Wikipedia:井戸端/subj/DVDや映画パンフレットは検証可能性を満たさない情報源か

DVDや映画パンフレットは、検証可能性を満たさない情報源か? 編集

テレビドラマや映画等の映像作品の項目を執筆する際に、該当作品のDVD(公式発売)等が、検証可能性を満たさない資料に当たるか否か相談させてください。

ノート:獣拳戦隊ゲキレンジャー#検証可能性が抜けていることについてで議論になりましたが、「公式に発売されているDVD」「公式に発売されている映画パンフレット」「公式に発売されているCDのライナーノーツ」等について、検証可能性を満たさない資料であるので、Wikipediaのルールでは出典と認められないというご意見をいただき、平行線を辿っています。

検証される方の手間を省くために、図書館等で閲覧できる書籍等があれば、なるべくそちらを優先的に出典として採用しましょうという配慮事項は、無論存じています。

今回の相談は、そうした配慮以前の問題として、公式DVD、映画パンフレット等の類が、国会図書館等でのアーカイブが保障されていない事を理由として、そもそも「検証可能性を満たさない情報源である」という考え方が、「Wikipedia:検証可能性」「Wikipedia:出典を明記する」の解釈として正しいか否かの確認です。(コメント依頼にすべきか迷いましたが、ウィキペディア全体の方針解釈に関わる問題と思いましたので、こちらに書かせていただきました)--Giftlists 2008年2月26日 (火) 04:17 (UTC)[返信]

過去にも議論があり、いろんな意見があるようです。ぼく個人の意見としては、発売されている公式DVD、映画パンフレット等の類ならば、じゅうぶん検証可能性を満たすと考えます。検証可能性というのは、二つの意味合いがあると思っています。一つは、ウィキペディア外部の編集者や出版社あるいはそれに相当する人や団体によるチェックを通しているか。多少の信頼性に関する判断はウィキペディアンによってなされ、それに応じた記述方法をとる必要がある。もう一つは、他の執筆者や閲覧者によって確認ができる情報源を使用するということです。情報源へのアクセシビリティがしばしば議論になりますが、アクセスの容易さだけを重視するのではなく、多少確認が困難であっても、見込みがあるものであれば、そこにしか情報がなかったり、より信頼できるものであるならば、その情報源は用いるべきであると考えます。「公式に発売されているDVD」「公式に発売されている映画パンフレット」「公式に発売されているCDのライナーノーツ」等は、将来的なアクセシビリティに難がありますが、いずれも満たしてはいます。現在、一定のアクセシビリティはあるのですから、今の執筆者間で検証を行い、その情報へアクセスするために必要な情報をきちんと書いておくことで、将来の執筆者や閲覧者が、何をどうやって探せばいいかという道を作り、労力を軽減させることが大事だと思います。
それを踏まえての余談ですけれど、放送を元に書いたことは放送を元にした(何年何月何日、何局、第何話)、DVDを元に書いたことはDVDを元にした、両方確認したなら、両方確認したと書くのが望ましいです。放送とDVDで異なる場面があった場合に検証が容易になります。加えて、雑誌などの紙媒体で、特集でなくとも番組紹介やコラムなどがないかを探すこともサブカル一般の記事では期待したかったりします。同時代的かつ熱心なファンでなければ、集められない類の情報ですので。あらすじの記述については、二次資料としてあらすじが書かれているものを出来れば複数探して、それらを元に、書くべき要素を抽出して書き改め、脚注などで「あらすじの構成は情報源AおよびBを参考にした」などと書くのが好ましいかな。「戦隊シリーズ初のバイオレット戦士」というのは、バイオレットなのはともかく、「シリーズ初」であることを示す資料を示すのが望ましいと思いました。二次資料として記述があるものに加え、シリーズ全体の登場人物の写真がカラーで描かれている本も参照、などとするのが最善だと思います。--Ks aka 98 2008年2月26日 (火) 05:52 (UTC)[返信]
(個人的意見ですが)パンフレット以外は出典としてよいと思います。以前質問した際、「DVD等の限定版(初回)特典は出典にしても良い」との意見を頂いたので、CDとDVDはそれらよりも手に入れやすいですから、問題はないかと。ただパンフレットの類は、「上映中に劇場で」しか手に入らないものもあるので、ノートで反対意見が多いなら記載するべきではないかもしれません。--春日椿 2008年2月26日 (火) 08:34 (UTC)[返信]
公式に発売されたものやそれに準じるものならば検証可能性は十分に満たすと思います(ただし、記述に値するかどうかなど別の点でもしっかり考える必要があります)。例えば at the BEING studioBEST OF BEST 1000 のライナーノーツも関係者などが「多数の間違いが含まれている」とかいっているようですが、一応は公式的な発表とすることができると思います(公式発表が必ずしも事実とは限らないけれど、事実かどうかよりも公式発表を優先することができる)。 --Mzm5zbC3 2008年2月26日 (火) 11:18 (UTC)[返信]
短期間であれば検証可能性を満たせるでしょう。しかしWikipediaはこの先存在し続け質も量も史上最大の百科事典を目指します。10年、20年、30年…100年とたった場合、果たしてDVDとパンフレットは検証可能性を満たせるのでしょうか?
書籍であれば国立図書館によってそれが可能です。
また、文献であれば査読を経て高品位な文献を得ることも出来ます。DVDでは内容の精査はどうするのでしょうか?--浄三入道 2008年2月26日 (火) 11:52 (UTC)[返信]
国会図書館を基準とするなら、ゲキレンジャーのDVDも所蔵されていますし、映画パンフなら東京国立近代美術館や調布の図書館などが収集しています。古書店も相当数あります。
DVDはオフィシャルに発売されているのですから、販売する会社と制作側によって内容を精査されているものと言えるでしょう。精査の内容は、パッケージ化に当たって誤りのない映像であるかどうか、です。査読というと、論文のようなものが想定されますが、小説を刊行する際における作家と出版社による内容確認と同等のものが行なわれていると捉えられます。--Ks aka 98 2008年2月26日 (火) 13:17 (UTC)[返信]

(インデント戻します)国立図書館は、国内で出版・流通した全ての図書館資料となりうる出版物を収集、保存しています。そこがDVDやパンフレットと決定的に違うことです。

ゲキレンジャーのDVDとパンフレットだけが納められたとして、それが一体何になるのでしょうか。それともゲキレンジャーだけ特例でDVDとパンフレットを認めると言うことなのでしょうか。違うと思うのですが。

そして、DVD-ROMの寿命は20年、今は30年くらいになったそうです(もちろん保管状況で変わります)。絶版後30年たった時点で検証可能性が不可になります。書籍は100年、そしてもっと超寿命になっていきます。昔の書籍でも処理を施し150年~200年くらいになるそうです。電子化やマイクロフィルム化で半永久的に検証が可能です。

皆さん。もっと将来のことを考えて下さい。質も量も史上最大の百科事典を目指すWikipediaは、この先何十年、何百年と続いていくのですよ。その時に検証可能性を満たしておけるのですか。--浄三入道 2008年2月26日 (火) 13:34 (UTC)[返信]

