若菜嘉晴

日本の元プロ野球選手

若菜 嘉晴(わかな よしはる、1953年12月5日 - )は、福岡県八女郡羽犬塚町(現・筑後市)出身の元プロ野球選手捕手)・コーチ解説者評論家

若菜 嘉晴
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 福岡県八女郡羽犬塚町(現・筑後市
生年月日 (1953-12-05) 1953年12月5日(70歳)
身長
体重
185 cm
89 kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 捕手
プロ入り 1971年 ドラフト4位
初出場 1974年4月10日
最終出場 1991年9月29日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴
コーチ歴

愛称は「ナッパ」。

経歴 編集

プロ入りまで 編集

小学6年生まで習っていた書道では全国大会で入選し、文部大臣賞を受賞している。柳川商高では、1970年春季九州大会で福岡県予選南部決勝まで進むが、大濠高に敗退。その後も県予選で敗れ、在学中に甲子園に出場することはなかった。柳川商業から阪神時代までチームメートであった真弓明信とは「ナッパ」、「ジョー」と呼び合うなど、親友として知られる。

ライオンズ(西鉄・太平洋・クラウン)時代 編集

1971年のドラフト4位で西鉄ライオンズに入団。契約金700万円、年俸168万円[1]。上位3名が拒否したため、同年入団選手では若菜が最上位であった[2]

1973年にはライオンズは福岡野球が経営する体制となり当時の中村長芳オーナーが所有していた米国1Aのローダイ・ライオンズに野球留学するなど将来を嘱望されるものの、一軍にはなかなか定着できなかった。ローダイ在籍時のチームメイトに、のちヤクルトスワローズでプレーするラリー・ハーローがいた。

1974年には貧血のため1ヵ月ほど入院し、退院後は和田博実二軍監督が彼の青白い顔とやせ細った体を「しょぼくれた菜っぱみたい」と評したことから、「ナッパ」と愛称を付けられる[3]1975年の秋には戦力構想から外れかけていたが、巨人とのオープン戦で相手の長嶋茂雄監督が評価したことで契約更新につながったという[4]

エースの東尾修にはノーサインで投げてもらって組み立ての基礎を学ぶ[5]

1977年には西沢正次楠城徹らを抑え捕手の定位置を確保する。同年のオールスターにも初出場し、7月23日の第1戦(平和台)では7回裏に鈴木孝政からソロ本塁打を放つ。同年は規定打席には届かなかったが、打率.292と活躍。

1978年も正捕手として活躍するが、打撃面で低迷。

1979年田淵幸一古沢憲司との大型トレードで、真弓・竹之内雅史竹田和史と共に阪神タイガースへ移籍した。

阪神時代 編集

阪神では、移籍1年目の小林繁とバッテリーを組み、小林とは普段も一緒で「王さんには上げた右ヒザを狙ってスライダーを投げよう」と話したこともあった[5]。強肩の捕手であったが、移籍1年目の同年は1960年野村克也と日本タイ記録となるシーズン17個のパスボールを喫した。そのうちの14個が江本孟紀の投じたエモボールであり[6]、スパイ対策のためにノーサインで江本の球を受けたことによるものである[7][8]

同年はキャリア唯一のダイヤモンドグラブ賞も受賞し、打撃面でも初の規定打席到達で打率.303(リーグ10位)を記録するなど阪神の主力選手となり、オールスター4年連続出場(1979年 - 1982年)も果たす。しかし移籍4年目の1982年には、女優の白川和子との不倫交際が取り沙汰され、首脳陣と衝突して出場機会が減り、オフに自由契約となり退団した。

阪神退団後は渡米し、当時阪神と友好関係にあったメッツ傘下3Aのタイドウォーター・タイズに加入するが、監督を務める元巨人のデービー・ジョンソンから若手育成のためコーチを任され[4]1983年シーズン途中まで務めた。

大洋時代 編集

1983年シーズン途中に帰国し、6月末に関根潤三監督率いる横浜大洋ホエールズに入団。当時の大洋は辻恭彦加藤俊夫福嶋久晃などを併用していたが、それら3捕手の高齢化が進んでおり、さらには辻が骨折で離脱するなどの状況で若返りを図る意味から獲得に踏み切った。3A時代の監督であるジョンソンと関根は巨人時代にコーチと選手として同僚であったことも入団の契機となった[4]

