関氏(せきし、旧字体:關氏)は、日本氏族のひとつ。いくつかの血流がある。

  1. 伊勢国豪族で桓武平氏の平姓関氏。
  2. 藤原北家藤原秀郷を祖とする常陸国藤姓関氏。
  3. 美濃国を根拠地とする美濃関氏(清和源氏または藤原北家秀郷流)


平姓関氏 編集

関氏
(桓武平氏)
 
揚羽蝶あげはちょう
本姓 桓武平氏兼忠流または維衡流
家祖 平信兼または関実忠
種別 武家
出身地 伊勢国鈴鹿郡関谷
主な根拠地 伊勢国鈴鹿郡関谷
近江国蒲生郡中山陣屋
著名な人物 関盛信
関一政
関盛吉
関盛有
加太邦憲(鹿伏兎氏の末裔)
支流、分家 神戸氏武家
鹿伏兎氏(武家)
凡例 / Category:日本の氏族

伊勢国鈴鹿郡を本拠とした豪族。出自には諸説あり、常陸平氏大掾氏の一族平兼忠5世の孫関信兼(出羽守)をもって祖とする説[要出典]がある。実際は『吾妻鏡』による伊勢平氏維衡末裔とされる鎌倉時代得宗被官である関実忠伊勢国鈴鹿郡関谷を賜り、関氏を称したのが初代と伝わり[要出典]、実忠以降の数代の事跡は明らかでない。

北条氏滅亡後、元弘3年(1333年)に実忠6世の孫盛政が関東から関谷に移り住み、関一党の基礎を築いた。盛政には五人の子があり、長男・盛澄を神戸に(神戸氏の祖)、次男・盛門を国府(こう)城に、三男・盛繁本家を継がせ亀山城に、四男・盛宗を鹿伏兎(かぶと)城に、五男・政実を峯城に、それぞれ配して勢力を伸ばした。

延元2年(1337年)、陸奥にあった北畠顕家義良親王を奉じて西上したとき、これに従い、伊勢では北朝方の有力豪族長野氏雲出川に構えた高師泰の軍と戦ったという。

室町時代幕府の支配に帰服するが、伊勢国司北畠満雅皇位継承における問題で、大覚寺統持明院統両統が交互に皇位を継承する取り決めを北朝・幕府が反故にしているとの不満から挙兵すると、関氏も北畠家の求めにより幕府軍と戦って降伏した。

戦国時代の動乱期には、中・北勢地方にまで勢力を伸ばしていた。しかし、織田信長が次期将軍として足利義昭を奉じて西上してくると、関一党は次々と信長に降り、離散した。

関盛信の子である一政豊臣家重臣・蒲生氏郷麾下きかとなり、豊臣秀吉九州征伐小田原征伐に出陣するなど、家名存続のため豊臣家の命を受けて転戦した。やがて氏郷が会津転封になると、一政もそれに従って陸奥に赴き、白河5万石を与えられた。

関ヶ原の戦いでは、はじめ西軍、のち東軍に属し、戦後旧領亀山城を与えられた。その後伯耆黒坂5万石に移封されたが、家中内紛のため元和4年(1618年改易された。養子・氏盛関盛吉の子)が近江国蒲生郡において5,000石を与えられて寄合に列した。

子孫 編集

氏盛の跡は子の長盛が継ぎ、子孫は代々中山陣屋滋賀県蒲生郡日野町中山)に拠って家名を伝えた。明和7年(1770年)には盛有金剛定寺火災からの復興支援を行っている。その後関氏は大名に復帰することなく明治維新を迎えた。

系譜 編集

藤姓関氏 編集

関氏
(藤原氏)
 
本姓 藤原北家秀郷流結城氏
家祖 関朝泰
種別 武家
出身地 不詳
主な根拠地 常陸国
凡例 / Category:日本の氏族

鎮守府将軍藤原秀郷の血を引く名門結城氏の一族にあたる。結城家2代当主である結城朝広の四男・朝泰が関氏を称した。その居城である関城南北朝時代の初期に北畠親房が拠点とするなど、常陸国における南朝方の中心となった城である。興国4年(1343年)、関城主であった関宗祐宗政親子は高師冬の大軍に攻められて討死し、親房は吉野に戻っている。

美濃関氏 編集

  1. 摂津源氏流、或いは藤原北家秀郷流藤原氏
  2. 河内源氏流(1.関氏の後身。森氏より養子をとり、その庶族となる)
美濃関氏
美濃関氏
 
鳳凰の丸ほうおう の まる
本姓 清和源氏摂津源氏山県氏
藤原北家秀郷流佐野氏
清和源氏(河内源氏森氏
家祖 関氏昌(源氏説)
関長綱(藤原氏説)
種別 武家
華族子爵
出身地 美濃国武儀郡関村
主な根拠地 美濃国
美作国
東京府
著名な人物 関成政 など
凡例 / Category:日本の氏族