横入りのようで恐縮ですが、ノート:シーケンシャル・サーキット_プロフェット5で、20年以上前のカタログが出典として妥当か否かで紛糾しております。20年以上前のカタログは、この数年オークション等にも出品されておらず、一般的に入手は難しいと思います。つまり、確認できる人が極めて限られているというわけです。事例としてこのようなケースもあり、パンフレットもこのような可能性を孕んでいるということをお伝えしておきます。--M-lab 2008年2月26日 (火) 13:49 (UTC)[返信]
(ちんたらしてたら、3つほど競合しましたが、そのまま記載します)テレビでさっき見た聞いたレベルで、Wikipediaにバシバシ書き込みが行われている現状で、公式パンフレットでもまだあるならば、頒布された文献ですから、出典として利用していいかと思います。公式DVDの利用は、なんら問題ないと思います。
ただ話は逸れますが、放送番組のみを情報源とするのは、YouTube等の動画配信サービスの(法律を含めた)整備化を待つべきというのが私の意見です。確かに、放送番組で流された情報は、社会に広く認識された公知の物となります。が、NHKアーカイブスのように、どこかの図書館、または放送局自体が、目的の情報に対して誰でもアクセス可能な状態を担保していなければ、その内容に検証可能性はないと思っています。だから、テレビ情報だけを根拠に、記述するのは、正直辞めてくれ、と思っています。
が、そうは言っても、日々テレビで見た聞いたレベルで記述は行われているのはご存知のところだと思います。一回記載されたものは、執筆者の「Wikipediaに書いたぞ~」という気持ちも考えると、内容が特に間違っていなければ、消すのも忍びないですし。だったら、まぁせっかく記述するのでしたら、Ks aka 98さんの意見にもあるように、少しでも記述内容の信頼性が上がるよう、何時どこの局で流されたかを明記して頂きたいと存じます。また、公式HP、テレビガイド等の活用で、周辺を固めて頂きたいと存じます。
以上私見です。--背番号9 2008年2月26日 (火) 14:16 (UTC)[返信]
映像情報が検証可能性を満たすのかどうかについてはWikipedia‐ノート:検証可能性/非文献情報源で、書かせていただきました。合意には至ってませんけど、DVD資料について言えば「市販されているDVDでも、まだ公共機関ではアーカイブ化されていない状態である。従って、将来に渡って検証可能性は保証できない。その点が弱い」とさせていただきました。
この点を補足させていただきますと、DVDでもアーカイブ化されているものは少なくありません。ゲキレンジャーの例で言えば、Ksさんが仰るとおり、国会図書館でも数件「映像情報」として所蔵されていることが検索で確認できます。ただ、シリーズ全て揃っている状態ではなさそうですけどね。
ただ、ここからは私見なんですが、「検証可能性」を「1かゼロか」で判定することに私は違和感があります。上記の「非文献情報源」でも検証可能性の「程度」には濃淡があるのだという立場で書かせていただきました。「どの程度まで検証可能性が満たされるべきなのか」は記事ごとに、あるいはプロジェクトごとに判定されるべき問題だと私は考えます。ビデオテープが高価であった時代(高視聴率番組ですら映像が残されていないケースがあります)とは異なり、かなりの数量のDVDが出回ったと推定されるシリーズ番組が対象なのであれば、「ある程度は検証可能である」との合意の元に掲載することも可能なのではないでしょうか。この場合は1次情報の参照ですから「査読」云々は考えなくて良いでしょうし。もっとも、更なる私見を加えると、議論の対象となっている記述は百科事典的に無理して書くこともない内容なんで、さっさと諦めたほうが良いと思います。--おーた 2008年2月26日 (火) 14:22 (UTC)[返信]
映像作品についての記事を書く場合、何よりも優先されるべきなのは「映像」です。それを収録したDVDが「検証可能性を満たす資料」として認められるのは当然です。DVDが情報源として認められないのであれば、記事の存在自体が「検証不可能なものについて書いてある」ということになり、意味を成さなくなります。関連資料にどれほど詳細な情報が書かれていても、結局それを検証するためには映像で確認するしかないのですから。また、万が一映像と関連資料の間に矛盾があった場合、DVDが情報源として認められなければ「間違った情報を掲載している関連書籍の方が信頼できる」ということになってしまいます。
ゲキレンジャーのDVDが国立図書館に納められたのなら、それ以外の作品も納められる可能性はありますし、DVDが絶版になったからといって検証不可能になるとは限りません。映像が残っていれば、再販は可能なのですから。事実、『アイアンキング』などは一度絶版になった後で再販されていますし、「デジテルウルトラシリーズ」として発売された作品や『機動戦士ガンダム(TV版)』などはマスターをデジタル化して保存しているので(他にも同様のケースはあるでしょうが、調査しきれませんでした)、現在発売中のDVDが寿命を迎えても、理論的にはまったく同じクオリティでの再販が可能です(無論、事故などでマスターが失われる可能性はありますが、それは電子化した書籍だって同じことです)。将来のことを考えるのであれば、それこそ現在の扱われ方を見ただけで「DVDは検証可能性を満たさない」と断言してはいけないでしょう。--Golza 2008年2月26日 (火) 14:38 (UTC)[返信]
私としてはゲキレンジャーというわけではなく「DVD」「パンフレット」として考えているつもりです。
背番号9さん、春日椿さん、Mzm5zbC3さん、他賛同の方に質問です。時間が経ち、入手困難・入手不可になった時点で検証可能性も満たせませんから、即時削除するという意見なのでしょうか?
検証可能性の程度ですが、私見ですが絶版になったとして中古品売り場で発売価格以下で買える位なら良いと思います。オークションじゃないと手に入らないとか媒体の寿命が近づいている状況では、検証可能性を満たせていないと考えております。--浄三入道 2008年2月26日 (火) 14:43 (UTC)[返信]
今、入手可能なものも、じきに手に入りづらくなる訳で、その定義でいくと、どのメディアも未来に於いては検証可能性を満たせなくなる、という事になりますね。“今の時制”で「手に入り易いかどうか」というは、将来に於いて揉める要因になると思われます。今の時点で、上のような話で揉めているならば尚の事。--٢١٩.١٧٤.١٥٨.٢٢٥ 2008年2月26日 (火) 14:54 (UTC)[返信]
いえ、だから国立図書館があるのです。上で書いたように半永久的に検証が可能になります。しかし、DVDやパンフレットにはこういう施設がありません。--浄三入道 2008年2月26日 (火) 14:59 (UTC)[返信]
お判りになっておりませんね。「ゲキレンジャーというわけではなく」と書いたのはあなたでしょう? 例えば━━ドラゴンクエストが図書館にあるの? 完動品ファミリーコンピュータがいつまでも容易に手に入るの? 揚げ足取りでは無くて、現時制での「手に入り易いかどうか」というのは結局そういう意味だと言っているのですよ。こうした記事はあなたの理論ではそのうち検証出来無くなってしまう、未来に於いては削除危惧、そういう理屈になりかねない。それが是だと仰るならば構いませんが、違うと言うならば、もっと確固たる定義をするべきでしょう?--٢١٩.١٧٤.١٥٨.٢٢٥ 2008年2月26日 (火) 15:22 (UTC)[返信]
さて、私が対象にしているのは文献や書籍です。これが半永久的に検証できればここでの議題である検証可能性を十分満たせます。ファミコンもドラゴンクエストも本件の議題に何ら影響を及ぼしません。--浄三入道 2008年2月26日 (火) 15:26 (UTC)[返信]
判った。焚書、これ如何や。--٢١٩.١٧٤.١٥٨.٢٢٥ 2008年2月26日 (火) 15:34 (UTC)[返信]
Golzaさんへ。
>関連資料にどれほど詳細な情報が書かれていても、結局それを検証するためには映像で
>確認するしかないのですから。また、万が一映像と関連資料の間に矛盾があった場合、
>DVDが情報源として認められなければ「間違った情報を掲載している関連書籍の方が
>信頼できる」ということになってしまいます。
信頼できる出版社から発行された書籍に誤ったことが書いてあっても、Wikipediaでは問題ありません。それは「事実よりも検証可能性を優先する」ことが明記されているからです。さらに記事を自分で調べることは独自研究に当たるので、そういった行為をしないようにとも書かれています。少し方針を読んでみて下さい。
