高橋 百千(たかはし ももち、1889年7月14日[1] - 1973年8月8日[2])は船舶交通に関する人物。

台湾総督府交通局技師として現地の方を尊重し、台湾と日本の関係良好の礎を築いた。戦後は日本モーターボート選手会が今の競艇に発展するための法整備などに尽力。[要出典]

経歴

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広島県広島市東白鳥町で生まれる。1916年(大正5年)、官立商船学校機関科(現・東京海洋大学海洋工学部)卒業[1]日本郵船機関士を務めた後、1917年(大正6年)逓信省管船局に入り、名古屋逓信局海事部長を経て、1940年(昭和15年)日本船用品統制副社長、1949年(昭和24年)日本船燈監査役となる[1]

1956年(昭和31年)日本船舶機関士協会会長、1957年(昭和32年)全国モーターボート競走施行者協議会事務局長を務める[1]

1963年(昭和38年)運輸省海技審議会委員。1964年(昭和39年)船舶振興ビル株式会社社長。

1967年(昭和42年)勲三等瑞宝章受章[3]

物理学者でアルバータ大学名誉教授の高橋康は長男[1]

脚注

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  1. ^ a b c d e 『人事興信録 第25版 下』人事興信所、1969年、た212頁。
  2. ^ 『昭和物故人名録 : 昭和元年~54年』日外アソシエーツ、1983年、p.291。
  3. ^ 『日本叙勲者名鑑 昭和39年4月~昭和53年4月 上』日本叙勲者協会、1978年、p.1451。

外部リンク

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