本田渓花坊
本田 渓花坊(ほんだ けいかぼう、明治23年(1890年)10月4日 - 昭和62年(1987年)8月6日)は日本の川柳作家、川柳史研究家。本名、敬之助(けいのすけ)。造幣局の桜の通り抜けを詠んだ句「大阪に花の里あり通り抜け」で知られている。
京都時代
編集京都市上京区西陣糸屋町生まれ。今出川新町の辺りに住んでいた頃、明治41年(1908年)頃から川柳の活動を始め、明治43年には京都柳友社という同好会の一員として創作に励む。この流れの中で、地元京都の川柳仲間である藤本蘭華と共に、明治45年(1912年)3月、京都で初めての川柳専門雑誌「みづ鳥」を発刊。
大阪時代
編集大正2年(1913年)年の暮、大阪に転居。その後まもなく、南区島之内にて、関西川柳社「番傘」の会員として創作活動を行うとともに、「絵日傘」を発刊。大正後期になり、北区老松町に転居し、ここで、大正13年(1924年)3月に「大大阪」を刊行し、以後、昭和4年(1929年)4月まで発行を続けた。 また、川柳活動の当初の時期以来、京都、大阪、東京など各地の川柳作家と交流を続けながら、句集や川柳史研究など、川柳に関する著作も手がけていった。
戦後になってからも、創作、選者双方の取組を続け、昭和39年(1964年)4月には、造幣局付近に川柳句碑「大阪に花の里あり通り抜け」が建立された[1]。また、造幣局の桜の通り抜けの川柳投句の選者を昭和55年(1980年)まで務めたほか、後身の育成にも力を注いだ。
参考文献
編集- 「京都日出新聞」明治43年2月7日刊、同年3月9日、6月29日刊
- 「ぎおん 第一巻第一号」 京都川柳社、大正3年2月15日発行
- 「絵日傘 二の三」 本田敬之助編、絵日傘川柳社、大正7年8月10日発行
- 「大大阪 一の一」 本田敬之助編、大大阪川柳社、大正13年3月1日発行
- 「渓花坊川柳随筆」 森鶏牛子編、川柳叢書刊行会、昭和9年2月25日発行
- 「通り抜けの桜」造幣局泉友会編、創元社、昭和60年4月20日、第1版第1刷発行
- 「桜の通り抜け選句集」造幣局泉友会編、創元社、平成元年発行
- 「大正期(大正2年~8年)の『番傘』川柳にみる 子供の情景」 関西児童文化史研究会、平成11年11月5日発行
脚注
編集関連項目
編集外部リンク
編集- 本田 渓花坊さんってどんな人ですか? - 博物館Q&A - 造幣局