>それ以外の作品も納められる可能性はありますし、DVDが絶版になったからといって
>検証不可能になるとは限りません。映像が残っていれば、再販は可能なのですから。
>事実、『アイアンキング』などは一度絶版になった後で再販されていますし
現在、全てのDVDやパンフレットを収めユーザーが検証できる施設がないですから、仮定の話をしてもしょうがありません。現時点ではそういった施設はありません。そういった施設が出来たときに、また考えればよいだけで、個人の希望的観測だけで判断できる物ではありません。
再販も必ず前DVD-ROMが入手困難になる前に発売されるのならいざ知らず、出るのかでないのか分からない物を前提に話は出来ません。--浄三入道 2008年2月26日 (火) 14:57 (UTC)[返信]
根本的な問題として「映像作品について書く上では映像を最優先するべきである」ということを言いたいのであって、それ以外のことは付け足しに過ぎないのですが…。それでしたら、「映像作品について書く上での映像の役割」というのを明確に示していただけませんか? そうでなければ納得できません。--Golza 2008年2月26日 (火) 15:05 (UTC)[返信]
「映像作品」とあるので映画やドラマなどと理解して話を進めます。Wikipediaの方針として2次情報、3次情報より記事を作ることが記載されていますから、そういった出版物から記事を作ることになります。--浄三入道 2008年2月26日 (火) 15:12 (UTC)[返信]
つまり「映像作品について書くのに、肝心の映像は何の役にも立たない」ということですか?--Golza 2008年2月26日 (火) 15:14 (UTC)[返信]
映像が1次か0次かというのはひとまずおいておきます。Wikipediaで推奨されているのは映像よりも2次情報、3次情報の記事です。戦争を体験しなくても戦争をまとめた文献からWikipediaへ記事を起こしている方は多数おられます。同じ事でしょう?--浄三入道 2008年2月26日 (火) 15:22 (UTC)[返信]
あの、せっかく井戸端で意見を募っているのですから、私たち当事者(浄三入道さん、Golzaさん)はしばらく静観して、当事者以外の方のご意見を待ちませんか? 話もかなりずれてきていますし。
今、ここで意見を皆さんにお願いしているのは、「公式DVD」「公式映画パンフレット」「公式CDライナーノーツ」等が「検証可能性を満たす資料か否か」です。一次情報の有用性の議論ではありません。--Giftlists 2008年2月26日 (火) 15:25 (UTC)[返信]
映像作品のみで語れる範囲は限定されるかもしれません。そういった場合には書籍類で出典を補うことは必要でしょう。だからといって映像作品が出典として認められないとは思えません。--Bellis 2008年2月26日 (火) 15:18 (UTC)[返信]
その場合、将来に渡る検証可能性はどのように満たすのでしょうか。--浄三入道 2008年2月26日 (火) 15:30 (UTC)[返信]
検証可能性の確認は、検証作業者が認定することでは。100年後の検証可能性なら100年後の検証者が判断すればよい。浄三入道氏が100年後も存命していて、wikipediaも存続していたらそのとき各文献の検証可能性を判断してください。
焚書(人災)、戦争、災害等による文献の損失は誰がないと請合ってくれますか。映像作品もオンライン配信システムが発達した現在で、消えてしまう映像作品がどのくらいありますか。--Bellis 2008年2月26日 (火) 16:00 (UTC)[返信]
ええと。個々のケースを全体のように扱った方向を向いている気がしますが。お誘いを受け個人的な考えを述べさせてもらいます。
1. 検証可能期間について
検証できなくなった時点で消される運命にあるでしょうし、消された後に検証可能物が出てきたとしてもそれを書く書かないは、その時その人の考えに依存するでしょう。 さすがに納本もされていないような同人誌とか1年すら危ないものじゃ困りますが。 検証しようとしたら出来なかったよ。 いざ除去いう場合には『昔はあったけど今は無い』ということが分かるようにコメントアウトかノートに移すべきだと考えています。
2. 販売されたDVDは検証可能性を満たすか
全国展開しているレンタルショップで扱っているなどの環境により検証可能性は満たせます。 またNDLでもDVD、VHS、果てはデスクリムゾンまで納入されていますので『本来はあってしかるべき』です。
3. 販売されたCDのライナーズノートは、検証可能性を満たすか
DVDと同じ扱いで良いと思います。
4. DVDの内容やCDのライナーズノートは、検証可能性でいうところの信頼できる情報源か
ドキュメンタリ等であれば、販売元が内容をチェックしているはずです。 本人談は「本人談の検証可能性」としては一次情報源ですが信頼できます。ただし「重要なことなら、その本人談について触れている二次情報源があるはずだ」という意識は崩すべきではないでしょう。
それと、映像資料や音楽資料は、書籍資料の何ページであるかよりも『何分何秒のところか』といった箇所情報を強く求めるべきです。
5. 映画のパンフレットは、どうか
「真実かどうか」ではなく「検証可能かどうか」つまり「そのものが手に入るかどうか」という点では、『もう通常では手に入らない(古書取扱や個別取引が必要など)』となるので難しいでしょう。 NDLでも基本的にパンフレットは実務上扱わない事になっています(実際は、教育的なものなどは蔵書にありますし、『空中庭園』のように、しっかりしていれば受け入れているようです)。
執筆しようとした時点で、現存していていも通常方法で入手困難である場合は、諦めるのが無難と思います。
6. NDLは、アーカイブを保障しているのか
国立国会図書館法第九章の第二十三条によれば、必要ないと思えば処分できます。 よって、保障されていません。
7. NDLに依存することについて
NDLにはあくまでも「納入された後は、保管面で高い信頼がある」というだけで特別扱いする必要はありません(Wikipediaでの検証可能性を満たすために寄贈するというのであれば適切ですが)。 また蔵書物を移管されてしまえば、NDL-OPACで検索することも出来なくなります。
8. 情報源が信頼できるかどうか。どう決めるか。
私自身は『wikipediaという事典』よりも『wikipediaというプロジェクト』を重視しているので「事実かどうか」は、あまり気にしていません(検証者が間違いに気付いたら訂正する機会を与えられていますし、検証確認せず孫引いた大学生が叱られたのは記憶に新しいですし、確かジンボも情報源が強く求められる場(例えば法廷とか)には使用しないで欲しいとコメントしていたはずです)。 情報源の信頼性に至っては「読み手に任せていいんじゃないか」と楽観視しており「最低でも責任所在が誰の目にも明らか(出版社や執筆者が特定できる)であれば構わない」とも思っています(例えば私が寄贈したY94-H24907は、個人的には興味深い資料となる同人誌なのですが『個人出版』かつ『執筆者実名ではない』ので責任所在の問題でwikipediaでは出典として耐えられない書籍であると考えています)。
9. 現存するが検証可能性に乏しいもので、どうしても必要とするものを『強引に救済する』としたら
「検証認定制度」のようなものが必要でしょう。 例えば『検証可能性に難があるが、相違なければ加筆に値する価値がある。という合意を形成して、コミュニティの信任を受けている人に確認してもらう』『確認されたら、確認者署名と確認日付とともに「その当時は現存して内容も相違ありませんでした」という印をつけ、一定期間(1年とか)経過後は「不要と感じた人は、その時点でノートで議論を行い不要と決まった場合に消しても良い」というメンドクサイ&基本方針を揺るがすようなインパクトの強い救済案を出さなくてはならない気がします。そこまでするケースが発生するまでする必要はないだろうと思います
長文書いたら競合していまいました。ざっくり書きましたが。個人的な見解(意識)は、こんな感じです。--秋月 智絵沙(Chiether) 2008年2月26日 (火) 17:17 (UTC)[返信]
(追記) 「どれだけの検証可能期間の将来性を期待すべきか」は、Bellis氏と同じ意見で定めるべきではないと思います。理想を言えば、閲覧利用者が実検証を行い、検証できなければ編集者となって修正するなりノートに書き留めてくれるのが好ましいわけですが。 そういう理想を考えるとやはり「執筆時点で検証可能性を満たしていること」というのが落としどころのように思います。--秋月 智絵沙(Chiether) 2008年2月26日 (火) 17:25 (UTC)[返信]

