清水仁三郎
日本の衆議院議員(立憲国民党)。建築家。実業家
清水 仁三郎(しみず にさぶろう、1878年(明治11年)2月19日[1][2] - 1951年(昭和26年)11月12日[3])は、日本の衆議院議員(立憲国民党)。建築家。実業家。
経歴
編集京都府京都市出身[4]。建築家清水仁兵衛の二男として生まれ、同志社で学んだ[1][2]。建築工学を学び、京都武徳殿の建築に参加した[5]。宮内省・農商務省の委嘱を受け、1900年(明治33年)のパリ万国博覧会では日本建築・庭園模型を出品した[5]。1902年(明治35年)、岩崎男爵家の設計技師となり、邸宅の設計を担当した[1]。1910年(明治43年)の日英博覧会の際には、再び宮内省・農商務省の委嘱を受け日本庭園の設計を担当した[5]。1911年(明治44年)、岩崎家の建築事務閉鎖に伴って独立し、清水建築工務所を開いた[2]。1915年(大正4年)のサンフランシスコ万国博覧会では評議員を務めた[5]。
1912年(明治45年)、第11回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。この時、『日刊工業新聞』を創刊し、のち『大正民報』と改題した[1]。
清水建築工務所所長の他、伊賀耐火煉瓦株式会社社長、播美鉄道株式会社常務取締役、小湊鉄道株式会社取締役、日本ラミー紡績株式会社取締役、湘南自動車株式会社監査役、中央工学校顧問・講師などを務めた[2]。
著書
編集- 『犬養毅』(太閤堂、1913年)
脚注
編集- ^ a b c d 大正人名辞典 1917, p. 907.
- ^ a b c d 人事興信録 1918.
- ^ 議会制度七十年史 衆議院議員名鑑 1962.
- ^ 衆議院要覧 1912, p. 413.
- ^ a b c d 日本之精華 京都府之部pp.47-48 1914.
参考文献
編集- 『衆議院要覧 大正元年十一月』衆議院事務局、1912年。
- 北川由之助編『日本之精華』毎日通信社、1914年。
- 五十嵐栄吉『大正人名辞典』東洋新報社、1917年。
- 人事興信所編『人事興信録 第5版』人事興信所、1918年。
- 衆議院・参議院編『議会制度七十年史 衆議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1962年。