1985年には自身唯一の全試合出場するなど、近藤貞雄新監督となった横浜大洋でも正捕手として活躍した。同年、3年ぶりの出場となったオールスターでは7月21日の第2戦(川崎)では2回表に佐藤義則から先制2ラン本塁打を放ち、山内一弘に続いて史上2人目の両リーグ本塁打を達成している。

1986年には打率.288(リーグ11位)の好記録を残す。

実用英語技能検定1級を所持し、アメリカでコーチをするなどの語学力を活かして、大洋時代は巨人のレジー・スミスウォーレン・クロマティをよく挑発していた。スミスに対しては「顔面スレスレのビーンボールを多用する」→「激怒したスミスが若菜に砂を掛ける」→「その報復としてさらにビーンボールが多用される」といった悪循環もあったが、1980年代後半にはクロマティとの駆け引きで有名になり、バッターボックスで口論になっていた。遠藤一彦がクロマティを三振にとってチェンジになる際、遠藤と若菜は2人で頭を人差し指で指し"頭脳の差"というアピールをし、クロマティの怒りを誘っていたが、「犬猿の仲」というわけではなく、OBオールスター戦で若菜とクロマティが同じチームでプレイすることもよくあった。

1987年8月4日の巨人戦(横浜)では、ホームに返球されてきたボールがバウンドして、うまい具合に若菜の左脇に挟まり、そのまま捕球した体勢でランナー・中畑清とクロスプレーとなり、あたかもタッチしたと見せ掛けたプレーで刺殺を取った。この「若菜の空タッチ」はフジテレビプロ野球珍プレー・好プレー大賞」で採り上げられ、曲者の若菜を象徴するプレーである[9]

同年に古葉竹識新監督が就任して以降は出番が減少[5]

1988年オフにはついに不満が爆発。公然と球団批判を展開していたという情報があり[10]、今回は首脳陣との衝突にとどまらず、チームメートをも揶揄[5]

1989年1月5日に謝罪文を提出して一旦決着も、シーズン開幕後、前述の近藤新監督に誘われ、無償トレード日本ハムファイターズへ移籍した[5][11]

日本ハム時代 編集

近藤監督は若菜を「チャンスに強い打撃。チームの雰囲気をガラっと変えるキャラクター。田村(藤夫)は超一流のキャッチャーだが、年齢の事を差し置いても、若菜は一流のキャッチャー」[12]と評した。

リーグを代表する捕手だった田村藤夫の控え捕手としての在籍だったが、移籍2年目の1990年には首脳陣に「酒井光次郎をモノにしてくれ」と頼まれ、左腕でカーブがいい酒井を大洋時代の新浦壽夫への組み立てを思い出してリードし、酒井は10勝を挙げ、新人王を争った[5]

1991年シーズン終了後に現役を引退した。

引退後 編集

引退と同時に吉本興業とマネジメント契約[13]し、ラジオ関西ゴールデンナイター」解説者(1992年 - 1996年)として活動。解説業の傍ら、1992年にはボクシングのトレーナー免許を取得し、大阪市淀川区のアポロジム[14]で指導に当たった[15]

1997年からは福岡ソフトバンクホークスの前身のダイエーホークス一軍バッテリーコーチに就任し、同時に吉本興業とのマネジメント契約とラジオ関西との解説者契約を解消。コーチ時代はロッテを経てFAで加入した田村と共に若手の城島健司を指導し[5]、城島を二人三脚で育てたことで知られる[16]

なかなか捕手としての技能が向上しない城島を巡って王貞治監督とたびたび衝突し、就任1年目の1997年のオールスター期間中、王から城島のリードや捕球のまずさを叱責され、王は一塁手三塁手へのコンバートを示唆した。若菜は反論したが、球団に辞任を申し出たこともある。若菜は東京の自宅に戻っていた王に電話を入れたところ、電話に出た王夫人はあえて王と代わらずに「主人から話は聞いています。お仕事に口を挟むようで申し訳ないのですが、今、あなたと主人との板ばさみになって困るのは城島君ではないでしょうか。お電話のことは主人に私からお伝えしておくので、もう一度考えてみてください」と上手くとりなした。王にも若菜が謝罪していると伝え、これにより両者は和解することができ、城島もコンバートせずに捕手として成長していった。事の真相を若菜が夫人から聞かされたのは、ホークスが福岡移転後初優勝した1999年のハワイへの優勝旅行の時だったという[17]

