マルコ・アピチェラMarco Apicella, 1965年10月7日 - )は、イタリアレーシングドライバー。血液型はO型。エミリア=ロマーニャ州ボローニャ出身。1994年度全日本F3000選手権シリーズチャンピオン。

マルコ・アピチェラ
基本情報
国籍 イタリアの旗 イタリア
出身地 同・ボローニャ
生年月日 (1965-10-07) 1965年10月7日(58歳)
F1での経歴
活動時期 1993
所属チーム '93 ジョーダン
出走回数 1
タイトル 0
優勝回数 0
表彰台(3位以内)回数 0
通算獲得ポイント 0
ポールポジション 0
ファステストラップ 0
初勝利
最終勝利
最終戦 1993年イタリアGP
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経歴 編集

1981年にレーシングカート世界選手権に参戦を開始し、1983年には選手権3位の成績を収めた。翌1984年より3年間はイタリアF3選手権に参戦、アレックス・カフィニコラ・ラリーニと争った。F3最後の年となった1986年にはダラーラのワークスドライバーとしてシリーズ2位を獲得し、1987年からダラーラと共に国際F3000選手権にステップアップ。1988年ファースト・レーシングに移籍し、1989年の国際F3000選手権ではシーズン終盤までジャン・アレジエリック・コマスのチャンピオン争いに絡む活躍を見せた[1]。この年の国際F3000トップランカーはアレジ、エリック・ベルナールをはじめ、アピチェラよりランキングが下であったマーティン・ドネリーJ.J.レートなどもF1シートを獲得する中、アピチェラもF1シートを得るべくアロウズ他、数チームと交渉するもテスト・リザーブドライバーの話までに留まり[2]、継続参戦となった国際F3000では1990年ランキング6位、1991年ランキング5位と上位を獲得し続けたが、延べ5年のフル参戦で表彰台10回登壇(2位7回、3位3回)、ポールポジション2回、ファステストラップ6回の記録を残しながら優勝だけは挙げることができず、F1への道は開かなかった。

日本での活動 編集

1992年より全日本F3000選手権に参戦。1994年には童夢のオリジナルマシンを駆りシリーズチャンピオンを獲得した。全日本F3000がフォーミュラ・ニッポンへと生まれ変わった後も1997年まで参戦した。1999年には母国イタリアのF3000選手権で活動するが、翌年には再び日本へ戻り、全日本GT選手権へ参戦する。

全日本GT選手権へは1997年にスポット参戦した経験があったが、本格的な参戦は2000年からであった。この年はGT300クラスへの参戦となったが、2001年よりJLOCランボルギーニ・ディアブロでGT500に参戦した。しかしワークス体制で挑む日本メーカーのライバルに対してマシン性能で遅れをとっていたため、しばらくは結果を残すことができなかった。2003年よりトムスに移籍し度々速さを見せたが、シリーズ18位となった。2004年は土屋武士とのコンビで参戦し、シリーズ7位を獲得。2005年から再びJLOCに戻り、ランボルギーニ・ムルシエラゴをドライブ。チームの活動方針変更でGT300クラスに移行後もチームに帯同し、2006年の開幕戦で優勝した。

2005年のスーパー耐久では、十勝24時間レースにPERSON'S RACINGよりST3クラスのホンダ・NSXで出場した。独自の1段高いギアでのコーナリングなどにより、チームメイトの他ドライバーと同タイムで走った場合にも、燃費が20%近く良い状態で走行した。レースではスタートドライバーを務め、この低燃費走行によりチームのシミュレーションによる予測(最初の給油まで1時間20分前後)を覆し、1時間40分近くまで引っ張り首位の座を確保してのピットインを実現し、チームのST3クラスでの表彰台獲得に貢献した。

1993年のF1スポット参戦 編集

それまでにも1990年2月のヘレステストでのミナルディ・M189[3]や、エストリルテストでのモデナ・ランボルギーニ291のテストドライブ経験はあったが[4]、 1993年のF1第13戦イタリアGPに、ジョーダン・ハートから遂にF1グランプリ初参戦を果たす。前戦のベルギーGPを最後にティエリー・ブーツェンがF1から引退したため、空席となったジョーダンのセカンドシートを急遽買い取ってのスポット参戦だった。 予選23位グリッドから決勝を迎えたが、スタート直後に多重事故に巻き込まれリタイヤとなり、アピチェラのレースは800メートルで終了することとなった。これはF1決勝レースに1度でも出走した選手の生涯最短周回記録として残っている[5]

