長谷川 治(はせがわ おさむ、1916年6月9日 - 1993年5月10日)は、和歌山県出身のプロ野球選手、高校野球監督。ポジションは投手

長谷川 治
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 和歌山県
生年月日 (1916-06-09) 1916年6月9日
没年月日 (1993-05-10) 1993年5月10日(76歳没)
身長
体重
170 cm
60 kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 投手
プロ入り 1946年
初出場 1946年
最終出場 1946年
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)

来歴・人物 編集

1916年、現在の奈良県五條市に生まれ[1]、海南中学(現・和歌山県立海南高等学校)在学中には、甲子園に4回出場[2]1933年春1934年春1934年夏1935年春)。エースとして、チームのベスト4・1回(1934年春)、ベスト8・2回(1933年春,1934年夏)の好成績に貢献した。中でも、1934年夏の2回戦では、強豪の神戸一中(現・兵庫県立神戸高等学校)相手にノーヒットノーランを達成し、一躍注目の的となった。中学時代のチームメイトに、磯野政次(のち東京セネタース)、栗生信夫中田道信(共にのち南海ホークス)がいる。中学卒業後は、明治大学や大連実業団でプレーし、大連実業団では1940年の都市対抗野球で準優勝に貢献した。

終戦後の1946年グレートリングの結成に参加。しかし、既に30歳近い年齢だったため、殆ど活躍する事は出来ず、同年末に退団。翌1947年国民野球連盟の宇高レッドソックス(後に熊谷レッドソックス)でプレーし、その後は社会人野球日本通運で現役生活を終えた[3]

その後、新制高校野球に携わり、1949年に母校の監督として第21回選抜高等学校野球大会第31回全国高等学校野球選手権大会に出場を果たすが、ともに初戦敗退し、この年限りで監督を退いた。1955年和歌山県立日高高校の監督に就任[3]、同校を1956年第28回選抜高等学校野球大会初出場に導き、自身監督として甲子園初勝利を上げた。1965年市立和歌山商業高校(現・和歌山市立和歌山高等学校)の監督に就任し、同年春の甲子園で準優勝を果たした(決勝で、平松政次を擁する岡山東商に延長13回、1-2でサヨナラ負けした[4])。市立和歌山商監督時代の教え子に、藤田平野上俊夫阪田隆正田耕三らがいる。藤田は長谷川を恩師と慕い、当時を振り返って「徹底的に基本を叩き込まれたお陰」と感謝している[5][6]

和歌山県立那賀高校の監督として横田久則を育てたが、1993年5月10日、オートバイを運転中、乗用車に接触され交通事故死した[7]。享年76。

詳細情報 編集

年度別投手成績 編集





















































W
H
I
P
1946 グレートリング 4 0 0 0 0 0 0 -- -- ---- 43 9.0 12 1 2 -- 0 3 0 0 9 8 8.00 1.56
通算:1年 4 0 0 0 0 0 0 -- -- ---- 43 9.0 12 1 2 -- 0 3 0 0 9 8 8.00 1.56

年度別打撃成績 編集

















































O
P
S
1946 グレートリング 9 4 4 3 1 0 0 0 1 0 0 0 0 -- 0 -- 0 1 -- .250 .250 .250 .500
通算:1年 9 4 4 3 1 0 0 0 1 0 0 0 0 -- 0 -- 0 1 -- .250 .250 .250 .500

背番号 編集

  • 13 (1946年)
  • 25 (1947年。宇高・熊谷レッドソックス)

脚注 編集

  1. ^ 甲子園高校野球人名事典230P、森岡浩、東京堂出版、2004年、ISBN 978-4490106503
  2. ^ シリーズにっぽんの高校野球vol.11近畿編79P、ベースボール・マガジン社、2009年、ISBN 978-4583616131
  3. ^ a b 監督列伝(近畿編)・LaBOLAのブログ(2010年2月21日記事)
  4. ^ 『週刊ベースボール』ベースボール・マガジン社、2003年2月17日、153頁。 
  5. ^ 猛虎人国記(64)~和歌山県(上)~美酒知らず、苦闘支えた2千安打 藤田平スポーツニッポン、2012年3月27日記事
  6. ^ 第91回全国高等学校野球選手権・和歌山大会特集ニュース和歌山、2009年7月11日記事
  7. ^ 報知高校野球1993年9月号169P

関連項目 編集

外部リンク 編集