2年連続リーグ優勝と1999年の日本一を貢献したが、2001年9月30日近鉄戦(福岡D[注 1]前のバッテリーミーティングで、王のシーズン本塁打記録55本に並んでいたタフィ・ローズに対し「近鉄に優勝されるわ、監督の記録は抜かれるわじゃ申し訳が立たない。外国人に抜かれるのは嫌だ。王さんは記録に残らなければならない人。ローズに積極的になるな」と発言したと報道された事が物議を醸した(後述)[18][19][注 2]。なお、ローズはこの日新記録達成のため「1打席でも可能性は多い方がいい」という梨田昌孝監督からの計らいで、この日はいつもの打順である3番ではなく1番スタメンで出場したが、結果的にホークスバッテリーはローズに対して全18球中僅か2球だけしかストライクを投じず[注 3]まともに勝負をする事は無かった(試合自体は近鉄が12-4で勝利)[18][19]。この件に関して10月1日にはNPBコミッショナーがフェアプレーを求める異例の声明を発表し、さらに翌2日にはパ・リーグ会長がこの件でホークスに厳重注意処分とした[20]。若菜自身は同年シーズン限りでコーチを退任した。

プロ野球マスターズリーグ福岡ドンタクズ内野手として参加した。 2002年から2007年までをTVQ九州放送野球解説者、2009年からは福岡放送野球解説者となる。また、ホークス球団制作中継(J SPORTS日テレプラスFOXスポーツ&エンターテイメントスポーツライブ+)にも解説を行うほか、FBSの『めんたいワイド』や『バリはやッ!ZIP!』にもコメンテーターとして出演し、2003年よりスポーツニッポン西部本社→東京本社西部総局評論家も務めている。日本ハムOBということもあり、2007年には1年だけSTVラジオ野球解説者も務めた。

2020年10月より池田親興のYouTubeチャンネル「池田親興のちかチャンネル!」に池田の相方役として登場している。

人物 編集

上述の通り、2001年9月30日の対近鉄戦にて、王のシーズン本塁打記録55本に並んでいたローズに対して露骨な敬遠策を指示したとされているが、後年のインタビューによると若菜は「ある記者に『個人的な考えとしては、子供たちの目標になるとすれば、どうせ抜くのなら日本人選手がいい』と言ったことがいろんな方向で大きくなっただけ」と述懐しており、加えて「そもそも一コーチが『歩かせろ』なんて指示は出せませんよ。決定権は監督にしかない。あとはバッテリー。結局どういう考えだったのか、あのバッテリーでないとわからないですよ。ただ、雰囲気としてはあったと言えます。周りが何となくわかっていたと思いますよ。気を遣わないほうがおかしいでしょ」と敬遠の指示は明確に否定しつつも、「方向性」の存在は感じたという旨を述べている[21]。また、若菜によれば自身以外にも「満塁でローズだったらどうしたらいい?」と聞くと「それでも勝負しないほうがいい」と言うコーチもいた他、この日先発として登板した田之上慶三郎には最高勝率のタイトルがかかっていた[注 4]という事もあり、簡単に「打たれる覚悟で勝負しろ」とは言えない状況だったという[21]

なお、この騒動から約12年後の2013年シーズンに注目された、当時東京ヤクルトスワローズに在籍していたウラディミール・バレンティンのシーズン最多本塁打記録更新の話題に関しては「(記録を)抜いてほしいと思ってるよ。今回は誰も気を遣う場面はないもん。早く王さんの呪縛を取ってもらわないと。もう50年もたってるんだから、破られないほうがおかしいでしょう。どこかで終止符を打たないと、ずっと言われるから」と寛容な姿勢を示していた[21]。その後、バレンティンは2013年9月15日の対阪神タイガース戦(神宮)において日本プロ野球シーズン本塁打新記録となる56号を放ち、見事記録を更新した(最終的には日本プロ野球史上初のシーズン本塁打60本台を記録している[22])。

