藤原 貞敏(ふじわら の さだとし)は、平安時代初期から前期にかけての貴族藤原京家刑部卿藤原継彦の六男。官位従五位上掃部頭

 
藤原 貞敏
藤原貞敏(菊池容斎前賢故実』)
時代 平安時代初期 - 前期
生誕 大同2年(807年
死没 貞観9年10月4日867年11月3日
官位 従五位上掃部頭
主君 仁明天皇文徳天皇清和天皇
氏族 藤原京家
父母 父:藤原継彦
兄弟 広敏、清敏、雄敏貞敏
劉二郎の娘[要出典]
良春、晨省
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経歴 編集

承和2年(835年美作掾遣唐准判官に任ぜられる(この時の位階従六位下)。二度の渡航失敗を経て、承和5年(838年)入唐し長安に赴く。『日本三代実録』の貞敏の薨伝によれば、貞敏は劉二郎という琵琶の名人に教えを請うために砂金200両を贈った。劉二郎は「往来を行うのが貴い礼であり、請うなら、伝えよう」と言って、すぐに3調の琵琶を授けると、貞敏は2,3ヶ月の間に妙曲を習得してしまった。劉二郎はさらに数十曲の楽譜を贈って、「師匠は誰か、既に日本で妙曲を学んできたのか」と問うたところ、貞敏は「(音楽は)累代の家風で、特に師匠はいない」ことを答えた。劉二郎は感心して、自らの娘(劉娘)を貞敏に娶らせるが、劉娘はに優れ、貞敏はさらに新曲を数曲学んだという。承和6年(839年)貞敏の帰国にあたって、劉二郎は送別の宴を開き紫檀と紫藤の琵琶各1面ずつを贈ったという。これに対して、『琵琶譜』(伏見宮本)に記された貞敏の跋文とされる文章には貞敏は揚州の州衙から派遣された廉承武という人物から揚州の開元寺にて教えを受けたと記されている。これに対して、承和の遣唐使は唐の政情不安を理由に代表者34名のみが長安に入り、残りの大半は寄港地の揚州に留まっていたことから、『日本三代実録』の記事に誤りがあって『琵琶譜』の方が事実関係を伝えていると考えられている[1][2]

上記のように、承和6年(839年)8月に貞敏は琵琶の名器「玄象」「青山」(ともに仁明天皇の御物)及び「賀殿」[3]など琵琶曲の楽譜を携えて日本に帰国する。なお、一説では貞敏は唐で結婚した妻を連れて帰国し、妻は日本に箏を伝えたともいう[3]。9月に渡唐の功労により正六位上に叙せられ、10月には仁明天皇臨席の元で紫宸殿で開催された宴において琵琶の演奏を披露している[4]

帰国後、承和7年(840年三河介、承和8年(842年主殿助次いで雅楽助を経て、承和9年(842年従五位下叙爵する。承和14年(847年)雅楽頭に昇格すると、仁明朝末から文徳朝にかけてこれを務めた。またこの間、斉衡3年(856年)に東大寺正倉院で行われた曝涼の作業を司る曝涼使に任じられたが、これは正倉院に収められた古い楽器の調査も兼ねていたと推定される[5]。翌4年(857年)従五位上に昇叙している。

文徳朝末の天安2年(858年)掃部頭に転じ、清和朝でも引き続きこれを務めている。貞観9年(867年)10月4日卒去享年61。最終官位は従五位上行掃部頭[6]

人物 編集

若い頃から音楽を非常に愛好し、好んでを学んだが、琵琶が最も優れていた。他に才芸はなかったが、琵琶の演奏をもって三代(仁明・文徳清和)の天皇に仕えた。特別な寵遇を受けることはなかったが、その名声は高かった[7]。また、多くの琵琶の秘曲を日本にもたらしたことから、琵琶の祖とされる[8]

官歴 編集

六国史』による。

系譜 編集

尊卑分脈』による。

  • 父:藤原継彦
  • 母:不詳
  • 生母不詳の子女
    • 男子:藤原良春
    • 男子:藤原晨省

脚注 編集

  1. ^ 佐藤辰雄「貞敏の琵琶曲伝習をめぐって」(法政大学国文学会『日本文学誌要』32(1985年))および「廉承武伝承の考察」(法政大学国文学会『日本文学誌要』34、1986年)
  2. ^ 豊永[2006: 225-227,259]
  3. ^ a b 教訓抄
  4. ^ 『続日本後紀』承和6年10月1日条
  5. ^ 豊永[2006 :229]
  6. ^ 『尊卑分脈』には「従四位上治部卿」にて没したとあるが、治部卿任命の事実は確認できない。ただし、『文机談』には清和天皇に曲を伝授する際に四位への叙位と昇殿が許されたと記されている(豊永、2006年、P228)
  7. ^ 日本三代実録』貞観9年10月4日条
  8. ^ 尊卑分脈

出典 編集