こっちも競合しました! ゲキレンジャーだけではなく、DVDにしてもCDにしても国内発売されているものは、国会図書館では相当収集されています。『アイアンキング』も2006年版は所蔵されていました。検証可能性を担保するためのアーカイバルな組織・機関の存在という点では、網羅性という部分では違いがあるかもしれませんが、紙媒体と変わるところはありません。紙媒体にしても、戦前の資料は定期刊行物なんかだと特に、欠けも多いです。すべての書籍を収め、ユーザーが検証できる施設ではないですね。国会図書館には『松旭斎天一の生涯』も"The Crumhorn And Other Renaissance Windcap Instruments"も所蔵されていませんが、ぼくは所有しています。たとえば前者は、日本の奇術師の記事を書くならば参照できなければ、ずいぶん記述が貧弱になってしまいます。

保存性という点では、これまでの紙媒体にしても、かならずしも完全ではありませんでした。近代ライブラリは、すばらしく有用ですけれど、電子化されたもの、あるいはマイクロフィッシュなどでも、つぶれた文字などで閲覧が困難なものもありますよ。DVDやCDについても、コストや著作権法や技術などの兼ね合いはあるにしても、現時点で保存されないと捉えるのは尚早でしょう。あるいは、保存されないのであれば、いよいよ検証可能な資料が豊富な時期に、できるだけ精度の高い記事を作り上げるべきでしょう。類書というのは東洋における百科事典のルーツといえるものですが、これは多くの書からの文章をまとめたもので、元の書が散逸していてしまっていても、いくらかの手がかりを残してくれています。将来を考えるなら、ウィキペディアもそのようなものとして機能させればよいのではないかと。

われわれは、確かに、質も量も史上最高の百科事典を作ろうとしています。質と量を向上させるならば、われわれは、できるだけ多くの資料、できるだけ信頼できる資料を基に記事を作成するべきです。アクセシビリティや希少性やメディアの様態に気を取られてはいけません。著者名、書名、出版社などがわかれば、DVDは真剣に探したことはないですけれど、CDやレコードでも、やはりアーティスト名とタイトルとレーベルさえわかれば、よほど珍しいものでなければ、入手するなり所有者を見つけ出すなりというのは、なんとかなるものです。これは、公刊されているものを探すのですから、「誰かに聞いた話」とは別物です。公刊された事が検証できなければ、別の話ですけれど。現在入手が難しくても、ひょっとしたら、将来、また別の資料が検証可能になるかもしれません。戦前の映画や音楽の雑誌などは、ずいぶん復刻されましたし、一般に利用可能な専門図書館などでもデータベース化も進みました。そういったときは、時代を超えた編集者の共同作業によって、よりよい記事ができますね。将来にわたって検証可能性を担保する必要を、方針は求めていません。検証可能な時期に、きちんと情報源を参照して、出典を示して書けばよいのです。

検証可能性の方針からは、まずは、情報源を書く事が大事です。DVDであろうが中学の教科書であろうが、それを明らかにすることで、妄想や思い込みではないことが示されますし、同時に信頼できる査読つきの学術論文を情報にしていないということも示されます。じゅうぶん信頼できる情報源でなければならないとは、検証可能性の方針は示していません。書き方さえ妥当であれば『サン』でもいいのですから。今の執筆者にとって、最善を尽くして得られた情報源がそれならば、それでよいのです。ただし、検証可能性を満たしたからといって、そのままでいいということではなくて、より信頼できる情報源、よりアクセスの容易な情報源に置き換えていくことが求められます。執筆者として成長して、自ら加えることができるかもしれませんし、他の、より詳しい執筆者が加筆してくれるかもしれません。

DVD、あるいは映像メディアについて、問題が生じるとすれば、検証可能性ではなく、独自研究を誘発しやすいということのほうが重要ではないでしょうか。ある映像から得られる情報が、果たして一意に定まっているか、独自の解釈に陥っていないか、他の情報源を必要とする情報を前提としていないか、といったところで、独自研究が入り込んでしまうことがあるでしょう。例に挙げて申し訳ないですけれど、上記の「シリーズ最初」なんかは、ちょうど当てはまります。また、見たままに記述すればそれでよいかというと、今度は、映像の詳細すぎる書き写しになってしまっていれば、これは百科事典の記述とはなりません。検証可能性を満たしていれば、それでよいというものではないですね。映像メディア、またはそれに限らず、作品そのものを情報源として記述するのは、慎重さが必要ですし、書けることはかなり限られているということが大事だと思います。この点については、Golzaさんの「映像作品について書く上では映像を最優先するべきである」には同意できません。源氏物語の記事を書く上では、源氏物語を確認しつつ、信頼できる論文などを優先させることが望ましいです。論文などに明らかな誤りがないか、執筆者にとって、その論文は信頼できるじか、といったことを確認するために、原作品があると考えるのがよいと思います。--Ks aka 98 2008年2月26日 (火) 17:40 (UTC)[返信]

◆あ、どうも。えーとなんだ、たとえば国立国会図書館に収蔵されている紙媒体の資料があったとしてですよ、某北の将軍のところから核ミサイルでも飛んできてそれがたまたま国立国会図書館に命中しちゃったら、「国立国会図書館に収蔵されている資料」というステータスの価値は一切の意味がふっとぶわけです(いやあすまんね、悪い例で>総連なひと)。

しかしま、商業的に出版された資料であるなら、それなりに遍在しているだろうから、一発二発のダメージで壊滅しちゃうってこともないだろうと思ったりして。数百数千くらいの単位でコピー(それは書籍だったりDVDだったりビデオテープだったりするわけです)がばらまかれているものが完全に消滅してしまうということは、ま、考えにくい。

ある資料が「国立国会図書館に収蔵されている」として、それが確認できるなら、ある程度の検証可能性は(現段階では)満たすのじゃないだろうか。ある資料が、国立国会図書館に収蔵されていようがいまいが、数百数千の単位でコピーがばらまかれているのなら、それなりに検証可能性は満たすのじゃないだろうか。「国立国会図書館に収蔵されている資料ならばとりあえずそれが確認できる範囲で信頼していい」という基準はありだ。しかし「国立国会図書館に収蔵されているという確認が取れない」ということを理由として「資料として使えない」と断定することはできない。「収蔵されていなさそうだから使うな」に至っては問題外の主張。

ということで、適宜考えればよろしいのじゃないだろうかと。

現実問題、国立国会図書館に行ったことがなく、あそこが何をどう収蔵しているのかも知らなさそうなやつほど、そういうあいまいな基準をふりまわしてわけわかんない排除的論理を主張するのだよな。そういうやつは、さっさとWikipediaから去ってくれと思うのでした。では、おやすみなさい。--Nekosuki600 2008年2月26日 (火) 19:29 (UTC)[返信]