出自 編集

  • 源氏説

摂津源氏山県氏族。家祖は山県氏頼兵庫)頭の三男氏昌(彦三郎)。その8世孫長重(十郎右衛門尉)は織田信長に仕え、近江桜馬場の陣や、対浅井戦で武功を飾ったという。これにより尾張一宮城主となり晴れて城持ちへと昇進した。

  • 藤原氏説

藤原北家佐野氏族。その後裔の佐野師綱美濃国武儀郡に一時的に居住していた時に生まれた子である十郎太郎長綱を家祖と位置づける。長綱の子である小十郎土岐頼遠に仕えたといい、以後土岐家臣として美濃に土着。その後裔である綱長の代に土岐頼芸が没落した為に斎藤道三に仕え、その子である長重の代に斎藤氏から織田信長に仕えた。

源氏とする説は『尊卑分脈』。藤原氏とする説は『美濃国諸家系図』に詳しいがどちらが真実を伝えたものかは定かではない。しかしながらどちらも美濃国武儀郡関村を根拠地とする点では共通している。また、この美濃関氏は一宮の真清田神社神官輩出しており、一宮の地とは縁深い。

戦国時代・織豊時代 編集

長重の子である成政織田信忠付きの家臣として活躍し、元亀3年(1572年)に同じ織田家臣兼山城主・森可成結婚し森家と血縁関係を持った。

義弟である森長可与力として働き、長島一向一揆三木合戦甲州征伐などに参加。また、この成政の代に一宮から美濃鴻野城主に領替えになったともいわれる。小牧・長久手の戦いの際にも長可に味方したが仏ケ根の戦いの際に長可ともども討ち死にしている。

江戸時代 編集

長可亡き後は弟の忠政がその跡を継ぎ、関家は森家の家臣筋となったが、忠政の跡は関成次室の生んだ長継を養子として据え、長継は二代津山藩主となった。一方、関家は長継実弟の長政が継ぎ、万治2年(1659年)に兄長継から美作国のうち1万8700石を分与された[1]宮川藩)。長政には後継がいなかった為、・長継の六男長治養子にして関家の名跡を継がせている[1]

元禄10年(1697年)に宗家森家の津山藩18万6500石が改易となった影響で関長治は元禄11年(1698年)に備中国新見藩に転封された[1]。以降廃藩置県まで同地に在封した[2]

明治時代以降 編集

最後の新見藩主長克は、明治2年1869年)6月22日に版籍奉還で新見藩知事に任じられ、明治4年1871年)7月14日の廃藩置県まで務めた[2]

明治2年(1869年)6月17日の行政官達で公家大名家が統合されて華族制度が誕生すると関家も大名として華族に列した[3][4]1884年明治17年)7月7日の華族令の施行で華族が五爵制になると、同月8日に旧・小藩知事[注釈 1]として万里小路伯爵家からの養子博直子爵に列せられた[6][7]。博直は貴族院の子爵議員に当選して務めた[8]

長博の代に関子爵家の邸宅は東京市中野区高根町にあった[7]

美濃関氏系譜 編集

  • 太線は実子、細線は養子。
源氏流系図
山県氏頼国政
   ┃
(四代略)
   ┃
  国兼氏頼関氏昌
   ┃
(六代略)
  ┃
  成重
  ┣━━┓
  成政 長尚
  ┃
  成次
  ┣━━━━━━━┓
 森長継      長政
  ┣━━━┓    |
  長俊 長治──→長治
  ┃       |
  長広─────→長広
          ┃
         政富
          ┣━━━┓
         長誠  政辰
          |   |
          └─→ 長誠
              ┣━━━┓
             長輝  森長義
          ┏━━━┫   ┃
         長吉  成煥  長道
          ┃    |   |
         長克  長道←──┘
          |    |
          └─→ 長克
藤原氏流系図
藤原秀郷千常文脩兼光頼行淵名兼行足利成行家綱有綱佐野基綱国基実綱成綱広綱貞綱資綱師綱関長綱小十郎長盛長門守綱俊
   ┣━━━┓
  俊長  通長
   ∥     |
  通長←―-┘
   ┣━━━┓
  長利  長勝
       ∥
      綱村
       ┃
      綱長
       ┣━━━┓
      長俊  成重
       ┃   ┣━━━┓
      勝俊  成政  長尚
           ┃
     (以降は上記系図と同様)

脚注 編集

注釈 編集

  1. ^ 旧新見藩は現米6510石(表高1万8000石)で現米5万石未満の旧・小藩に該当[5]

出典 編集

参考文献 編集

  • 浅見雅男『華族誕生 名誉と体面の明治』リブロポート、1994年(平成6年)。 
  • 小田部雄次『華族 近代日本貴族の虚像と実像』中央公論新社中公新書1836〉、2006年(平成18年)。ISBN 978-4121018366 
  • 華族大鑑刊行会『華族大鑑』日本図書センター〈日本人物誌叢書7〉、1990年(平成2年)。ISBN 978-4820540342 
  • 新田完三『内閣文庫蔵諸侯年表』東京堂出版、1984年(昭和59年)。