Wikipedia:査読依頼/東急玉川線 20100502

東急玉川線 - ノート 編集

お世話になります。3年ほど前Wikipedia:査読依頼/東急玉川線 20070701を提出し、頂戴した意見をもとに加筆訂正を行いました。それから約3年が経過し、記事内容は十分成熟した感があります。東急玉川線・玉電に関する他のWEBサイトと比べても、内容の充実度に遜色はないものになっていると感じます。そこで、秀逸な記事の選考に提出するまえに、改めて皆様の査読をいただきたく存じます。(なお、私の現在のアカウントは桃尻百香ですが、3年前に記事充実に関与したUser:PeachLoverと同一人物です)。PeachLover- ももがすき。 2010年5月2日 (日) 02:20 (UTC)[返信]

【査読】 ──専門家の方による審査結果。
【検証】 ──参考文献などと照合しつつ正確性を評価頂いた結果。

この部分に記していたコメントは、追加を続けて、書いている本人にも雑然と感じられるので、加筆、修正に合わせて整理しました。--O fudo 2010年5月15日 (土) 04:33 (UTC) まず、参考文献のうち『玉電が走った街 今昔』(以下この書込では「同書」と記す)との照合について記載します。[返信]

  1. 「歴史」という段落の内容について、同書118-128頁、148-154頁で正確性に疑問の残る箇所は特にありませんでした。
  2. 東急玉川線#路線に「開設当初の渋谷駅は、現在の渋谷駅ハチ公口付近の地平にあり」とありますが、同書155頁によると、その南側やや離れた、現在の埼京線ホームの西側あたりのようです。したがって、正確性の検証が必要です。
  3. 東急玉川線#玉川線の「路線」についてです。トロリーバスとの平行については、同書28-29頁で確認できました。「道玄坂から先はほぼ併用(路面)軌道であったが、」以下については、22-92頁に専用軌道の地点と中里、駒沢、用賀に売店等があったことは確認しました。一方、次の事実が符合しません。
    1. 渋谷駅を出てからの登り勾配を「碓氷峠や京阪京津線と同様の66.7‰勾配」としているが、同書12頁では、その勾配を44.7‰と記している。  確認事実相違と判断し、記事を修正 --O fudo 2010年5月29日 (土) 00:48 (UTC)[返信]
    2. 同書では、廃止直前の配線が対面式2面2線であることは確認できました(13-17頁)。乗降場の配置は確認できませんでしたが、『ありし日の玉電』4-7頁で概ね確認でき、正確性に問題の見られる箇所は特にありませんでした。
    3. 玉電ビルの建設過程は、同書の記載とは大きく異なります。同書によると、地上は7階建てで設計され、4階建てで建設され、1954年に地上は11階建てに改築されたとあります。また、同書では、分離された天現寺線のターミナルを渋谷駅東口にして、山手線をくぐることをやめた理由の詳細を明らかにした記述は確認できませんでした。1939年に同ビル2階に乗り入れる形となって廃止まで続いたということは、同書126頁などで確認できます。
  4. 東急玉川線#車庫について、渡り線の存在した停留所が記載されていますが、大橋以外はここに記載すべきものか疑問があります。なお、渡り線が存在したこと自体は、大橋が30頁、三軒茶屋が45頁、駒沢が59頁、用賀が75頁に掲載の写真で確認でき、同書で確認できなかった中里は、『ありし日の玉電』22頁で確認できました。大橋車庫の場所で当初発電所で後に変電所を設置して電気供給事業を行っていたことも確認できました。
  5. 東急玉川線#車両については、同書118-128、162-171頁でほぼ確認でき、正確性に疑問の残る箇所は特にありませんでした。
  6. 玉川線の「遺構」については、同書刊行時からも変化している場所が多いため、割愛します。
  7. 東急玉川線#砧線について、伊勢宮河原停留所で交換可能であったということは、同書では確認できませんでした。これは『ありし日の玉電』でも、吉沢駅で戦前に交換可能であった旨の記述は確認できましたが、伊勢宮河原については確認できず、正確性の検証が必要です。砧本村駅周辺の描写は、正確性に疑問の残る箇所は特にありませんでした。
  8. 東急玉川線#溝ノ口線については、同書146-147、159-161頁で概ね確認できました。ただし、軌道から鉄道への法律上の変更時期については、確認できず、さらに、『ありし日の玉電』43頁で東急50年史を根拠として、、1944年に砧線と溝ノ口線の鉄道線への変更が申請され、同年に認可されたという記述があり(1945年ではありません)、正確性の検証が必要です。
  9. 東急玉川線#譲渡路線については、同書142-145頁で概ね確認できました。ただし、キロ数は除きます。
  10. 東急玉川線#玉電廃止後のバス交通については、同書ではあまり確認できませんでした。

