今井康子
日本の歌人
経歴
編集米子高等女学校(現米子西高校)卒業後、佐佐木信綱に師事し竹柏会『心の花』に属し、続いて斎藤瀏の『短歌人』後に斎藤史の『原型』の同人となる。
1946年歌集『麓』を発刊。ほかに1979年発刊の遺稿歌集『裾野原』がある。
その他
編集- 「文明開化は書籍から―。今井書店がいよいよ堅実に営業して、いよいよ隆昌である。店舗の上側は以前活版所があった所、それが店の裏側に退き、更に今の所に後退し、退く度に発展した。三代前の今井兼文翁は岡山県の人、米子に落付いて商売と学問とを併せ進展された。村上斎伯父が始めては止めた書籍・活版を引継いでキッキョ経営されたから、一方は裏へ、一方は表で共に隆昌を伝えて三代である。現兼文翁、又父祖をはずかしめず、松江に鳥取に支店を開いて堅陣を布く。然して、女店員を採用したのは、山陰道において先駆である。また今井氏は総動員の謡曲一家である。さかのぼると今は昔、康子夫人が、米子で初めて恐らくは山陰道で初めてピアノの鍵を鮮やかに敲いて大人共をアッといわせたイタイケな姿を知る人も稀であろう。和歌は竹柏園同人、絵画は岡村葵園氏の直門、これでもかこれでもかである。」とある。
参考文献
編集- 野坂寛治 『米子界隈』 1969年 215頁
- 『鳥取県大百科事典』(編集・新日本海新聞社鳥取県大百科事典編集委員会)1984年 69頁