Wikipedia:良質な記事/良質な記事の選考/加悦谷祭 20190611

加悦谷祭 - ノート 編集

選考終了日時:2019年6月24日 (月) 17:27 (UTC)

  •   賛成 GAとしては問題ないレベルですが、それ以前の問題として、むしろこの記事内の各神社に関する節はそれぞれ独立記事として分割した方がよいのではないか...と思ったのですが、神社ごとではなく地域ごとのまとまりとして記述されており、各神社の関係なども書かれていて、やはりこれは本記事のサブセクションとしてあるのが妥当なのかな、と思いなおしました。ただ、数が多いのでやはり個別の地域記事はできるだけ祭に関連することに絞り込んで記載した方が良いと思います。一つだけ例を挙げておくと、§ 6.1「加悦(かや)・算所(さんじょ)」に書かれている天満神社の文化財物件に関する記述のようなものは神社の記事に書くべきことで、本記事にはなくても良いと思います。
今後の方向としては、個別の各地域の話題をさらに詳細に記述するよりも(それらは、いずれ書かれるであろう各神社の独立記事におまかせして)、以下のコメントで最初に述べるような、全体の総体的な話題を中心に加筆していただけばと思います。
総合的な内容
  • 観光資源として
統一名称でこれだけ大規模にやっている祭礼ならば、観光資源としても有望と思われますが、町としては、観光資源として大々的に宣伝したりしていることはないのでしょうか。自治体などが推進しなくても、旅行会社が宣伝したりツアーを組んだり、あるいは近年であればネットで評判が広がったりして観光客が増えた、ということはないのでしょうか。戦前から豪華な祭だったようですが、やはりその時代から広く知られていたのでしょうか。また、こういう伝統行事においてあまり観光客が増えることは、地域住民としては迷惑な部分もあると思われますが、そういう軋轢などは今のところないのでしょうか。また、現在でもすでに多くの観光客を集めている、ということであれば、具体的な観光客数や見積もられている経済効果などについての紹介がほしいと思います。
  • 統一的な運営組織について
加悦谷祭の日に例祭を行う各地区の役員などが参加する合同実行委員会のような運営組織はないのでしょうか。たとえば、これだけ町内一斉に各所で山車などが出るとなると、交通規制等も各地区で独自に行っていては混乱が生じかねないと思われるので、そういう打ち合わせだけでも全地域の関係者が寄り集まって協議する場は必要と思われますが、そのような運営組織等はないのでしょうか。
  • 本祭を取り上げた創作物
吉井勇の歌が引き合いに出されていますが、当地を訪れた作家などの評価、あるいは映画やドラマ、小説やマンガ等において、本祭が主要な要素になっているような作品はないのでしょうか。
§冒頭部
  • 「加悦谷の地図」
旧野田川町地域と旧加悦町地域に分かれていますが、可能ならば一枚の地図にまとめてもらった方がわかり易いと思います。旧野田川町と旧加悦町の地区が別々にやっていたものを与謝野町になってから統一したというわけではなく、自治体としては別々だったころから統一的な祭礼としてやっていたわけですよね。それならば旧自治体で分けることはあまり意味がないと思います。 節構成も同様で、旧加悦町地域と旧野田川町地域に分ける必要性があるのでしょうか。
  • 「与謝野町最大規模の春の例祭である。倭文神社を氏神とする三河内地区を除く16地区の氏神の例祭である。」
当祭のように、同じ日に統一された名称で地域の多数の神社の例祭をまとめて開催するというイベントは全国的に普通にあるのかどうかわかりませんが、そういう形式の祭に詳しくない読者のためにも、もう少しわかり易い説明がほしいかな、と思います。「16地区の氏神の例祭」といっても、各神社が合同して一つの祭礼として行うのか、各例祭を同じ日に行うだけなのかなどの点もよくわかりません。リンク先の説明にある「加悦谷周辺の各地区の神社で一斉に催される祭礼」という表現が簡潔にしてわかりやすいと思います。歴史節の「かつては集落ごと、または神社ごとに春や秋に行われていた各々の祭礼を、1887年(明治20年)頃に加悦の天満神社の天神祭の例祭にあわせて4月25日に統一し、前後を含む3日間としたのが、現在の加悦谷祭の原型である」という説明を簡略化して付け加えればずっとわかりやすくなってすっきりすると思います。また、「倭文神社を氏神とする」が「三河内地区」に係るのか「16地区」に係るのか一瞬曖昧になってしまうので、三河内地区のことは注釈に送ってもよいと思います。
  • 「倭文神社の例祭は、担い手不足から1991年(平成3年)以降、5月3日と4日に移行した」
