大葉子
経歴
編集調伊企儺は、難波の人。応神天皇の代に弩理使主という者が百済から帰化し、その曾孫弥和は顕宗天皇の代に姓 調首を賜わった。
伊企儺は、その子孫で、号して調吉士。欽明天皇の代に新羅がまた背き、任那を亡ぼしたので、朝廷は紀男麻呂を将として問罪の師をおこし、伊企儺はこれの副将であった。妻大葉子とともに軍に従い、敗れて、虜となった。
新羅の人が刀を抜いて彼に迫り、その褌を脱がせ、臀をあらわにさせ、日本のほうへ向けさせて、
「 | 日本の将、わが臗※(左に「月」、右に「隹」)を噉(くら)へ | 」 |
と叫ばせようとし、しかし伊企儺は、
「 | 新羅王、わが臗※(左に「月」、右に「隹」)を噉(くら)へ | 」 |
と叫び、殺された。その子である舅子は父 伊企儺の屍を抱いて死んだ。
大葉子は虜であったが、歌って
「 | からくにの きのへにたちて おほばこは ひれふらすも やまとへむきて | 」 |
と。聞く者はみなこれを哀れんだ。