ルートヴィヒ・フェルディナンド・シュノル・フォン・カロルスフェルト

ルートヴィヒ・フェルディナンド・シュノル・フォン・カロルスフェルト(Ludwig Ferdinand Schnorr von Carolsfeld、1788年10月11日1853年4月13日)はドイツの画家である。

ルートヴィヒ・フェルディナンド・
シュノル・フォン・カロルスフェルト

Ludwig Ferdinand
Schnorr von Carolsfeld
シュノル・フォン・カロルスフェルト作「黙示録(Apocalypse)」
生誕 1788年10月11日
プロイセン王国の旗 プロイセン王国
ケーニヒスベルク
死没 1853年4月13日
ドイツ連邦
オーストリア帝国の旗 オーストリア帝国
ウィーン
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略歴

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プロイセンケーニヒスベルク(現在のロシアのカリーニングラード)で生まれた。曽祖父のファイト・シュノル(Veit Hans Schnorr von Carolsfeld:1644–1715)が金属加工の分野で功績をあげて爵位を得た家系で、父親のファイト・シュノル(Veit Hanns Schnorr von Carolsfeld:1764-1841)は画家で、2人の弟、エドゥアルト・シュノル(Eduard Schnorr von Carolsfeld:1790-1819)とユリウス・シュノル(Julius Schnorr von Carolsfeld:1794-1872)も画家になった。

父親から絵を学んだ後、16歳でウィーンに移り、ウィーン美術アカデミーハインリヒ・フリードリヒ・フューガーに学んだ。美術アカデミーで、共に学んでいた学生にはヨハン・フリードリヒ・オーファーベック(1789-1869)がいて、オーファーベックは仲間の学生と聖ルカ兄弟団(「ナザレ派」)を結成し、何人かの学生はアカデミーを中退し、ローマに移ったが、シュノル・フォン・カロルスフェルトはそれに加わらなかった。

ウィーンではロマン派の詩人、ツァハリアス・ヴェルナーや文学者のフリードリヒ・シュレーゲルと緊密に交流をした。

1812年にシレジア出身の女性と結婚した。1818年にウィーン美術アカデミーの校長の地位を得ようと運動したが、ロマン主義の文学者たちとの交際などを、実力者のメッテルニヒがきらい実現しなかった。この後、オーストリア宮廷で不遇な立場にあったヨハン大公の支援を受け、大公の別荘の装飾画を描いた。

1830年代に、スイス、パリやドイツ各地を旅した。ロマン主義絵画が人気を得るようになったことや、ヨハン大公の支援もあって1835年に美術アカデミーの会員に選ばれ、1841年からはベルヴェデーレ宮殿の「オーストリア・ギャラリー」の学芸員を務めた。

弟子にはモーリッツ・フォン・シュヴィントがいる。

作品

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参考文献

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  • Ludwig Ferdinand Schnorr von Carolsfeld. Biographisches Lexikon des Kaiserthums Oesterreich 1876
  • Ulrich Thieme, Felix Becker u. a.: Allgemeines Lexikon der Bildenden Künstler von der Antike bis zur Gegenwart. Band 30, E. A. Seemann, Leipzig 1936, p. 208 f..
  • Franz Schnorr von Carolsfeld (1891), "Schnorr von Carolsfeld, Ludwig", Allgemeine Deutsche Biographie (ADB) (in German), 32, Leipzig: Duncker & Humblot, pp. 189–190
  • Alexander Strasoldo-Graffemberg: Ludwig Ferdinand Schnorr von Carolsfeld (1788–1853). Albert-Ludwigs-Universität, Freiburg (Breisgau) 1986, (Dissertation).
  • Ludwig Ferdinand Schnorr von Carolsfeld in: Ulrich Thieme, Felix Becker u. a.: Allgemeines Lexikon der Bildenden Künstler von der Antike bis zur Gegenwart. Band 30, E. A. Seemann, Leipzig 1936, p. 208 f..