小田 健作(おだ けんさく、1888年明治21年)4月4日 - 1943年昭和18年)1月21日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将

小田 健作
生誕 1888年明治21年)4月4日
大日本帝国 福岡県
死没 1943年昭和18年)1月21日
オーストラリア委任統治領ニューギニア
ニューギニア島
所属組織 大日本帝国陸軍
最終階級 陸軍中将
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経歴

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福岡県出身。1938年8月1日歩兵第50連隊長に、1940年8月1日には第26歩兵団長へ就任した。1941年9月1日豊橋陸軍予備士官学校長となり、同時に豊橋陸軍教導学校長も務めた[1]

太平洋戦争勃発後の1942年12月14日、彼は日本軍によるポートモレスビー作戦中のニューギニア島へ派遣され、戦死した南海支隊堀井富太郎陸軍少将の後任に就いた。このとき東部ニューギニアにいた南海支隊は支援部隊が到達できず、撤退もできない窮地に立っていた。第18軍から撤退命令を受けた彼は、南海支隊の残存兵力で敵の前線を突破し、クムシ河へ抜け撤退する強硬手段に出た。しかし先に撤退した独立工兵第15連隊独立混成第21旅団が既に舟艇すべてを使用してしまったため、南海支隊幹部は撤退に失敗した。1943年1月21日、彼は撤退の際置き去りにした傷病兵らと最期を迎える決意をし、地面にマントを敷いた後、参謀附の富田義信中佐とともに拳銃で自決した[2]。死後陸軍中将へ昇進した[3]

栄典

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勲章

出典

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  1. ^ The Generals of WWII”. 2015年1月5日閲覧。
  2. ^ 豪日研究プロジェクト”. 2015年1月5日閲覧。
  3. ^ 第32号 昭和18年2月21日 陸軍異動通報」 アジア歴史資料センター Ref.C12120884800 
  4. ^ 『官報』第4280号「叙任及辞令」1941年4月16日。

関連項目

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