詳細情報 編集

年度別打撃成績 編集

















































O
P
S
1974 太平洋
クラウン
6 5 5 2 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 .000 .000 .000 .000
1975 12 4 4 0 0 0 0 0 0 0 0 1 0 0 0 0 0 0 0 .000 .000 .000 .000
1976 39 79 71 6 17 1 0 1 21 5 1 1 1 0 6 0 1 9 3 .239 .308 .296 .604
1977 103 340 318 29 93 10 1 4 117 29 1 8 6 1 10 0 5 29 7 .292 .323 .368 .691
1978 108 288 267 25 57 5 0 4 74 21 1 5 4 6 9 0 2 46 14 .213 .239 .277 .516
1979 阪神 112 422 386 38 117 10 1 9 156 42 8 5 1 3 32 8 0 37 10 .303 .354 .404 .758
1980 126 481 441 34 113 12 2 4 141 32 2 4 12 1 26 5 1 42 21 .256 .299 .320 .619
1981 115 403 360 24 101 13 2 3 127 32 4 2 15 1 27 20 0 23 12 .281 .330 .353 .683
1982 73 229 211 14 45 5 1 3 61 21 3 1 3 2 12 2 1 24 6 .213 .257 .289 .546
1983 大洋 28 71 60 5 21 8 0 0 29 2 0 0 2 0 9 3 0 6 1 .350 .435 .483 .918
1984 99 306 292 26 79 6 0 8 109 25 2 2 2 2 9 1 1 45 13 .271 .293 .373 .666
1985 130 434 403 28 108 9 2 7 142 44 1 2 11 3 16 7 1 34 20 .268 .296 .352 .648
1986 122 404 372 29 107 14 1 4 135 29 3 5 8 1 22 13 1 41 10 .288 .328 .363 .691
1987 81 255 229 23 69 12 1 4 95 27 1 0 5 1 20 10 0 23 9 .301 .356 .415 .771
1988 74 173 156 13 37 5 1 1 47 8 0 0 1 0 16 8 0 12 5 .237 .308 .301 .609
1989 日本ハム 55 90 84 6 21 2 3 1 32 9 0 2 2 0 3 0 1 7 3 .250 .284 .381 .665
1990 63 147 138 6 33 4 1 1 42 11 0 1 0 0 7 0 2 16 3 .239 .286 .304 .590
1991 41 84 81 0 19 1 0 0 20 3 0 0 2 0 1 0 0 5 0 .235 .244 .247 .491
通算:18年 1387 4215 3878 308 1037 117 16 54 1348 340 27 39 75 21 225 77 16 399 137 .267 .309 .348 .657
  • 各年度の太字はリーグ最高
  • 太平洋(太平洋クラブライオンズ)は、1977年にクラウン(クラウンライターライオンズ)に球団名を変更

表彰 編集

記録 編集

初記録
節目の記録
その他の記録
  • 年間最多捕逸:1979年=17個 ※1960年の野村克也とタイ記録
  • 1試合5三振:1979年5月29日、横浜大洋ホエールズ6回戦(宮城球場) ※史上初
  • オールスターゲーム出場:5回(1977年、1979年 - 1982年、1985年)- 山内一弘に続いて史上2人目のセ・パ両リーグ本塁打を記録している。[要出典]

背番号 編集

  • 44 (1972年)
  • 39 (1974年 - 1982年)
  • 9 (1983年途中 - 1986年)
  • 22 (1987年 - 1988年)
  • 99 (1989年 - 1991年)
  • 84 (1997年 - 2001年)

関連情報 編集

出演番組 編集

現在 編集

過去 編集

著書 編集

  • プロ野球が危ない-絶叫メッタ斬り!!(学習研究社、1992年4月)