追加。
あ、最初に言っとく。「極端なシチュエーションを設定しての思考実験」の意味がわからず設定されたシチュエーションに反発しちゃうようなひとは、そもそも百科事典の執筆なんか無理だから、何年か修行をしてそれから出直してください。
で、本論。
一方でさ。たとえば「サイトの設定ミスによって外部からのアクセスが可能になっていた顧客情報データファイルの漏洩」なんかで顕著なんだが、いったん流通した情報を壊滅させることって事実上不可能なんだよね。そういう意味で、国立国会図書館に収蔵されているかどうかを問わず、流通しちまった情報ってのは短期的に根絶されることはまずないと言ってよく、どっかには存在する。ましてや、市販されちった本とかパンフレットとかが全滅するということは考えにくい。しょもない例で言えば、恋人が撮影した彼女のヌード写真がインターネットに流出してしまったら、みたいな事例を考えてくれたまいだ。
もう一方で。たとえば古い雑誌上に掲載されていた情報なんかは、その雑誌を実見しないことには確認ができないのだが、その雑誌がどこに存在するかみたいな問題ってのは常にある。国立国会図書館に収蔵されていたとして出向く暇と金と熱意があるかみたいな問題はあるし(とゆーか、国立国会図書館も場所が足らなくてかなり困ってるみたいで、最近はどうだか知りませんが以前はかなり雑誌類を捨ててたみたいだし)。国土地理院の古地図なんかだって、行けばマイクロフィルムで確認して出力サービスをたのめたりしますけど、そうそう簡単に入手できるもんじゃないんだよね(しかも安くはない。金持ってるときに行ったらかなりやばい。ふらっと立ち寄ったら万円単位でお金が飛んでいったことがある。んなことは神田の古本屋街でも同じことなわけだが)。
何をもって「確認可能な情報(=検証可能性を満たす情報)」と解するかは、ま、いろいろなわけです。たいしてせめぎあいがあるわけじゃない分野では高い検証可能性は必要なかったりするし、やたらばとるが発生する分野では高い検証可能性を満たしておいた方が安全だろう。また、ある情報について、それなりのリサーチ能力があるひとにとっては当然のように検証可能性があってもぜんぜんリサーチ能力がないひとにとっては検証なんかできず疑わしいとかいうものもあるだろう(リサーチ能力が極端に低いやつはWikipediaの編集から手を引け、と思いますけどね(ふっ)。んで、その都度必要な検証可能性レベルはどの程度なのかとか、文句を言いたくなったときに自分はどの程度検証しようとしたかと自制するとか、わめくやつが出てきたときにそいつのリサーチ能力がどの程度なのかとか、そういうことを考えて結論を出していかなくちゃいけないことなんじゃないでしょうか、と。
おれ思うんだけどさあ。「定型的な基準を作ろうとするやつ」、あるいは「定型的な基準を妄想するやつ」あたり、まあいちばん迷惑なのは「てきとーなおれさま基準で情報を削除しようとするやつ」なわけだが、そこらへんって「その者のリサーチ能力不足を自白している」だけなんじゃないんだろうか。リサーチ能力が不足しているがゆえに定型的な基準を欲しがるとか、臨機応変に判断する能力が欠けているものだから定型的なおれさま基準を作っちゃうとか、そういうベクトルがあるような気がする。基本的に、そういうひとは、Wikipediaの執筆者としては歓迎できないローレベルなんで、その手の主張をしたらそれを理由として「要修行」で10年くらいブロックしちゃってもいいような気がするんだよなあ。要修行なんていうブロック理由はいまのところないんだけどさ。--Nekosuki600 2008年2月27日 (水) 20:22 (UTC)[返信]

少なくとも、活字になったものは情報源にしておいたほうがいいと思います。本当に存在したものなら、何年かかっても世の中に出現するものです。気になるなら、それを基準に執筆するときにスキャナにでもかけて画像化して、コモンズにでも投稿しておいたら(著作権が問題になるか)、そういうような《供託》にあたる制度があるといいですね。

あと、有名な話ですが、関東大震災のときに、東京帝国大学の図書館が焼けて、安藤昌益の原稿が消滅してしまったということがありました。 --ねこぱんだ 2008年2月26日 (火) 23:32 (UTC)[返信]

Wikipedia‐ノート:ウィキプロジェクト テレビドラマなどでコメントが求められていたので伺いました。Wikipedia:検証可能性には「記事には、信頼できる情報源が公表・出版している内容だけを書くべきです」とあるだけで、その情報源の入手が(誰でも一律に)容易であるかどうかを条件としているわけではありません。DVDやパンフレットは、「信頼できる情報源が公表・出版している」ものと判断していいと思います。少なくとも、執筆時点で販売・流通しており、入手が可能なものならば、利用してさしつかえないと思います。将来、本当に入手が不可能になり、検証可能性を満たさないと判断されたら、その時点で議論の上、記述を除去すればいいのではないでしょうか。何十年も先のことなど、誰にもわかりません。現在、紙の百科事典が存亡の危機に瀕しているように、技術革新でウィキペディア自体がなくなっているかもしれませんよ。--Rollin 2008年2月27日 (水) 00:07 (UTC)[返信]
焚書やミサイルなどの杞憂してもしょうがあるまい。現状が続いたとして本とDVDでどれだけの差があるかを議論した方がよほど有意義だ。その場合、国立図書館のみならず全国の図書館を含めて考え、資料のコピー及びそれの郵送を受けられる書籍と、収集施設が少なく品揃えもなく媒体寿命が短いDVDでは、検証可能性・容易性が大きく異なることを考慮すべきだ。
  • 1 DVDの検証可能性判断を、とりあえずOKにして判断を先延ばしすることには反対。Wikipediaは息の長いプロジェクトなのだから、あらかじめ取り決めるべきだ
  • 2 DVDをOKとするならば、数年後に入手困難・検証不可とする基準を設けるべき。特撮・アニメはWikipediaの中にファンサイトを作る傾向があり、一端掲載された物を削除することに頑なに抵抗するだろう。
  • 3 Wikipediaは二次資料、三次資料より記事を作ることが方針だ。そこへ一次資料のDVDをOKとしても意味は薄いだろう。それよりも方針違反した一次資料による記事の氾濫・独自研究の氾濫といったデメリットの方が大きい(二次資料となるDVDについては別途協議が必要)。
上記よりメリットよりデメリットの方が大きく、DVDを出典に含めるのは反対。パンフレットは論外。--69.73.247.226 2008年2月27日 (水) 00:19 (UTC)[返信]
上記のIP:69.73.247.226会話 / 投稿記録 / 記録 / WhoisはバルバドスのOpenProxyです。この議論の発端となったノート:獣拳戦隊ゲキレンジャーでも再三にわたってOpenProxyからの書き込みがあります。討論する以前にWikipediaのルールに従ってください。ましてや、ご自分の意見に正当性や説得力をもたせたいのなら。--Centaurus 2008年2月27日 (水) 01:03 (UTC)[返信]
判っていないなぁ。焚書だのミサイルだのというのはとどのつまり極論であって、メディアならば基本的にどれも同等の原典となり、どれも(物理的論理的な損壊の可能性はともかく)同等の危惧を持っている、という事なのですが。焚書絡みではこのあたりの整合性をとる為に図書館蔵書も単純所持に該当するところから焚書処理になる可能性があったり無かったり。それらの関連項目の要不要論はまた別の話。--٢١٩.١٧٤.١٥٨.٢٢٥ 2008年2月27日 (水) 02:56 (UTC)[返信]

