柳京洙

朝鮮民主主義人民共和国の軍人、政治家

柳 京洙(リュ・ギョンス、류경수)は朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)の軍人政治家朝鮮戦争開戦時の第105戦車旅団長。別名は柳三孫満州派。妻は朝鮮革命博物館館長などを務めた黄順姫

柳京洙
生誕 1915年
大日本帝国の旗 日本統治下朝鮮咸鏡南道新興郡
死没 1958年11月19日
朝鮮民主主義人民共和国の旗 朝鮮民主主義人民共和国
所属組織 東北抗日聯軍
ソ連軍
朝鮮人民軍
最終階級 中尉(ソ連軍)
大将(北朝鮮軍)
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経歴 編集

1915年、咸鏡南道新興郡の貧しい家庭に生まれる。

1931年、春荒闘争に参加。1932年、中国共産主義青年団に加入。同年8月、延吉遊撃隊に入隊。1936年、中国共産党に入党。東北抗日聯軍第1路軍で活動。1940年11月にソ連に入り第88特別旅団第1大隊第1中隊第1小隊長・中尉[注釈 1]

第2次世界大戦終戦後は帰国し、朝鮮人民軍第4連隊長を経て1950年、第105戦車旅団長少将朝鮮戦争が勃発し、ソウルを占領すると第105戦車旅団は師団に昇格し、柳には朝鮮民主主義人民共和国英雄国旗勲章第1級が授与された[1]。第105師団は戦争初期に韓国陸軍スミス支隊に猛威を振るったがアメリカ空軍の参戦やスーパー・バズーカの導入によって次第に脅威は薄れた。とくに航空機の攻撃が脅威であり、「飛行機狩り」という刺し違え戦法が指令されたが、効果は無く、洛東江にたどり着いた時には1個戦車連隊程度の戦力になっていた[2]

1950年9月、国連軍の反攻作戦で壊滅し、戦車は1両も帰還できなかった。当時第105戦車師団政治軍官(上尉)だった呉基完[注釈 2]は「もし安東洙政治文化副師団長が戦死していなかったら、柳京洙師団長が階級章を捨て私服を着たまま後退するようなことは決して起こらなかっただろう」と証言した[4]。1951年1月、負傷した金光侠に代わって第3軍団長[1]

1956年、第3回党大会中央委員。

1958年、第2集団軍司令官・大将

評価 編集

野戦指揮官としての評価はかなり貧弱で、人民軍の軍団長の中で最下位またはそれに近い位置に評価されている[1]

ロシア語は読み書きと流暢に話すことができ、中国語は流暢に話せ、日本語に関しては実用的な知識を持っていた[5]

「この餓鬼」「×のような餓鬼」が口癖であるという[6]

第3軍団長であったとき、作戦会議を開かれ、軍団参謀長と作戦部長が任務などを詳しく説明して司令官の決意を代弁し、各師団の任務について意見を求めてから正式命令をもらって会議を終えた[7][注釈 3]。ある師団長が任務に関してもう少しはっきり知ろうと柳京洙の許へ出向き質問するや否や、「何を言ってるんだ、人が話しているときによく聞きもせず。俺も知らんよ。×みたいな餓鬼が。俺が何か知っていると思ってそんなことを聞くのか?えっ!参謀長んとこ行って聞いてみろ」と吐き捨てるように言った[7]

1953年晩秋、全軍の文芸サークル競演大会が開かれることになり、第1集団軍政治部では兵士手製の楽器で小型の交響曲を準備し、試演会に柳京洙を案内した[7]。何曲か演奏された後、柳京洙は政治部副部長の朴表燮大佐を怒鳴りつけ、席を蹴って出ていってしまった[7]

「おい。おまえ、いったいどんな指導をしたんだ?演奏中に休む奴がいるじゃないか!」

「司令官同志、本来、交響曲というのは楽士たちが自分の順番でないときは、演奏をせず、番が来たときに演奏するようになっているのです」

「御託を並べるな。こんな規律もくそもないような状態で、どこに出て演奏するというんだ。本番ではどんな奴も休ませないようにしろ」 — 柳京洙と朴表燮の会話[8]

集団軍麾下の将校家族会で、主席壇の中央の席に座って家族たちを見下ろしながら「俺のような高い人間を初めて見ただろう?」と言い、訓話を垂れるとき「将校らが真黒に汚れた足袋を穿いているんだ。女房たちは何をごろごろしている?暑い最中、犬みたいになって亭主を出勤させ、羽をすっかり伸ばして蠅を一口食らい[注釈 4]、昼寝ばかりしてるわけか!」と言った[7]

注釈 編集

  1. ^ 『朝鮮戦争韓国篇 中巻 50年春からソウルの陥落まで』には、柳を戦車大隊長として独ソ戦に参戦したソ連軍大尉、『History of the North Korean Army』はソ連軍戦車部隊の中隊級将校としているが、これは誤りであり、機甲部隊の創設に関与した崔表徳と混同している可能性がある。
  2. ^ 1950年3月、金日成総合大学卒業。農林省直属中央幹部学校教務主任を務め、民族保衛相崔庸健の命令で第105戦車師団政治文化宣伝員となる。1954年、中央アジアのソ連系朝鮮人コミュニティで活動。1955年から金一の秘書を務め、1963年まで農業相韓典鐘の下で働いた[3]
  3. ^ 抗日パルチザン出身者が指揮する部隊には、司令官が無学だという点が考慮され、参謀長や作戦部長にはしっかりした人物が選ばれていた[6]
  4. ^ この表現について呂政は、おそらく口許に蠅が止まるという意味だろうとしている[9]

脚注 編集

参考文献 編集

  • 佐々木春隆『朝鮮戦争 韓国篇 下 (漢江線から休戦まで)』原書房、1977年3月10日。NDLJP:12172908 
  • [유경수(柳京洙, 1912~58)]”. 노동자의 책. 2015年2月27日閲覧。
  • 佐々木春隆『朝鮮戦争前史としての韓国独立運動の研究』国書刊行会、1985年4月20日。NDLJP:12173181 
  • 東亜日報,韓国日報 編、黄民基 訳『金日成 その衝撃の実像』講談社、1992年。ISBN 4-06-205863-4 
  • 和田春樹『金日成と満州抗日戦争』平凡社、1992年。ISBN 4-58-245603-0 
  • (PDF) History of the North Korean Army. Headquarters Far East Command Military Intelligence Section, General Staff. (1952). https://fas.org/irp/world/dprk/army-hist.pdf 2019年5月26日閲覧。