倭文神社_(与謝野町)の注5には、加悦谷祭から独立して日を移した理由として、「織物業の衰退で自営業者が減少したことにより、平日の祭事では会社勤めの氏子が参加できず、曳山の屋台の組み立てに必要な人員を確保することが難しくなったため。」とありますが、歴史節によれば、加悦谷祭自体が「就労環境の変化に伴う担い手不足を解消するため、2001年(平成13年)以降は、4月最終の土曜日曜に行われている」ということなので、その際に倭文神社の例祭も加悦谷祭に復帰することは検討されなかったのでしょうか。
§注釈
出典がついていない注釈も多いですが、原則として注釈部にも出典提示が必要です。
§2 歴史
  • 「町が成熟した証として発展したと考えられている」
この表現は、おそらく二つの出典に書いてある表現そのままと思われます。なんとなく納得して見過ごしてしまいそうな表現ですが、よく考えると意味のわからない曖昧な表現です。町の人たちが、町の成熟した証を見せたい、と意図的に都市的な曳山行事などを導入して発展させた、ということでしょうか。あるいは、客観的に見て、祭が発展したこと自体が町が成熟した証と考えられる、ということでしょうか。
  • 「各々の祭礼を、1887年(明治20年)頃に加悦の天満神社の天神祭の例祭にあわせて4月25日に統一し」
このとき統一したのは、現時点で加悦谷祭として祭礼を行っているほぼすべての神社なのでしょうか。それとも最初に統一したのは数社だけで、後に次第に加悦谷祭として祭礼をこの日に変更する神社が増えていったのでしょうか。
  • 「この日は地区内の事業所や小中学校が休業し、一家総出で祭礼を担った」
過去形になっているということは、現在は学校や事業所の一斉休業はないということですね。まあ、現在は土日曜日に開催されているので一斉休業の必要もないのでしょうが、一斉休業していたのはいつ頃までなのでしょうか。2001年に土日曜開催に変更する以前まではやっていたのでしょうか(いや、それならそもそも担い手不足の問題にはならないですね(^^ゞ)。
§6.1 加悦(かや)・算所(さんじょ)
  • 「チリリン棒」
ムリめの要望かもしれませんが、他の地区でも使用されているようですし、チリリン棒の写真が欲しいですね。
§ 6.3 滝(たき)
  • 「山で採取したヤマブキとヤマツツジを共に飾るのが、他では2019年現在ほとんど見られない特徴である」
ということは、以前は他の地域でも太鼓屋台にヤマブキやヤマツツジ(に限らず何かの花)を飾っていたということでしょうか。
§6.5 後野(うしろの)
  • 「芸屋台を持つ町では、それぞれの山名に関係する御神体を町内のどこかで」
山名とは山号のことかと思いましたが、どうやら屋台の名称のことのようですね。私自身、祭礼に詳しいわけではないので、物を知らないど素人の質問であれば申し訳ありませんが、屋台の名称に「〜山」と付けるのは一般的なことなのでしょうか。またそれを「山名」と称するのは一般的なのでしょうか。もしそうでなければ「それぞれの屋台名に関係する」としたほうが良いと思います。またそこまで書くなら各町内の項目に、その御神体の名前もあればと思います(まあ、たいがい屋台名を見れば見当はつきますが)
§6.6 与謝(よざ)
  • 「加悦の各地方は古くから先住民族が居住したとみられ」
アイヌは別としても、日本史的には「先住民族」という用語は安易に使わない方がよいかと思います。それは差別だとか歴史認識の違いといった問題ではなく、学術的な観点から考えて現代では不適切な表現と思われるからです。「先住民族」という表現はおそらく出典そのままなのだろうと思いますが、この場合はせいぜい「大和政権の支配が及ぶ以前から住んでいた人たち」という程度の意味合いであろうと考えられます。出典自体が1974年とやや古く、また、その頃から日本の古代史に関する見解がかなり変わっていった経過もあるので、この表現は新しい文献(少なくとも21世紀以降のもの)に基づいたものに改めた方がよいと思います。
二ツ岩地区(柴神社、二ツ岩神社、愛宕神社)
「担い屋台」「担い太鼓屋台」「担ぎ屋台」という単語が出てきますがこれらはすべて同じものなのでしょうか。同じものであれば言葉を統一しておかないと、三種類の違う屋台があるようにも読めてしまいます。
§6.6.1 与謝の神楽
  • 「シノブダケ」
おそらく、「忍竹 (シノビダケ、シノベダケ等)」の異名があるメダケの方言と思われますが、出典には「シノブタケ」としかないのですよね。仮に、別資料を参照して、同地域におけるメダケの方言として「シノビタケ」がある、ということがわかったとしても、直接神楽の笛と結びつけるわけにはいかないし...ううむ...