注釈 編集

  1. ^ 近鉄とはこの年のシーズン最終戦であった。
  2. ^ 因みに記録の当事者である王は試合前にローズへ「60本打てよ」と笑顔で激励しており、寧ろ記録更新に対しては前向きな姿勢を示していた。また前述のミーティングに王は参加していなかった。
  3. ^ この日のローズの総合成績は2打数0安打2四球(第1打席・2打席目は四球、第3打席目は遊飛、第4打席目は二ゴロ)だった。
  4. ^ 最終的に田之上は勝率.650を記録してこの年のパ・リーグ最高勝率を記録した(ただし、1973年から2001年まではセ・パ両リーグ共に「最高勝率」はタイトルとしての表彰からは外れているため、公式記録上の「最高勝率投手」として選出されたのみである)。

脚注 編集

  1. ^ 大卒で4万円の時代に!!若菜さんがもらった契約金は? - YouTube
  2. ^ 1軍と2軍の格差は昔は酷かった! - YouTube
  3. ^ 『ベースボールアルバムNo.15 若菜嘉晴』(恒文社、1980年)
  4. ^ a b c 週刊ベースボールONLINE 逆転野球人生 阪神を追われ29歳で米3A日本人初のコーチ就任後、大洋で電撃復帰…流浪の生涯一捕手・若菜嘉晴【逆転野球人生】
  5. ^ a b c d e f g 週刊ベースボールONLINE|野球コラム 若菜嘉晴 筋金入りの気の強さを誇る強肩強打の捕手/プロ野球1980年代の名選手
  6. ^ [主婦の友社編集、読む野球−9回勝負−No.7_82頁]
  7. ^ 『プロ野球「最強捕手」伝説』(洋泉社、2009年)p.88
  8. ^ 【プロ野球OBに会いに行く】キャッチャー目線から見た「江夏の21球」若菜さんが解説!【未公開動画】【若菜嘉晴】【高橋慶彦】【プロ野球OB】 - YouTube
  9. ^ 【プロ野球OBに会いに行く】伝説の珍プレー「空タッチ」若菜さん本人が解説【若菜嘉晴】【高橋慶彦】 - YouTube
  10. ^ 週刊ベースボール別冊PART5 1989年編(2020年3月31日刊)68頁
  11. ^ 小久保無償トレード、工藤退団、ダイエー時代の闇とは? - YouTube
  12. ^ セ・パ誕生70年記念特別企画】よみがえる1980年代のプロ野球 Part.5 [1989年編] (週刊ベースボール別冊南風号)、2020年、88頁
  13. ^ 日刊ゲンダイ 2013年11月9日発行号
  14. ^ アポロジム
  15. ^ 日外アソシエーツ「スポーツ人名事典 新訂第3版」、2002年1月1日ISBN 4816917012、p708。
  16. ^ 【根本陸夫伝】主力を放出してまで田淵幸一の獲得にこだわった男 2015.09.02、スポーツナビ
  17. ^ 斉藤直隆著『プロ野球 最後のサムライ』(コアマガジン、2005年)ISBN 9784877348199
  18. ^ a b “日めくりプロ野球 9月【9月30日】2001年(平13)“バースの悲劇”再び…ローズ、苛立ちの2打数無安打2四球”. Sponichi Annex. (2008年9月28日). https://www.sponichi.co.jp/baseball/yomimono/professional_bbd0709/kiji/K20080928Z00002590.html 2020年9月21日閲覧。 
  19. ^ a b “プロ野球デキゴトロジー/9月30日 55本塁打タフィ・ローズとホークスバッテリーは勝負せず【2001年9月30日”. 週刊ベースボールONLINE. (2017年9月30日). http://column.sp.baseball.findfriends.jp/?pid=column_detail&id=097-20170930-11 2020年9月21日閲覧。 
  20. ^ ベースボールマガジン社刊「日本プロ野球事件史1934-2013」104ページ
  21. ^ a b c “今だから明かす“記録阻止”の闇真実(2)ローズ「やっぱり俺は外国人なんだ」と思い知った”. Asagei+. (2013年9月17日). https://www.asagei.com/excerpt/15634 2020年9月21日閲覧。 
  22. ^ バレンティン60号本塁打!ついに大台 ルースに並んだ!宮本引退に花 スポーツニッポン 2013年10月4日配信

関連項目 編集

外部リンク 編集