお約束した瞑想の出典の整理とマインドフルネスの翻訳が終わったら、ウィキペディアでの活動もやめようと思います。Lorenzo 0717さんのやり方が通るということは、こうした情熱の不均衡による問題は、ウィキペディアではどうしようもないことなのですね。--名香野会話2019年6月30日 (日) 12:09 (UTC)[返信]

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Nami-jaさんのコメントに対しても、聞く耳を持たれないのですね。 — 名香野さん

Nami-jaさんのコメントは傾聴すべき内容もあり、今後の参考にさせていただきますが、名香野さんがやっていることが論点そらしであることは間違いないのですから、その指摘はしなければなりません。

問いの立て方が誤っている、すなわち「情報の合成だから記述を改めてください」とはっきり申し上げているにもかかわらず、出典の妥当性に話をすり替えて井戸端に持ち込んだと申し上げているに過ぎません。にもかかわらず、第三者からコメントが付いたからと言って、それが無条件に正しいものであるにもかかわらずお前は従っていないと論難するのは印象操作(Wikipedia:腕ずくで解決しようとしない#ルールの悪用)であるとしか言いようがありません。

私の理解は異なりますし、こちらからの質問に答えておいででしょうか? — 名香野さん

その理解について合意プロセスを試みましたが、ここ数週間は毎週日曜日になると私に対する些末な事柄をまとめたコメント依頼を出してみたり、論点をすり替えて井戸端に話を持ち込んだりして、まともに対話なさいませんでしたよね?何度ルールの悪用を申し立てようと考えたか。でもそこまでかかわる時間もないから放置していただけです。

質問に答えたか? それは、私から名香野さんに対する質問です。明示的に「回答を要求する」と書いたものだけでも10は下らないかと思います。果たして名香野さんはいくつお答えになったのでしょうか?

まともに活動もせず、特定の記事でただただご自分の主張を言い募るやり方 — 名香野さん

まともに活動させてもらえなかったのです。なぜなら、以下のように追い回して差し戻すぞと宣言されたからです。

出典の意味を理解していない利用者がいた場合、その方の投稿をさかのぼって問題のある投稿を修正するというのは良くあることです。私だけでなく、よく皆さんされています。 — 利用者‐会話:名香野#ワイヤーハーネスでの差し戻しについて

「修正する」と言っていますが、この人の編集履歴を見れば修正≒差し戻しです。議論すらありません。この人と落とし所を探らなければ他の記事が執筆できないと追い込まれてしまったからです。これはいじめであると何度か主張しましたが、名香野さんは肯定も否定もすることなく無視しました。

私は、説明責任を果たすために最大限の努力をしました。にもかかわらず、理解する努力を怠って「ただただご自分の主張を言い募る」などと主張するのは対話の拒否・否定でなくて何なのでしょうか。

私へのコメント依頼にも書いた通り、これとは別にアカウントがあり、名香野さんよりも活動歴はありますし、名香野さんも私に投稿歴以上の経験があるようだというのはお認めになっていたではないですか。この期に及んでもなお、「編集歴の少ない特定の意図を持った人間」という印象操作を止めないのですね。最近まで活動を休止していたのは私事で時間がなくなったことと、頑迷な利用者に疲れたからですが、復帰してみたものの、私も少々疲れました。名香野さんが撤退したからと言って、安心して他の記事を編集するかと言ったら、わからないですね。私もここ最近、日曜日の夜は憂鬱だったので。

とにかく、きちんと人の話をお聞きになって、出典があるものは中立性を無視してでも記述するべきなどと主張することなく、方針について曲解から架空の結論を合成することなく、性的差別を理由に方針を無視するなどの問題発言をすることなく、ついでになんでもかんでもスピリチュアル扱いするのをやめて対話してくださったら何の問題もなかったはずなのに、最後は個人攻撃と言っても良い低レベルの撤退宣言とは滑稽だし残念です。

しかしながら、機会があれば名香野さんの執筆は検証してみたいですね。情報の合成についてまったく理解がなく、方針の誤読も多かったので、きちんと書かれているのかどうかは非常に関心があります。

繰り返しますが、対話が成立しなかったことは残念の一語に尽きます。--Lorenzo 0717会話2019年6月30日 (日) 13:54 (UTC)[返信]