  • 「天狗の鼻とハナ代をかけた物語がある」
これも素人質問であれば恐縮ですが「ハナ代」とは何でしょうか。まったく見当が付きません。
§6.7 温江(あつえ)
  • 「以前は古刀を用いたので切れ味がよく、怪我をする者もいたため、」
以前とはいつの時代までのことでしょうか。また、「古刀を用いたので切れ味がよく」というのもなんだか意味不明です。以前は真剣(の古いもの)を用いた(が、現在は模擬刀を用いている)ということでしょうか。
§ 7.2.1 下山田(しもやまだ)
  • 「菩提樹」
これは明らかにシナノキ科ボダイジュと思われます[1]ので、「明境神社の菩提樹」のような固有名詞的な名称があるのでなければカタカナ書きの「ボダイジュ」の方がよいでしょう(もちろんこれがシナノキ科のボダイジュであることが明記された出典は必要ですが)。
--Loasa会話2019年6月12日 (水) 05:21 (UTC)[返信]
  返信 丁寧にお読みいただき、ありがとうございます。すでに長くて恐縮なのですが、まだ3地区分の祭礼次第が十分に書けていないので、早急にそちらを加筆した後、全体の用語の統一や文章の整理、概要節の追加など、総括的な内容を中心に読みやすい記事にしていきたいと思います。ひとまず、現状で即時回答可能なご指摘について、出典にできるものがある内容については記事に反映し、出典にできるものがない地域事情については以下に回答します。
  • 6.1「加悦(かや)・算所(さんじょ)」に書かれている天満神社の文化財物件に関する記述のようなもの~ 
  1. この点に関しては、私も書きながらこれは独立記事にできる規模の神社でもありそうだしそちらに書くべきでは、と思い、しかし現状、天満神社の記事がないので、とりあえず書いてしまっていました。いったん私のサンドボックスに移し、本記事からは削除しました。
  • 総合的な内容について
  1. 加悦谷祭は地区民自身のための祭という位置づけの祭礼で、観光資源として与謝野町が大きく取り上げたのは、おそらく今年2019年が最初と思われます。昨年までは祭礼パンフレット[2]も制作されていなかったので、その地区の住民以外の者にはその時点でどこで何が進行しているのかはほとんど不明で、神社の幟と囃子の音色を目安に足で探すものでした。本質的には今年も変わらず、観光地の祭礼に定番の食べ物屋台などが出たり、観光案内所や駐車場が特設されたりといったことは、ほとんどの地区で行われていません。旅行会社のHPや個人ブログではしばしば紹介されますが、とくに加悦谷祭のためにツアーが組まれるようなことはないようです。経済的な効果としては、地元スーパーには祭り用の食材や酒類、惣菜等が日頃の数倍は店頭に積み上がるので、地産地消の範囲内では大きな影響があるようですが、具体的な数値を示した資料はありません。
  2. 統一的な運営組織というものも、とくにありません。地区の代表者が集まる場所で多少の協議がされること(祭の準備をいつからやるか、など)は毎年あるようですが、祭礼自体は各地区独自のもので、交通規制も各地区独自に、屋台が巡行している場所を中心に通行止めや片側通行などの規制がされます。元々交通量の少ない旧道を中心に巡行すること、ほとんどの地区民が自分の地区で祭礼に関わっているので同時に行われている他地区の祭礼には行かない、などの理由で、交通量が増えるようなことはないようです。
  3. 後野の屋台行事には比較的観光客が集まり、奉納舞を観るための閲覧席などが設けられますが、これはちりめん街道という元々観光地に位置するためと思われます。
  4. 唯一の例外が三河内地区の曳山行事で、こちらには広域から観光客が集まり、大規模な交通規制が行われますが、現在は加悦谷祭とは離れて独自の日程で行われているので、本記事の対象ではないものとしています。
  5. 加悦谷祭そのものを取り上げた創作物というのは、とくに見当たりませんでした。
  • 加悦谷の地図と町域で分けた節構成について
  1. 最初1枚にするつもりだったのですが、ポイントが30カ所までしか表示されなかったので、やむをえず旧野田川町地域と旧加悦町地域に分けました。
  2. 本文の節構成も、地図が分かれているから分けた方が見やすいだろうかと思い、地図にあわせて分けた形です。内容的に分ける必要性はないと思うので、地図が1枚にできれば統合したいのですが、このへんのシステム的なことはよくわからず、この状態になっています。
  • 冒頭文
  1. 倭文神社については注釈に移し、全体に整理しました。
  • 2001年(平成13年)以降、倭文神社の例祭も加悦谷祭に復帰することは検討されなかったのか。