--O fudo 2010年5月15日 (土) 04:33 (UTC)[返信]

渋谷駅付近の勾配について修正しました。本来、査読している者が自分で修正するのが適切なのか疑問がありますが、複数の資料から誤りである疑いが強いことが明白なこと、他の鉄道関連項目にも影響する内容であること、私が指摘してから2週間以上経過していること、査読依頼者にその間の執筆活動が見られないこと、等から修正作業をしました。このようなことが長期間放置されているということは、鉄道関係分野の信頼性に疑問を抱かせるものです(wikipedia:秀逸な記事の再選考/新幹線参照)。--O fudo 2010年5月29日 (土) 00:48 (UTC)[返信]

【書評】 ──専門外の方による評価および助言。
鉄道分野を執筆していますが、専門とはいえないのでこちらでコメントさせていただきます。まず、歴史という節が2つあるのはいかにも奇異です。後のほうの歴史節は、内容が年表なので、前の方の歴史節の後半に「年表」というサブセクションを切ってそこに収容すればよいのではないかと思います。路線概要は、路線の様子はうまく説明されているようなのですが、車両や車庫、運行形態までここに収容されているのはどうかと思います。砧線の車両が玉川線と同型とあるのなら、路線別に説明せずに「車両」という節を独立して設けて、全体について解説するようにしたほうがよいのではないでしょうか。溝ノ口線の車両について説明がないというのは、戦時中に鉄道線に転換してしまっているのでよくわからないということでしょうか。また逆に、溝ノ口線への玉川線からの直通があったことは説明されていますが、砧線はどうだったのでしょうか。全くの独立運行だったのか、玉川線から直通があったのかがわからないと思います。玉川線は、最終的に需要が多くなりすぎて路面電車では捌けなくなって、新玉川線建設へつながるのではなかったかと思いますが、そのあたりの説明ももう少し詳しくしてもらえると嬉しいです。歴史の節はそのあたりを加えるともっと厚くなると思います。よろしくお願いいたします。--Tam0031 2010年5月7日 (金) 16:09 (UTC)[返信]
「検証」でのコメントを書くために『玉電が走った街 今昔』を読んでいて気づいたのですが、砧線については、関東大震災の復旧資材としての砂利の輸送という目的が強く、同書122頁などで砂利の積み下ろし設備や砂利を積んだ電車の東京市電直通についても触れているということは重要だと思います。直通運転については、同書125頁記載の構内配線図や95頁掲載の写真によると、砧線の電車が渋谷方面に向かうためには二子玉川で方向転換して渡り線で玉川線上り線に進入できたが、渋谷方面から来た電車が砧線に入るためには最低3回方向転換する必要があったようです。砧線の目的からは、砂利を積んだ電車が渋谷方面に乗り入れることを考えれば十分と考えたのでしょう。--O fudo 2010年5月15日 (土) 04:33 (UTC)[返信]
今回参考文献として掲載されているものは、概括的に書いているものが多いですが、どの本のどの頁が出典なのかは記載すべきでしょう(すべての参考文献の該当頁を記載する必要性は疑問ですが)。--O fudo 2010年5月9日 (日) 12:59 (UTC)[返信]
【感想】 ──専門外の方による感想。
ざっと読ませていただきました。冒頭で「本項では、玉川線の支線であった砧線および溝ノ口線、ならびに東京都に買収された天現寺線、中目黒線についても記述」とありますが、天現寺線、中目黒線は支線ではない、という理解でよろしいでしょうか。--Sibazyun 2010年6月1日 (火) 15:59 (UTC)[返信]
【その他】 ──表記・文体など

査読をいただきました皆様ありがとうございました。--PeachLover- ももがすき。 2010年7月11日 (日) 07:43 (UTC)  [返信]