現役引退後 編集

レーシングドライバーとしては一線を退いているが、フリーランスのテストドライバーとして2018年にダラーラが開発したスポーツカー、ダラーラ・ストラダーレ[6]の開発ドライバーを務めるなど[7]、2019年現在もテストドライバーとしての活動を継続している。2019年よりスーパーフォーミュラに導入されたダラーラ・SF19の開発ドライバーも担当した[8]。イタリアではStiloレーシングヘルメット社と契約し製品開発・営業・広報活動を行っている[9]

主な戦歴 編集

マカオグランプリ 編集

チーム エンジン 予選 レース1 レース2 総合順位
1985年  アピチェラ・レーシング アルファロメオ 17 7 DNF NC

国際F3000選手権 編集

1987年 - 1991年
  • 最高位 2位(7回)
  • ポールポジション 2回
  • ファステストラップ 6回
  • ランキング最高位 4位(1989年)
チーム 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 順位 ポイント
1987年 ユーロヴェンチュリニ SIL
15
VLL
Ret
SPA
5
PAU
Ret
DON
7
PER
Ret
BRH
DNQ
BIR
13
IMO
13
BUG
15
JAR
17
19位 1
1988年 ファースト・レーシング JER
17
VLL
7
PAU
5
SIL
6
MNZ
2
PER
Ret
BRH
Ret
BIR
Ret
BUG
Ret
ZOL
Ret
DIJ
Ret
11位 9
1989年 SIL
8
VLL
Ret
PAU
2
JER
3
PER
4
BRH
Ret
BIR
2
SPA
3
BUG
Ret
DIJ
Ret
4位 23
1990年 DON
13
SIL
3
PAU
Ret
JER
2
MNZ
5
PER
Ret
HOC
2
BRH
DSQ
BIR
Ret
BUG
Ret
NOG
5
6位 20
1991年 ポール・スチュワート・レーシング VLL
Ret
PAU
4
JER
Ret
MUG
2
PER
2
HOC
Ret
BRH
4
SPA
Ret
BUG
Ret
NOG
11
5位 18

全日本F3000選手権/フォーミュラ・ニッポン 編集

1992年 - 1997年
  • 優勝 5回
  • ポールポジション 3回
  • ファステストラップ 6回
  • 1994年シリーズチャンピオン
チーム 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 順位 ポイント
1989年 伊太利屋 NIKKEI Team Le Mans SUZ FSW MIN SUZ SUG FSW SUZ SUZ
4
16位 3
1992年 株式会社童夢 SUZ
9
FSW
Ret
MIN
6
SUZ
11
AUT
1
SUG
5
FSW
8
FSW
6
SUZ
Ret
FSW
18
FSW
Ret
10位 13
1993年 SUZ
7
FSW
2
MIN
Ret
SUZ
5
AUT
C
SUG
1
FSW
C
FSW
Ret
SUZ
4
FSW
4
SUZ
9
4位 23
1994年 SUZ
2
FSW
4
MIN
1
SUZ
1
SUG
6
FSW
4
SUZ
2
FSW
1
FSW
2
SUZ
Ret
1位 48 (52)
1995年 TEAM 5ZIGEN SUZ
Ret
FSW
C
MIN
Ret
SUZ
8
SUG
Ret
FSW
8
TOK
Ret
FSW
Ret
SUZ
10
NC 0
1996年 SUZ
12
MIN
4
FSW
8
TOK
8
SUZ
14
SUG
13
FSW
12
MIN
Ret
SUZ
10
FSW
Ret
16位 3
1997年 オートテック STELLAR SUZ MIN FSW SUZ
8
SUG
5
FSW
8
MIN
4
TRM
Ret
FSW
6
SUZ
8
12位 6

F1 編集

チーム シャシー 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 順位 ポイント
1993年 ジョーダン 193 RSA BRA EUR SMR ESP MON CAN FRA GBR GER HUN BEL ITA
Ret
POR JPN AUS NC 0

イタリアF3000 編集

1999年
  • 優勝 2回
  • ポールポジション 0回
  • ファステストラップ 0回
  • ランキング最高位 3位(1999年)