背番号9、入りま~すと思ってたら、一晩あけたら大分話は進んでもう俺いらないかなぁって感じですね。まぁでも一応ご指名受けていたので。

ルールの文面をどんどん厳密に考えていくのも、思考実験としては楽しいのですが、極端な解にたどり着いたり迷ったときは、文面だけに頼るのではなく、ルール精神に立ち返って考える必要もありかなぁと(WP:IGNOREの解釈の一つ)。で、検証可能性や情報源の確保等のルールがなぜあるか、「信頼性の向上」がまずはすぐに思いつくことと存じます。百科事典ですから(さらにその内容が、匿名で信頼の無い我々の記述ですから)、検証可能性な文献で信頼性を担保しておく必要があるのでしょう。だから、信頼性向上を究極的に求める気持ちも、100年保証、国会図書館保証など、検証可能性原理主義(?)的な意見がでるのも分からなくは無いです。

が、そこまで考えるなら、なんのための信頼性向上かということも、同時に考えて頂きたいと存じます。「信頼性向上をもって、Wikipediaの健全な発展を図る」というのが、さらに奥にあるルール精神ではないかなぁと存じます。で、検証可能性原理主義的に、適当な情報の確保まで拒絶するというのは、それはむしろWikipediaの発展を阻害し、本来のルール精神にさえ叛くのではないかなと存じます。国会図書館に無いからダメ、というのはNekosuki600さんが言うように、ちょっとバランスを欠いた基準かなと思います。逆に、何でもありも極端な理解だと思いますが、その辺は良識あるバランスが必要かと思います。

では、どこからならいいのか、というスタンダードを求める意見があるかもしれません。そこはWikipedia:信頼できる情報源を参考にしたり、最後は前述どおり、コミュニティの良識で判断するしかないかなぁと。1か0かじゃなくて。そういう意味でも、100年後の判断は、我々よりもっと成長しているであろう100年後の各位に決めて頂ければいいんじゃないかなぁと。

で、その認識の上で、サブカルチャーの分野を振り返ったとき、Wikipedia:信頼できる情報源#分野ごとのアドバイスの一番最後にも参考となる意見があります。他の学問分野と同等の情報源を求めるのは難しいとか、信頼性が十分担保できるWebページの利用も、時にOKとありますよね。だったら公式DVDや公式パンフなんてRollinさんの意見のようにまぁOKじゃないかと存じます。(確かにKs aka 98さんの意見のように、独自研究が今度は問題になりそうですが。)さらに細かく具体的な個別の案件、(頒布量が少ないパンフとか、どこの図書館にも置いていない場合などは、)さらに細かく各個で対応・判断するしかないかなぁと。

後は、パンフ、動画、文献情報がどんどん電子情報としてデータベース化され、こういうことで心配する必要がなくなる日が来ることを期待しています。--背番号9 2008年2月27日 (水) 02:07 (UTC)[返信]

浄三入道氏にお誘いを頂いたので少し書きます。「公式に発売されているDVD」「公式に発売されている映画パンフレット」「公式に発売されているCDのライナーノーツ」のいずれも万人が対価を払えば(少なくとも現時点では)入手可能なものですから、アクセシビリティという意味での検証可能性に問題は無いと思います。もちろんNDL等にアーカイブされていればそれに越した事は無いですが、私はその必要性を主張しません。実際私も観光パンフを出典として記事を書いた事があります(cf. あぶくま洞)。

ただし、Golza氏の意見である『映像作品についての記事を書く場合、何よりも優先されるべきなのは「映像」です。それを収録したDVDが「検証可能性を満たす資料」として認められるのは当然です。DVDが情報源として認められないのであれば、記事の存在自体が「検証不可能なものについて書いてある」ということになり、意味を成さなくなります。』には異議を唱えます。上のKs aka 98氏は穏やかに反対意見を述べていますが、強い言葉を使わせていただけばGolza氏の意見は論外です。ウィキペディア的には記事の対象そのものは全て直接的な検証は不可能であり、その意味で全ての記事は「検証不可能なものについて書いてあります」。検証可能な、信頼できる情報源を介して初めて間接的に存在が検証され、記事が成立するのです。

以前どこかで書きましたが、映画やアニメのような映像作品を実際に見てそれ自体の記事を書く事は、動物園で動物を観察して執筆するのと同じ独自の研究です。DVDが資料たり得るのは、例えば「生きもの地球紀行」を見てその中に登場する生物の記事を書くような場合です。つまり情報伝達を目的とした映像でなければなりません。これは紙媒体でも一緒です。メディアの種類ではなく、それが記事の内容について何次の情報源であるか、その点こそ重視すべきです。

ゲキレンジャーの話に戻すと、「ゲキレンジャー解説DVD」でもあれば情報源になり得ますが、作品自体のDVDではダメです。公式だろうがNDLに保管されていようが関係ありません。それは検証可能性ではなく、独自研究禁止の観点から不適であるという事です。- NEON 2008年2月27日 (水) 02:28 (UTC)[返信]

ここでは具体的な記述内容については考慮していませんが、一般論として「公式に販売されているDVD」「公式に販売されている映画パンフレット」が出典として検証可能性を満たす、というご意見に賛同します。検証可能性については執筆時点あるいは当該記述の検討時点で判断されるべきで、将来の検証可能性まで考慮する必要はとくにありません。将来のことをだれが確実に予見できるでしょう。そんなことを言い出せば、現在検証できないどんな記述であっても「将来の検証可能性」を考慮しなくてはならなくなり、「検証可能性」自体が空文化します。また、典拠となる情報が国立国会図書館に収録されている、というのは検証可能性を満たす条件のひとつであって、すべてではありません。もし、国立国会図書館にある情報のみで百科事典を作りたい(これと似たような主張をどこか別のところで見た気がしますが)のであれば、ウィキペディアではなく、そういうプロジェクトを別に立ち上げられることをおすすめします。なお、映像作品について、その一次資料である映像作品をもとに記事を書くことについては、価値判断を伴う事柄を扱わなければ、可です。例えば、タイトル、製作年や配給会社、配役や監督などのスタッフ情報、時代設定などは、作品そのものから明らかな客観的事実であって「独自の研究」ではありません。また、DVDにはその作品の解説情報が入っていることもあり、これをもとにして記事をふくらませてもいいでしょう。すでに出されていますが、一次資料がいけないのではなく、より高次の資料があればそれに置き換えられていくべきで、そういう努力を怠らないようにしよう、というのが「検証可能性」方針の意図するところだと考えます--みっち 2008年2月27日 (水) 07:05 (UTC)[返信]
”一般に、ウィキペディアの記事は一次情報源に基づくべきではなく、むしろ一次情報源となる資料を注意深く扱った、信頼できる二次情報源に頼るべきです”とあり一次資料を基にするのは”こういったことは例外です”とある以上、一次情報源は使用しないのが方針かと思います。高次の資料へ置き換えと言われますが1次<2次<3次と言うようにレベルが上がるわけではありません。--浄三入道 2008年2月27日 (水) 11:14 (UTC)[返信]
Wikipedia:信頼できる情報源[1]によれば、

一般に、ウィキペディアの記事は一次情報源に基づくべきではなく、むしろ一次情報源となる資料を注意深く扱った、信頼できる二次情報源に頼るべきです。ほとんどの一次情報源となる資料は、適切に用いるための訓練が必要です。

とあります。「一般に」と言えないような場合として、一次資料しか信頼できる情報源が得られないことがあげられるでしょう。これは、Wikipedia:独自研究は載せない#一次資料と二次資料で、「こういったことは例外です[2]と注記されてあり、このため、みっちさんは「価値判断を伴う事柄を扱わなければ」という制限をつけて書いています。このような例外を除けば、適切な訓練を受けていなければ、扱いが難しいことがあるとはいえ、Wikipedia:独自研究は載せない#一次資料と二次資料の「例外」の記述のすぐ上には

