エドゥアルト・シュトラウス (1955-)

エドゥアルト・シュトラウスドイツ語: Eduard Strauss, 1955年4月21日 - )は、オーストリア最高裁判所判事[1]ウィンナ・ワルツで有名なシュトラウス家の現当主で、エドゥアルト・シュトラウス2世の息子である。一族内では音楽家にしか何代目と称することは認められていないが[2]、しばしば「エドゥアルト・シュトラウス3世」とも呼ばれる。

半生 編集

1955年4月21日ウィーンで誕生した。指揮者として活躍していた父親のエドゥアルト・シュトラウス2世の影響もあって、音楽に深い関心を寄せるようになった。しかしエドゥアルトは次の理由で、音楽家ではない別の職業を選択することに決めた。

Ich glaube, ich bin musikalisch und wäre sicher auch gern Musiker geworden. Mein Vater hätte auch nichts dagegen gehabt. Aber, wie schon gesagt, erschien mir die Belastung durch den Namen zu groß[3]. (意訳)私には確かに音楽家になりたいという思いがありました。父(エドゥアルト2世)は、それについて何も言いませんでした。しかし、音楽家になるには、エドゥアルト・シュトラウスというこの名前が、やはり私には荷が重すぎるように感じました。(1994年のインタビューにて)

10歳の時に、先祖であるヨハン・シュトラウス2世ヨーゼフ・シュトラウスヨハン・シュトラウス3世なども通ったショッテン・ギムナジウムドイツ語版に入学。その後、1973年10月から1978年12月までウィーン大学法学部に在学し、1979年2月1日に法学博士となった[4]1982年10月1日からウィーナー・ノイシュタット地方裁判所にて判事を務める[4]

1969年、14歳だった時に父エドゥアルト2世が59歳で急死した。父の死によってシュトラウス家の現役の音楽家はいなくなったが、エドゥアルトは音楽一家としての伝統を一定の形で維持しようと考えた。1983年イギリスBBCラジオ第二放送のコンサート番組「シュトラウスと友人たちのウィーン」に、ラジオ司会者として出演[2]1989年には「ウィーン・シュトラウス研究所(Wiener Institut fur Strauss-Forschung、略称WISF)」を創設し、裁判官としての職務のかたわらで一家やその作品についての研究を行い、国内外での講演活動も行っている。

また、1975年には求められてウィーン男声合唱協会ドイツ語版(かつてシュトラウス2世がワルツ『美しく青きドナウ』を献呈した団体)に加入し[4]1995年からは「スコラ・カントルム合唱団(Chorvereinigung Schola Cantorum)」にも所属している。音楽との一定の関わりは保っているものの、エドゥアルトは以前からプロの音楽家にはならないと公言している[4]。『クラシカル・ミュージック』のインタビューに次のように答えたこともある。

エドゥアルト・シュトラウスと呼ばれてウィーンに住むこと、このプレッシャーはご想像を超えるものです[2]。(1983年12月24日、ロンドンにて)

家族 編集

1986年9月12日、薬剤師のスザンヌ・シャルロッテ(旧姓キーナスト)と結婚し、男子2人を儲けている。

その他 編集

出典 編集

  1. ^ 「美しく青きドナウ」初演から150年で記念式典”. NHK (2017年2月16日6時15分). 2017年2月21日閲覧。
  2. ^ a b c ケンプ(1987) p.250
  3. ^ http://www.music.at/cms/index.php?section=180
  4. ^ a b c d ケンプ(1987) p.251
  5. ^ Unser Team – Juristenverband” (ドイツ語). 2021年1月12日閲覧。

参考文献 編集

  • ピーター・ケンプ 著、木村英二 訳『シュトラウス・ファミリー : ある音楽王朝の肖像』音楽之友社、1987年11月。ISBN 4276224241 

外部リンク 編集