シャーリー・ホリマン (Shirlie Holliman) として知られる[1]シャーリー・ケンプ(Shirlie Kemp、旧姓:ホリマン (Holliman)、1962年4月18日 - )は、イングランドの歌手で、1980年代にデュオ、ペプシ&シャーリー英語版の一員として、ワム!とともに有名になった。

シャーリー・ケンプ
2011年6月、Liverpool Echo Arena で歌うシャーリー・ケンプ。
基本情報
生誕 (1962-04-18) 1962年4月18日(62歳)
イングランドの旗 イングランド ブッシー・ヒース
ジャンル ポップ
職業 歌手
活動期間
  • 1981年–1991年
  • 2000年
  • 2011年–現在
レーベル
  • Innervison
  • エピック
  • コロムビア
  • 共同作業者
  • ペプシ&シャーリー
  • ワム!
  • 生い立ち 編集

    ホリマンは、ハートフォードシャーワトフォードに近い、ブッシー英語版の公営住宅で、5人きょうだいの一人として育った[2]。彼女は、乗馬のインストラクターになりたいと考えていたが[3]、18歳の時にアレルギー性鼻炎が酷くなり、何もできなくなっていたところで、男友達だったアンドリュー・リッジリーが、自分と友人のジョージ・マイケルが地元でギグをするから、演奏しているところで踊っていてくれないかと提案した[2]

    音楽活動 編集

     
    ペプシ&シャーリー、Liverpool Echo Arena、2011年。

    ホリマンは、やがてワム!への繋がったバンドのメンバーとなったことはなかったが、友人のディー・C・リー英語版と同じように、バッキング・シンガーとして演奏ごとに報酬を支払われており、その頃もまだ両親の家に住んでいた[2]。やがてリーはデュオから離れ、スタイル・カウンシルに加入して、後にはそのリードシンガーだったポール・ウェラーと結婚することになったが、リーに代わって「ペプシ (Pepsi)」ことヘレン・デマクイール英語版が加わり、この二人はワム!の全ての楽曲とコンサートに関わることになった[3]。やがてジョージ・マイケルは、ワム!の主なファン層であった十代の聴衆より、もっと洗練された層に向けた音楽を創作したいと望むようになり、1986年春にはワム!の解散が発表され、最後のコンサートが1986年6月28日ウェンブリー・スタジアムで「ザ・ファイナル」と題しておこなわれた[3]

    ワム! との活動の期間から、ホリマンとデマクイールは、自分たち自身のグループを組むことを決め、ペプシ&シャーリー英語版と名乗っていた。ウェブリーでのコンサートの直後には、アップビートで、よりポップ色の強いジャンルのサウンドで、彼女たちはイギリスのトップ10に2曲のヒットを送り込んだ。フィル・フィアロン英語版とタンビ・フェルナンド (Tambi Fernando) がプロデュースした「Heartache」は全英シングルチャートの2位となったが、その時に首位だったのはジョージ・マイケルとアレサ・フランクリンの「愛のおとずれ (I Knew You Were Waiting (For Me))」であった[3]。また、タンビ・フェルナンドとピート・ハモンド (Pete Hammond) がプロデュースした「Goodbye Stranger」は、最高9位まで上昇した。

    このデュオとしての活動は1989年まで続いたが、その後も、2000年に短期間再結成されて、イギリスで首位に立ったジェリ・ハリウェルの「Bag It Up」でバッキング・ボーカルを務めた[3]。二人は、Here and Now Tour の10周年を記念して2011年6月24日に始まったツアーにも、再結成して参加した[4]

    2002年11月29日ジョージ・ハリスンの没後一周年におこなわれたコンサート・フォー・ジョージにも、ホリマンはバッキング・ボーカルとして参加した。

    私生活 編集

    ホリマンは、スパンダー・バレエのベーシストで歌手のマーティン・ケンプ英語版と結婚し、娘が産まれたのを機に、恒常的な演奏活動からは引退した。ホリマンがケンプと会ったのは、共通の友人であったジョージ・マイケルの紹介を通してであり[2][3]、このペアは1988年セントルシアで結婚した。夫妻はふたりの子どもたち、娘であるハーレー・ムーン・ケンプ(Harley Moon Kemp、1989年8月 - )と息子であるローマン・ケンプRoman Kemp1993年1月 - )をもうけた[5]。ホリマンと娘のハーレーは、スパイス・ガールズのビデオ「Mama」のミュージックビデオに短いショットながら揃って出演した[3]

    夫ケンプが脳腫瘍のために看病が必要となり、ホリマンは仕事をやめ[2]1996年9月には破産を宣告され[2]、ケンプの回復のために一家はハムステッド・ヒースからマスウェル・ヒル英語版へと転居した。その後、ホリマンは、音楽、エンターテイメントの制作会社である Aegean の経営にあたった。

    2016年12月にジョージ・マイケルが死去した後、ホリマンは、リッジリー、デマクイールとともにブリット・アワードの追悼の壇上に登った[6]。マイケルの遺産の一部は、親族のほか、ホリマンを含む友人たちに遺された[1]

    2020年10月、ホリマンは、夫マーティン・ケンプとともに、自伝であり、カップル関係についての指南書である『Shirlie and Martin Kemp: It's a Love Story』を出版した。夫妻はこの本について、二人の長く続いている関係について「メディアの関心が高まっている (growing media interest)」ことへの応答として書いたものだと語っている[7]

    脚注 編集

    1. ^ a b ジョージ・マイケル、生前のパートナーに遺産を残していなかったことが明らかに”. NME Japan / BandLab UK (2019年6月5日). 2021年3月19日閲覧。
    2. ^ a b c d e f Shirlie Kemp Interview”. originalmartinkemp.com. 2009年3月2日時点のオリジナルよりアーカイブ。2008年11月15日閲覧。
    3. ^ a b c d e f g Interview with Shirlie Holliman”. yogworld.com. 2008年11月15日閲覧。
    4. ^ Here and Now: The very best of the 80s”. 2015年11月7日閲覧。
    5. ^ Shirlie Holliman - IMDb(英語)[信頼性要検証]
    6. ^ Brit Awards 2017: Wham! stars pay emotional tribute to George Michael”. BBC (2017年2月22日). 2021年3月19日閲覧。
    7. ^ Halliwell, Rachel (December 2020). “Better Together”. Costco Connection (Costco Wholesale UK Ltd) 24 (9): 37. 

    参考文献 編集

    • Kemp, Shirley; Kemp, Martin (2020). Shirlie and Martin Kemp: It's a Love Story. London: Mirror Books. ISBN 978-1913406363