ウィキペディアにある記事は全て、既に発表されている一次資料や二次資料に基づいていなければなりません。なお、現存する一次資料や二次資料から情報を集めて整理する調査は、もちろん強く奨励されています。そうした記述は「独自の研究」には当たりません—それは「情報源に基づいた調査」であり、百科事典の執筆の基本です。

と書かれていますから、「一次情報源は使用しないのが方針」ということは言えないようです。もちろん、一次資料のみを情報源とすることは、記述する上で難しいことが多々ありますから、Wikipedia:信頼できる情報源では、

一般的に、「一次情報源」は注意して取り扱い(上記参照)、「二次情報源」がウィキペディアの記事の参照先として依存する素材庫になります。

とも書かれています。つまり、「一次資料がいけないのではなく、より高次の資料があればそれに置き換えられていくべき」ですね。もちろん、高次の資料であればレベルが上がるわけではありません。通常、きちんと訓練を受けた上で一次資料を参照することは、情報を確認する上で求められるものですけれど、ウィキペディアでは必ずしもすべての執筆者が訓練を受けているわけではありませんから、ガイドラインとしては、きちんと訓練を受けた人がしっかりと情報を扱った「より高次」すなわち「一次ではない」資料に依存すると書かれているということです。--Ks aka 98 2008年2月27日 (水) 11:44 (UTC)[返信]
1次情報の使用は”例外”との記載がある以上、普通の書き手にとっては使用不可に近いのではと思います。1次情報のそれらの言及は、通常資料のように取り扱うためと言うより、そのまれな”例外”のために記載されていると見るべきです。そして現状が「必ずしもすべての執筆者が訓練を受けているわけではありません」というよりも”訓練を受けた執筆者がどの程度いるのか分からない”状況では、1次情報を正しく扱うことは出来ません。
それが証拠に”例外”と言う言葉が分からない書き手が、1次情報を”分別のある大人なら誰でも分かる”を免罪符に、とても例外的な状況とは言えない箇所で(自分の意見・分析・比較を書きたいが為に)不正利用するケースが多いではありませんか。--浄三入道 2008年2月27日 (水) 13:23 (UTC)[返信]
う?浄三入道さんのコメントの結論がよく分からなかったので、単なる確認です。「だから原則的に、一次情報源は利用すべきでない。」と言いたいのですよね?--背番号9 2008年2月27日 (水) 14:01 (UTC)[返信]
Wikipedia:独自研究は載せない#一次資料と二次資料によれば、「ウィキペディアの記事がもっぱら一次資料に基づいて」いることが認められる例外として、「(1)専門知識がなくとも分別のある大人であれば誰でもその正確性を簡単に検証できる解説、(2)分析、総合、解釈、評価にあたる主張を全く行わない記事、のような場合」が挙げられています。ここでの議論に参加している人たちは、そのような場合に限定して、使用できると書いています。そのような場合でない場合、つまり、専門知識が必要だったり、分析や解釈や評価を行っていたりするにもかかわらず、一次資料のみに基づいている記事があれば、また「分別のある大人なら誰でもわかる」を免罪符に独自研究を書く執筆者がいれば、独自研究であると指摘してください。もし可能であれば、二次資料を提示したりしてもいいでしょう(ゲキレンジャーなら子供向けの百科やら図鑑やらファイルやらが数冊あるみたいです)。
そのような場合に、検証可能性を満たさないと指摘することは、方針の誤認であり、誤謬を広めることになりますから、できるだけ避けていただければと思います。そして、そのような執筆者が多いからといって、検証可能性を満たし、独自研究にならないような執筆を心がけている人たちが、記事の信頼性を高めるために映像資料や一次資料を用いることを「不可」とする必要はなく、方針もそのようなことを求めてはいないのです。日本語版ウィキペディアの現状として、検証可能性を満たさない記述や独自研究になってしまっている記述が多いというのは、理解していますし、執筆者に対して、方針に沿った記述を心がけるよう、ノートなどで指摘し、記事の改善を図ることは、必要なことだと思っています。ただし、そこで忘れてはいけないのは、ウィキペディアでは自ら出典を加えることもできるということ、もちろん知識の多寡や関心の度合いから執筆は詳しい人にゆだねるという判断もあってよいと思いますが、それならば指摘する側は方針について、できるだけ誤認を避けるよう心がけること、そして自ら執筆する際には最善を尽くすことだと思います。お名前からは、歴史分野にご関心があると思われますが、歴史だと史資料の扱いが難しいとはいえ学問的な蓄積がありますから、歴史読み物の類ではなく、学術的な書籍・論文などの二次資料を出典として、細かく出典を付けていくこともできますが、書きたいことを主題としたものが少なかったりすると、関連する論文を多数参照しなければならないという困難があります。いわゆるサブカル記事では、学術的な研究がなく、雑誌などで取り上げられたとしても記事を見つけること、収集する事が難しいという、別の困難があります。それぞれに、自分の関心のある分野で、執筆のための技術を習得し、双方の違いを認めながら、交流し、研鑽しあうことで、ウィキペディアを発展させていきましょう。--Ks aka 98 2008年2月27日 (水) 17:18 (UTC)[返信]
もういいかなとも思いますが、名指しを頂いたので返答しに来ました。もしDVDが絶版後再販もされず全く手に入れられなくなり、記事の内容が正確かわからず、何巻のどこどこよりというものも書かれていない場合、数十年後に削除されるのは仕方がないと思います。記述の際の優先順位としては、
  1. 出版物の情報。
  2. (ほぼ1と同じ)DVD等の映像の中で、解説物や誰が見てもわかる「字幕」情報。
  3. DVD等の映像情報、音声情報、ブックレット等。
  4. 特典物(パンフレット)。
であり、それぞれの媒体の情報が矛盾しない限り記述は現時点で問題ないかと。違いがあった場合は真実かどうかではなく、媒体の信頼度から優先度の高いものの情報を採用するべきでしょう。--春日椿 2008年2月27日 (水) 08:01 (UTC)[返信]
もはや決着も付きそうな感じですが一応コメントを。他の方が仰っているので理由は割愛しますが情報源としての使用は可能であると思います。以前似たようなことを疑問に思って関連の方針を読み漁った事がありますが、方針の文面や存在意義を考えると「禁止」と断言するのは不自然かと。ただし、行間を読んだり、ストーリーもの等に意図して用意された「含み」を明文(言)化された情報源なしに掲載するのはどうしたって主観が介入するのでまずいとも思います。ようは使い方の問題ではないでしょうか。より良い情報源を探す努力は怠って欲しくないとは思いますが、誰一人からも、何一つ文句の出ない完璧な情報源というのをいつでも提示することは非常に難しいと考えます。
また、余談になりますが、僕が過去に見かけた議論の中には検証可能性の解釈だけで議論が白熱してしまって、「それってホントに載せるほど重要?」と思うような議論もいくつかありました。情報源としての使用を反対する方が多くなればなるほど、「反対派を押し切ってまで載せるほど重要な情報なのか」「他の方針との兼ね合いで問題はないのか」「他の記事や使用者に与える影響は?」などなど、実際に記事を作っていくうえで考えなくてはいけないことは山ほどあるわけで、総合的に判断することも大切だと思います。--KM-0901 2008年2月27日 (水) 08:07 (UTC)[返信]
私見となりますが。パンフレットに関しては宣伝的な色合いも含まれる分、情報源として使用するのはどうかと考えている一方、DVDについて言えば情報源としての使用にはなんら問題はないと考えております。それをどう使うかについては、結局のところ各分野や各記事ごとにケースバイケースで、という事ではないでしょうか。--Holic 629WTalkCont. 2008年2月27日 (水) 10:10 (UTC)[返信]
みなさまも仰っていますし、既に答えがでていると思いますが基本的にWikipedia:検証可能性は将来の検証可能性までは想定していません。現状で検証可能性があるならそれは十分に認めていいと思います。そこから、 CD や DVD なども含めた公式やそれに準じたところから発売されているものに関しては条件はクリアしているでしょう。形あるものはいずれ壊れるものなので永遠に検証可能であるものは実際にはほとんどないと思います。いつ検証不可能になるかどうかなどは分からない訳なので将来的なものを考えすぎると何も書けなくなってしまいそうです。だから、現状で確かに検証可能であったということが証明できればそれでよく、将来的に検証不可能になったらそのときにそのときの編集者が対応を考えるでいいんじゃないでしょうか。まあ、将来的な検証可能性を絶対的に求めてはいないものの将来的にも検証可能である方が望ましいのも事実ですが。そもそも、本来の質問であった「DVD や映画パンフレットは検証可能性を満たす情報源と見なせるか」という点だけで考えれば「見なせる」というのが答えだと思います。でも、それを元に記述することが望ましい(百科事典として相応しい)かどうかはまた別問題でそれは個別に考える必要があります。 --Mzm5zbC3 2008年2月27日 (水) 15:42 (UTC)[返信]
◆ちょっとひっかかったことがあるのでメモ書き程度に書いとく。
映像作品の項目にとって一次資料となるものは何なんだろうか。それは映像そのものでしょう。ある映画を見て、その映画を見たご感想を書かれたら、それはかないません。しかし、「その映画のパンフレット」や「その映画のビデオテープ・ビデオディスクなどのパッケージ、またそれらに添付されている紙やパッケージ上の記載」は、一次資料たる映像そのものなのだろうか。それが映像そのものではない以上、一次資料のわけはないでしょう。
映画のパンフレットやパッケージメディア上に記載された情報は、それは「それぞれが対象とする映像作品に誘発されて作られた二次資料」なんですよ。というか、何がオリジナルで何が派生物なのかというあたりの区別をとっちらかってはいませんか。もちろん、項目が「『ブレードランナー』のビデオ商品(1977年発売)」とか「映画『(ハル)』のパンフレット」とかだったら、その1977年に発売されたビデオテープやら当該映画のパンフレットやらは一次資料になっちゃうわけですが(そんな項目を乱発するやつがいたらシメていいぞ>誰にともなく)。
たとえば、ある映画作品のDVDパッケージ上に記されているスタッフやキャストの一覧は、「その映画の紹介目的のために作られた二次資料」であり、断じて一次資料ではありません(その証拠に、ときどき異同があったりするわけで)。問題があるとすれば、「それは商業目的のために作られたものであり、公正なものかどうかを検討する必要がある」というあたりですが、記述を作成する上で参考にするには充分信頼のおけるものと受け止めていいと思います(ついでなんだが、もちろん映像作品におけるクレジットは映像作品の一部を構成するもので一次資料ではあるのだが、しかしなんせ「クレジット」なわけでな、あれは書誌情報みたいなもんで、本編部分と同一に扱えるものではなくそれなりの資料的価値を認めてもいいと思う)。
何が一次資料で何が二次資料なのか。資料・情報というものがどのような樹状図を構成し系譜をたどりながら流通していくものなのか。そのあたりって、けっこうフォーカスをあてて眺めないと気付けないポイントだと思う。検証可能性の話とかは前からけっこう気になっていてときどき議論にも参加していたのだが、こんなところに落とし穴があるとは思わなかったと、ちょっと新鮮な気分だったりしました。ただ、「○次資料」の○のところ、けっこう扱いが難しいわりに雑な認識に立脚して意見を作ってるひとが多いなあとは思うし、それは残念なことでもあります。--Nekosuki600 2008年2月28日 (木) 18:15 (UTC)[返信]

