高田 豊樹(たかだ とよき、1875年明治8年)7月24日[1][2] - 1964年昭和39年)7月23日[1][2])は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将

経歴

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石川県出身[1][2][3]。高田嘉平の三男として生れる[1]。東京府立第一中学校(現東京都立日比谷高等学校)、陸軍幼年学校を経て、1896年(明治29年)5月、陸軍士官学校(7期)を卒業[2]、翌年1月歩兵少尉に任官し近衛歩兵第3連隊付となる[1][4]。1903年(明治36年)11月、陸軍大学校(17期)を卒業[1][2][3]日露戦争時には近衛歩兵第3連隊中隊長、韓国駐剳軍参謀を務めた[1]

1906年(明治39年)5月、第4師団参謀に就任し、1908年(明治41年)12月、歩兵少佐に昇進[1]参謀本部員を経て、1913年(大正2年)4月、支那駐屯軍司令部付となり、同年11月、歩兵中佐に進んだ[1]歩兵第43連隊付、第11師団参謀を経て、1916年(大正5年)11月、歩兵第66連隊長に就任[1][3]。1918年(大正7年)3月、青島守備軍司令部付として済南に駐在[1][2][3]。1919年(大正8年)4月、参謀本部支那課長に転じ、1921年(大正10年)6月、陸軍少将に進級し参謀本部付となる[1][2][3]

1921年(大正10年)9月、青島守備歩兵隊司令官に就任し、歩兵第32旅団長、第9師団司令部付を経て、1926年(大正15年)3月、陸軍中将に進み支那駐屯軍司令官に就任[1][2][3]。1927年(昭和2年)7月、参謀本部付となり、同年12月、予備役に編入された[1][2][3]

その後、國粹会顧問を務めた[1]1947年(昭和22年)11月28日、公職追放仮指定を受けた[5]

栄典

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位階
勲章等

脚注

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  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o 『日本陸海軍総合事典』第2版、96頁。
  2. ^ a b c d e f g h i 『日本陸軍将官辞典』421頁。
  3. ^ a b c d e f g 『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』127頁。
  4. ^ 『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』124、127頁。
  5. ^ 総理庁官房監査課編『公職追放に関する覚書該当者名簿』日比谷政経会、1949年、「昭和二十二年十一月二十八日 仮指定者」163頁。
  6. ^ 『官報』第4092号「敍任及辞令」1926年4月17日。
  7. ^ 『官報』第4438号・付録「辞令二」1941年10月23日。

参考文献

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  • 秦郁彦 編『日本陸海軍総合事典』第2版、東京大学出版会、2005年。
  • 福川秀樹『日本陸軍将官辞典』芙蓉書房出版、2001年。
  • 外山操 編『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』芙蓉書房出版、1981年。