ル・マン24時間レース 編集

1995年、1999年、2006年、2007年、2009年
  • 最高位 総合14回(クラス8位)(1995年)
  • ポールポジション 0回
  • ファステストラップ 0回
チーム コ・ドライバー 使用車両 クラス 周回 総合順位 クラス順位
1995年   サード   ジェフ・クロスノフ
  マウロ・マルティニ
トヨタ・スープラ LM GT1 264 14位 8位
1999年   ライリーアンドスコット・ヨーロッパ
  ソリューションF
  カール・ローゼンブラッド
  シェーン・ルイス
ライリーアンドスコット・Mk Ⅲ-フォード LMP 57 DNF DNF
2006年   JLOC   山西康司
  桧井保孝
ランボルギーニ・ムルシエラゴ RG-1 GT1 283 DNF DNF
2007年   余郷敦
  山西康司
ランボルギーニ・ムルシエラゴ RG-1, R-GT GT1 1 DNF DNF
2009年   余郷敦
  山岸大
ランボルギーニ・ムルシエラゴ R-GT GT1 1 DNF DNF

全日本GT選手権/SUPER GT 編集

チーム コ.ドライバー 使用車両 クラス 1 2 3 4 5 6 7 8 9 順位 ポイント
1997年 NISMO   鈴木亜久里 日産・スカイラインGT-R GT500 SUZ FSW
4
SEN FSW MIN SUG 17位 10
2000年 MTCI RACING TEAM   西澤和之 ポルシェ・ボクスター GT300 TRM
11
FSW
Ret
SUG
5
FSW
13
TAI
13
MIN
8
SUZ
9
15位 13
2001年 JLOC   古谷直広 ランボルギーニ・ディアブロ JGT-1 GT500 TAI
DNQ
FSW
Ret
SUG
Ret
FSW
Ret
TRM
15
SUZ
14
MIN
15
NC 0
2002年   和田久 GT500 TAI
DNQ
FSW
Ret
SUG
15
SEP
Ret
FSW
Ret
TRM
18
MIN
Ret
SUZ
Ret
NC 0
2003年 TOYOTA TEAM TOM'S   黒沢琢弥 トヨタ・スープラ GT500 TAI
Ret
FSW
8
SUG
13
FSW
15
FSW
6
TRM
10
AUT
13
SUZ
14
18位 15
2004年   土屋武士 GT500 TAI
7
SUG
7
SEP
10
TOK
4
TRM
5
AUT
7
SUZ
2
7位 43
2005年 JLOC   山西康司 ランボルギーニ・ムルシエラゴ RG-1 GT500 OKA FSW SEP SUG
Ret
TRM
17
NC 0
  WADA-Q GT300 FSW
8
AUT SUZ
Ret
18位 3
2006年   桧井保孝
  古谷直広 (Rd.6)
GT300 SUZ
1
OKA
6
FSW
Ret
SEP SUG
15
SUZ
Ret
TRM
Ret
AUT
8
FSW
5
11位 40
2007年   山西康司 GT300 SUZ
4
OKA
Ret
FSW
2
SEP SUG SUZ TRM AUT FSW
Ret
12位 27
2009年   山西康司
  余郷敦
GT300 OKA SUZ FSW
18
SEP SUG SUZ FSW AUT TRM NC 0

出典 編集

  1. ^ スパF3000レースリポート - オートスポーツ 1989年11月15日号 No.540 59頁
  2. ^ 国際F3000徹底解剖 F1デビューは時間の問題? マルコ・アピチェッラ - Racing On 1989年10月15日号 No.059 50頁
  3. ^ ヘレステストリポート - GPSports F1 '90開幕直前号 10-11頁 笠倉出版社
  4. ^ エストリル合同テスト - 山海堂GPX 1991年カレンダー号 5頁
  5. ^ 現在のF1生涯最小周回数記録は、唯一の出場機会となった1993年イタリアGPを0周で終えたマルコ・アピチェラが持っている - オートスポーツweb 2016.01.25
  6. ^ SPORTS CAR MARKET:THE DALLARA STRADALE IS AN INSTANT CLASSIC TURTLE GARAGE 2018年4月21日
  7. ^ 【独占レポート】ダラーラが放つ”本物のリアルスーパースポーツカー”に初試乗! - モーターファン・2018年5月7日
  8. ^ 「SF19は1コーナーで5Gの負荷がドライバーにかかる」ダラーラ社CEOが明かす、人間の限界に近い高性能フォーミュラカー”. AUTOSPORT.web (2019年4月21日)。
  9. ^ Quand la carrière d'un pilote de F1 ne dura que 800 mètres Motorsport.com 2021年4月8日

外部リンク 編集

タイトル
先代
星野一義
全日本F3000選手権
1994年
次代
鈴木利男