正司歌江

日本の女性漫才師 (1929-2024)

正司 歌江(しょうじ うたえ、本名:平井歌江、1929年昭和4年〉8月13日 - 2024年令和6年〉1月19日)は、日本漫才師であり、漫才トリオかしまし娘の長女である。

しょうじ うたえ
正司 歌江
本名 平井 歌江
生年月日 (1929-08-13) 1929年8月13日
没年月日 (2024-01-19) 2024年1月19日(94歳没)
出生地 日本の旗 日本北海道歌志内市
死没地 日本の旗 日本大阪府
職業 女優漫才師コメディエンヌ
活動期間 1932年 - 2022年
配偶者 既婚
事務所 WAHAHA本舗
主な作品
テレビドラマ
素浪人 花山大吉』、『必殺シリーズ
大江戸捜査網』、『銭形平次』など
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来歴・人物 編集

旅役者だった両親の巡業先・北海道歌志内市で生まれ[1]、3歳で初舞台を踏む。1941年(昭和16年)頃、妹の正司照枝と組んだ姉妹コンビは天才少女漫才と喝采をあびた。1948年(昭和23年)にヒロポン中毒の男と駆け落ちし、照枝との姉妹コンビを解消。父親からも勘当される。その後、長野に逃げたものの再び連れ戻され、名古屋に転居。興行師の手引きで大阪に戻り、一時、難波のキャバレー「パラマウント」に勤めていたが、その興行師の紹介で富山で約10年間芸者として働く[2]1956年(昭和31年)、姉妹の元に戻り、かしまし娘を結成。三味線を担当。1981年にかしまし娘の活動を休止した後は、女優としてテレビドラマやトーク番組、舞台演劇、映画、講演などで活躍している。

かしまし娘休止後は他のプロダクションに所属していたが、2007年(平成19年)に当時の所属事務所のアクターズプロモーションが倒産し、同年6月に松竹社長との会談で21年ぶりに松竹芸能に復帰したが、2009年(平成21年)3月に契約終了。2007年(平成19年)に客演したWAHAHA本舗に、2009年(平成21年)5月1日より正式入団。2009年(平成21年)4月18日、WAHAHAの公演ポスター撮影中に転倒して腰椎を骨折。4月19日から入院し、5月6日に退院。かしまし娘と磯野貴理子らと出演する舞台「やかましい人々」で復帰した。

自身の少女期についてヒロポン中毒のすさんだ生活を回顧しているが[3]、戦後の芸能界ではヒロポンが蔓延しており、ヒロポンを打たなければ芸人ではないというほどだった(1951年以前は使用も販売も合法だった)という。また、そうしたなかで暁伸・ミスハワイミス・ワカサらはどれだけ勧められても敢然と拒否していたと振り返っていた。

なお、鈴鹿8耐に出場経験のある元オートバイレーサーで『欽ちゃんの仮装大賞』などを手がけるプロデューサーの平井秀和は歌江の息子である。

2024年1月19日、老衰のため大阪府の自宅で死去[4][5]。94歳没。最晩年は体調不良となり、約2年前から寝たきりで療養していたという[5]

受賞歴 編集

  • 1996年(平成8年):大阪市文化功労表彰を受賞。
  • 1999年(平成11年):文化庁長官表彰を受賞。

出演 編集

テレビドラマ 編集

映画 編集

CM 編集

著書 編集

  • 女やもン!(二見書房)
  • 正司歌江の地獄極楽かみひとえ(日本放送出版協会)

出典 編集

  1. ^ 木村隆『この母ありて』 青蛙房 2010年 143頁
  2. ^ "正司歌江さん逝去「かしまし娘」が本誌に語っていた"悪い男に騙された"壮絶半生". 女性自身. 光文社. 25 January 2024. 2024年1月25日閲覧
  3. ^ 正司歌江ヤク漬けの10代を衝撃告白 デイリースポーツ 2012年8月17日
  4. ^ 元かしまし娘・正司歌江さんが94歳で死去”. ENCOUNT (2024年1月24日). 2024年1月24日閲覧。
  5. ^ a b “正司歌江さん死去 老衰で94歳 漫才トリオ「かしまし娘」で一時代築く 妹2人が追悼”. スポーツニッポン. (2024年1月24日). https://www.sponichi.co.jp/entertainment/news/2024/01/24/kiji/20240124s00041000322000c.html 2024年1月25日閲覧。 
  6. ^ 「赤めだか」二宮和也らが故・立川談志師匠に撮了報告”. ニュースウォーカー (2015年11月21日). 2015年12月7日閲覧。

関連項目 編集

外部リンク 編集