  1. 検討されなかったと思います。2001年に加悦谷祭が土日になった理由は、地元に就労している者でも、勤め先の本社が地元企業ではない全国的な商業店舗などであることが多くなり、祭礼のための休業に本社の理解を得られず、仕事を休めない人が増えたことにより、小規模な屋台や神楽だけの地区でも支障をきたすようになったことに起因します。一方、1991年の三河内の独立は、都会に就職していった地元出身者に帰省して祭礼行事を担ってもらうことを前提としているため、最初からゴールデンウィークと定められました。
  2. 加悦谷祭の屋台は、各地区で1台から5~6台、歴史節に記した「加悦と後野に4台、算所に2台、明石と金屋に1台」を除いて2階のない小型のものですが、三河内地区の屋台は総数12台で、そのうち4台が2階建ての大型の山車のため、人手を要する事情があります。
  • 注釈の出典
  1. 基本、出典のない記述は無いので、文章を整理しながらおいおい付記します。すみません。
  • 歴史「町が成熟した証として発展」→ 意図的に都市的な曳山行事などを導入して発展させた、のか、客観的に見て、祭が発展したこと自体が町が成熟した証と考えられるのか。
  1. このあたりはご指摘の通り、どちらとも断定しがたいように思います。丹後ちりめん#発祥に記す通り、加悦谷祭のなかでとくに壮麗な屋台巡行などを行う加悦・算所地区、後野地区を中心に、加悦谷は丹後ちりめん誕生まではひじょうに貧しい地域であり、祭礼行事を華やかに行う経済力はなかったと思われます。ちりめんの流通で京と交易するなかで都市的な文化が流入してきたことと、経済的にゆとりができたことから祭礼の規模が大きくなる⇒祭が発展したこととは、意図的とも意図的でないともいえる気がします。
  • 各神社の祭礼日の統一時期
  1. 資料からは、一斉に統一したように読めますが、いずれの資料も明確に○年ではなく、○年頃と記載されていますので、全ての神社が完全に同じ年からではなく、数年の内に統一されたものと思われます。しかしこれは推測になりますので、明言を避けたいと思います。
  • 一斉休業はいつ頃までか。
  1. 学校については、2001年に土日曜開催に変更する以前までは一斉休業でした。企業についてはまちまちで、徐々に休業できない就労先が増えていって担い手不足となったため、2001年に土日開催に移行しました。
  • 「チリリン棒」の写真
  1. これは昨年撮ったつもりだったのですが、データをどこかにやってしまいまして・・・・・・。まだ現地取材できていない他地区の祭礼とあわせて、来年の祭で撮影してきたいと思います。
  • 以前は他の地域でも太鼓屋台にヤマブキやヤマツツジ(に限らず何かの花)を飾っていたか。
  1. 現在はすべての地区で太鼓屋台にふんだんに造花を飾っています。造花のない時代には、生花を飾ったものと推測されますが、山車飾りについて言及している資料がほとんどないので、記載しがたいところです。
  • 後野(うしろの)の屋台の名称について。
  1. 山車に「~山」と名付けるのが、当地では一般的なようですが、名前のない山車もありますので、必ず付けるというものでもないようです。「山名」というのは出典の表記ですが、よりわかりやすく「山車の名称」としました。
  • 6.6 与謝(よざ)
  1. 古い出典の表現を一般的な「人」に改めました。
  2. 二ツ岩地区の屋台名称は、出典には様々な呼称があるものの同種のものと思われますので、他地区でももっとも多く呼称されている「担い屋台」に統一し、別の呼び名があることは補記しました。
  3. 「ハナ代」は、神楽舞の見物料です。内部リンクに花代 (花街)お花」がありましたので、表記を漢字に改めて、リンクを付けました。
  • 6.7 温江(あつえ)
  1. 「以前」は、『加悦町史 資料編2』によれば、「戦前は刀身の部分は真剣であった」と明記されています。この節はまだ『資料編』の内容を反映できていないので、ご指摘いただいた内容に留意しつつ、数日中に加筆修正していきたいと思います。
  • 7.2.1 下山田(しもやまだ)「菩提樹」→「ボダイジュ」
  1. 与謝野町指定文化財(天然記念物)の登録名称も「明境神社のボダイジュ」とカタカナ表記(現地看板で確認。)になっていましたので、「ボダイジュ」に修正しました。
--漱石の猫会話) 2019年6月13日 (木) 16:27 (UTC) リンク先修正しました。--漱石の猫会話2019年6月14日 (金) 11:20 (UTC)[返信]

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