島津久静

江戸時代後期の薩摩藩士、都城島津家25代当主 (1832-1862)

島津 久静(しまづ ひさなが)は、江戸時代後期の薩摩藩士。都城私領主である都城島津家25代当主。島津久本の長男。

 
島津 久静
時代 江戸時代後期 - 末期(幕末
生誕 天保3年正月15日1832年2月16日
死没 文久2年5月26日1862年6月23日
別名 出雲、石見(通称
墓所 宮崎県都城市都島町の都城島津家墓地
官位 従四位
主君 島津斉彬茂久
薩摩藩都城私領主
氏族 都城島津家
父母 父:島津久本、母:喜代(島津久長の娘)
兄弟 久静、甲(島津久福正室)、尋(北郷久徳正室)、新納資致北郷資恭北郷久政川上資充
正室:島津久光の娘)
久寛
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生涯

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安政3年(1856年)、久本の隠居によって家督を継ぐ。久本が始めた百姓寄合田を郷士[1]に適用した衆中寄合田を始めた。また藩政では東目海岸防禦総取として大隅半島の海防に当たった。

安政6年(1859年)、肥田景正に命じて京都江戸を観察させ、自身も藩主島津茂久の名代として江戸に出府している。文久2年(1862年)、岳父である島津久光の上洛に先立って大館晴勝木幡栄周隈元棟貫豊丸勝任山下章坂元良敏立山時常らに京坂を探索させ、自身も三百余名の兵を率いて上洛した。久光が幕政改革を迫って東下した際に、尊皇攘夷過激派から京都を守護するために留守を守り、都城兵は御所の警備などを行った。しかし久静は麻疹に罹って伏見で急逝した。役人[2]北郷資雄資知らはその死を秘し役目を全うした。

跡を息子の久寛が継いだが、幼かったため父の久本が再び政務を見た。

明治40年(1907年)、従四位を追贈された[3]

脚注

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  1. ^ 都城島津家は都城城下だけでなく領内に多くの郷(外城)を抱えており、本藩と同様の行政組織をとっていた。
  2. ^ 薩摩藩私領主の家老にあたる役職。
  3. ^ 田尻佐 編『贈位諸賢伝 増補版 上』(近藤出版社、1975年)特旨贈位年表 p.23