多羅尾光信
多羅尾 光信(たらお みつのぶ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての近江国・山城国の武将。通称は玄蕃で、近江国甲賀郡多羅尾荘の出身とみられる。
時代 | 戦国時代→安土桃山時代 |
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生誕 | 不明 |
死没 | 不明 |
別名 | 玄蕃 |
主君 | 織田信長 |
氏族 | 多羅尾氏 |
父母 | 父:多羅尾綱知、母:三好義継妹(十河一存女)? |
兄弟 | 光信、三好生勝[注釈 1] |
妻 | 池田教正女[2][3][4] |
概要
編集天正7年(1579年)に信貴山城の戦いで敗死した松永久秀が所有していた茶釜の平蜘蛛の破片を回収しており、天正9年(1581年)と推定される11月12日に津田宗及を招いて行った茶会で、父の綱知が使用している[5]。天正9年(1581年)の馬揃えの参加予定者の中には「多羅尾父子三人」とあり、綱知と光信、その三好生勝が参加していたと考えられる[1][4]。
脚注
編集注釈
編集出典
編集参考文献
編集- 天野忠幸『三好一族―戦国最初の「天下人」』中央公論新社〈中公新書〉、2021年。ISBN 978-4-12-102665-1。
- 谷口克広『織田信長家臣人名辞典 第2版』吉川弘文館、2010年。ISBN 978-4-642-01457-1。