みなさま、短い期間に貴重な多くのご意見をありがとうございました。咀嚼して参考にさせていただきます。検証可能性の中で、資料の入手の困難さといったアクセシビリティは、どこまで配慮すべきかという点は改めて考えさせられました。国会図書館についても徳間系のゲーム雑誌はほぼ全滅していたりと、サブカル系は決して磐石な保障があるわけでもないのが実情ですが。

公式発売されたDVD等は、検証可能性を満たすというご判断が多く、正直ほっとしています。

私はGolzaさんが仰っていた「映像作品を執筆するにあたっての最も重要な資料は映像そのものである」には基本的に同意をしています。もちろん多くの二次資料を集め、それを精査しまとめ、執筆を行うのは基本ですが。そうした行為以前に、やはり基礎資料の根幹は、対象作品そのものだと思っています。(これは作品を見ただけで、適当に垂れ流しな執筆を行うという意味ではありません)

今回はありがとうございました。引き続きご意見等ありましたらお寄せいただければ幸いです。--Giftlists 2008年2月28日 (木) 15:40 (UTC)[返信]

「最も重要な資料は映像そのものである」という表現が一部の方の誤解を招いてしまったようなので、一応追記させていただきます。
私が作成した『AM3:00の恐怖』の記事ですが、映像を一切確認せず、2次資料となる出版物のみを基にしています。それなりの内容にはできたと思うのですが…いかんせん、私は映像をリアルタイムで視聴していませんでした。また、この作品はDVDどころかビデオ化や再放送すら行われておらず、内容の確認が不可能です。そのため、この記事が実際の作品についてどの程度正確に書けているのか、想像もつかないのが現状です。
このように、どれほど2次資料を駆使して記事の内容を充実させても、最終的には映像自体をチェックしなければ記事の正確性は検証できない、ということを言いたかったわけです。--Golza 2008年2月29日 (金) 03:46 (UTC)[返信]

それは、Wikipedia:検証可能性#「真実かどうか」ではなく「検証可能かどうか」にある「編集者が、例えばニューヨーク・タイムズの記事の中身が真実かどうか検証する責任があるという意味ではありません。」みたいなものだと思うのですね。

学術的な研究やジャーナリズムであれば、一次研究に近いほうに向かっていくという作業は避けられないですが、ウィキペディアでは、二次資料に向かっていくという風に考えましょう、と。

ただ、独自に取材して事件の目撃証言を得ることや、ニューヨークタイムスの内部事情なんかから記事の真実さを推察するようなことは、独自研究に当たりますけれど、映像作品ならば、事件や歴史的な事項と異なり、機会があれば一次資料を確認することも出来ますから、そこのところは違います。

もちろん、執筆の段階で、可能な限り多くの資料を集め、その資料としての性質を考慮し、最善の記述を求めようとする中で、作品そのものを確認するという作業は、できるだけ引き受けるべきことではあって、機会があれば、本編を見て検証するのが望ましいと思います。ここで重要なのは、作品自体を見て確認するのが大事なのであって、二次資料で書くよりも一次資料で書くほうがいいというわけではないということだと思います。実際のところ、一次資料だけで書くのか、二次資料だけで書くのか、という両方が選択肢としてあるなら、二者択一ではなく、両方確認するのが、いいのだけれど、両方が手に入らなかったら、手に入ったもので最善尽くすしかない。

もうひとつ、作品を見て書けることは限られていて、二次資料を見て書けることも限られている。二次資料で、どういう評価をされていたとか、そういう風な意図で製作されたとか、そういうことが書ければ、それは一次資料とは関係なく書けるわけですし、そういうことも百科事典の記事では大事です。平凡社の源氏物語の項目で筋書きに当たる部分は全体の1/8程度だったり。--Ks aka 98 2008年2月29日 (金) 19:07 (UTC)[返信]