ウジェーヌ1世・ド・リーニュ

ウジェーヌ1世・フランソワ・シャルル・ラモラル・ド・リーニュEugène Ier François Charles Lamoral, 8e prince de Ligne, 1804年1月28日 - 1880年3月20日)は、ベルギーの貴族、外交官政治家。第8代リーニュ公、アンブリス公及びエピノワ公。スペインのグランデ

ウジェーヌ1世・ド・リーニュ
Eugène Ier de Ligne
第8代リーニュ公
在位 1814年 - 1880年

出生 (1804-01-28) 1804年1月28日
ベルギーの旗 ベルギー ブリュッセル
死去 (1880-03-20) 1880年3月20日(76歳没)
ベルギーの旗 ベルギーベルイユ英語版
配偶者 アメリー・コンスタンス・メラニー・ド・コンフラン
  ナタリー・ド・トラズニー
  ヤドヴィガ・ルボミルスカ
子女 一覧参照
父親 ルイ・ウジェーヌ・ド・リーニュ
母親 ルイーズ・ヴァン・デル・ヌート・ド・デュラ
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リーニュ公ウジェーヌ1世の胸像

リーニュ公世子ルイ・ウジェーヌ(1766年 - 1813年)とその妻の伯爵令嬢ルイーズ・ヴァン・デル・ヌート・ド・デュラ(1785年 - 1863年)の間の長男として生まれた。1813年に父が、翌1814年祖父シャルル・ジョゼフが相次いで世を去ったため、10歳でリーニュ公家の家督を継いだ。

1830年のベルギー独立革命では新生国家ベルギーの国王候補の1人に推されるが、辞退した。1837年、ベルギー王レオポルド1世の名代として、レオポルドの姪ヴィクトリアのイギリス女王戴冠式に出席。1842年から1848年まで、在仏ベルギー全権公使としてパリに赴任する。

1851年に上院議員となり、翌1852年から1879年まで長く上院議長を務めた。1879年、当時のベルギー政府の自由主義政策に反発し上院議長を辞職、翌年死去した。

子女

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生涯に3度結婚した。1823年5月12日、ノール県ルー英語版にて、ダルマンティエール侯爵シャルル・ルイ・ガブリエル・ド・コンフランフランス語版の一人娘アメリー・コンスタンス・メラニー・ド・コンフラン(1802年 - 1833年)と最初の結婚をする。メラニーとの間に2人の息子をもうけた。

1834年7月21日にブリュッセルで、トラズニー侯爵ジョルジュ=フィリップの娘ナタリー・ド・トラズニー(1811年 - 1835年)と2度目の結婚をするが、彼女は第1子となる長女出産直後に急死する。

  • ナタリー・フロール・ジョルジーヌ・ウジェニー(1835年 - 1863年) - 1853年クロイ公ルドルフと結婚、オーストリア大公妃イザベラの母

1836年10月28日にウィーンで、ポーランド人貴族ヘンリク・ルボミルスキ公の娘ヤドヴィガ(エドウィッジ)・ルボミルスカ(1815年 - 1895年)と3度目の結婚をし、間に4人の子をもうけた。

脚注

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  1. ^ テキサス州ニューブローンフェルズの開拓指導者であったゾルムス=ブラウンフェルス侯子カールドイツ語版の娘。

参考文献

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  • Constantin von Wurzbach: De Ligne, Lamoral Fürst. In: Biographisches Lexikon des Kaiserthums Oesterreich. 3. Theil. Verlag der typogr.-literar.-artist. Anstalt (L. C. Zamarski, C. Dittmarsch & Comp.), Wien 1858, S. 219 f.