高橋 坦室(たかはし たんしつ、明和8年(1771年) - 文政6年5月21日1823年6月29日))は、水戸藩儒学者彰考館総裁。名は広備、字は子大、通称は又一郎。坦室は号。

生涯

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長久保赤水に学び、文に優れ、藤田幽谷とともに両才子と称せられた。天明6年(1786年)から彰考館に勤め、『大日本史』の編纂に努めた。享和3年(1803年)には論賛刪除の議を起こして立原翠軒らと対立した。同年、紀伝再訂頭取となり、文化4年(1807年)に彰考館総裁となった。翌文化5年(1808年)、御用調役となって政務に参与したが、人の欠点・不正を面折することから人望を失い、不遇のうちに病没した。

大正7年(1918年)、正五位を追贈された[1]

著書

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  • 『長久保赤水為学入門鈔』

脚注

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  1. ^ 田尻佐 編『贈位諸賢伝 増補版 上』(近藤出版社、1975年)特旨贈位年表 p.45

関連項目

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参考文献

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  • 茨城新聞社編 『茨城県大百科事典』 茨城新聞社、1981年、658頁。