Wikipedia:良質な記事/良質な記事の選考/彷徨五年 20210210

選考終了日時:2021年2月24日 (水) 18:27 (UTC)

  • (推薦)2021年1月の月間新記事賞受賞による自動推薦。--Eryk Kij会話2021年2月10日 (水) 18:27 (UTC)[返信]
  •   賛成 「遷都の計画」の節で「宴の饗宴を受けている」とあるのは「馬から落馬」感があるので直していただきたいですが、おおむね一連の流れを解説できているものと思います。--Tam0031会話2021年2月16日 (火) 15:54 (UTC)[返信]
  •   コメント 全体の流れは丁寧に記述されていると思いますが、読後に「結局何がしたかったの?」というモヤモヤが残ります。もっとも古代史でも指折りの謎ですから通説のようなものも無いのかもしれませんが、なければないと明記した上で幾つかの仮説を並べるだけで印象も変わるのではないでしょうか。具体的には「平城京を脱出した理由」節をもっと膨らませて、異例な都造営と中断、遷都を繰り返した理由に触れて頂けたらありがたく思います。管見では橘諸兄と藤原仲麻呂の権力抗争に原因を求める説があったと思いますが、うろ覚えなので申し訳ありません。--あずきごはん会話2021年2月20日 (土) 10:22 (UTC)[返信]
    •   コメント あずきごはんさん、「なぜ聖武が彷徨したか」についてモヤモヤする件はおっしゃる通りと思います。この項を執筆するのに提示した参考文献を含めて10冊以上の書籍を読みましたが、平城京から脱出して恭仁宮に遷都した理由は各文献で比較的類似していたので記載できました。しかしわざわざ山奥の紫香楽宮に遷都した理由については書籍によってばらばらでした。あまりにばらばらで雑多すぎるので、日本史に詳しくない私は「これは本文には書けないな」と判断しました。文献は図書館に返却したので記憶で書きますが、紫香楽への遷都を推進した人物について私が読んだものだけでこれだけありました。臣下トップの橘諸兄が遷都を推進した説、諸兄は遷都に消極的だった説、次のトップを狙う仲麻呂が推進した説、当時の仏教界トップの玄昉説、紫香楽で大仏建立に携わった行基説、仏教に深く帰依した光明皇后が先の疫病で亡くなったた兄4人を弔うことを聖武に強く願った説。どの説も当時の資料からの裏付けはなく、状況証拠からの推察のようです。こういう状況でしたので本文には書きにくいです。Miya.M会話2021年2月20日 (土) 12:01 (UTC)[返信]
  •   返信 (Miya.Mさん宛) 丁寧なご返答ありがとうございます。おかげ様で状況が少し理解できました。なおも「彷徨した理由は分かっていない」と一行だけでも記してほしいと思いますが、そのように記載している資料が無ければWP:NORに触れそうですし悩ましいですね。--あずきごはん会話2021年2月20日 (土) 12:52 (UTC)[返信]

選考終了時点で賛成1票のため、今回は見送りとなります。--Tam0031会話2021年2月25日 (木) 14:13 (UTC)[返信]