Wikipedia:井戸端/subj/皮肉な結果?
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皮肉な結果?
編集ウィキペディアに、「皮肉なことに」「皮肉な事であった。」「皮肉な結末となる。」「皮肉なものとなった。」なという「皮肉」という言葉を使った文章が多いのですが、これは執筆者の主観、論評ではないですか? ウィキペディアではこういう文章を書いてもいいのでしょうか? 例えば、「冷泉天皇」の「多くの親族に先立たれたのは皮肉な事であった。」とか、「陽成天皇」の「皇統継承を見届けたのもまた、皮肉な事であった。」とか、「ロバート・モリス (独立宣言署名者)」の「皮肉なことに、後年、債務者刑務所に送られた。」とか「ポンティアヌス (ローマ教皇)」の「皮肉なことにそれは、ヒッポリュトスと同じ日である。」などです。 あと、「評価されるべきであろう。」「評価されるべきものであろう。」「評価されるべきである。」という文章も多いのですが、こちらはどうでしょうか? --Ten3san(会話) 2012年7月5日 (木) 03:56 (UTC)
- コメント 記述されている歴史的な事柄などがしばしば皮肉なと表現されるようなものであれば、そのようにウィキペディアに書くことは、事象の理解を助けることに繋がります。そうした表現が用いられている情報源を示した上で記述するのがウィキペディアの方針などの面からは好ましいです。しかし、それらの表現がとられること、それらの表現がとられるような事柄であることが、その分野において共通の認識であったり、常識的な感覚と言えるような場合は、そのような表現を一律に排除するべきでもないでしょう。一般に受け入れがたい「執筆者の主観、論評」なのか、その表現が用いられている事柄や、それに関係する周辺的な事柄を知れば(もし、知らないのなら、そのための情報源は示されているはずです)妥当な表現なのか、あるいは記事や記述の性質から、特に偏った印象を避けなければならない場合もあるでしょうけれど、そうしたことを判断した上で、対処する必要があります。
- 一方、「評価されるべき」という表現のほうは、じゅうぶんな評価が(まだ)されていないけれども、「評価されるべき」という意味になりますから、好ましい表現ではありません。この場合も、「執筆者の主観、論評」ではなく、実際には「評価されている」のに、書き手の文章表現として、そうしてしまったということも考えられますし、あるいは誰かが「評価されるべき」と書いているのかもしれません。多数ではないが、影響力のある専門家が「評価されるべき」と書いていたのなら、除去ではなく、「誰が」を書き足すことが、好ましい修正です。記述内容に関する情報源をあたって確認したり、執筆者との対話を試みたりしながら、よりよい表現を用い、よりよい記事になるようにしてください。--Ks aka 98(会話) 2012年7月5日 (木) 05:16 (UTC)
- コメント「皮肉なこと」というコンテキストが出典からの引用であれば修正すべきではないことは明白。その場合は誰の発言なのかを不明確に引用した編集者の未熟というもの。出典が不明のときのみ編集者の見解とみなすべきであって、そのときに限り修正すべき。--あら金(会話) 2012年7月5日 (木) 05:28 (UTC)