菅野 鋭(すげの とし、1884年 - 1943年12月1日)は、日本牧師柏木聖書学院五教授の一人で、太平洋戦争中に宗教弾圧で獄死する。東京都生まれ。父母は銀座美以教会(日本基督教団銀座教会)員、三谷種吉夫人眞子は実姉。

菅野鋭
生誕 1884年
東京都
死没 1943年12月1日
東京都巣鴨
出身校 柏木聖書学院
職業 牧師神学校教師
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聖書学院の五教授(左から、米田豊、一宮政吉、菅野鋭、小原十三司、車田秋次)

生涯

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1884年東京に生まれる。東洋宣教会聖書学院で学び、1908年(明治41年)4月10日に、東洋宣教会が役員制度を設けた時に、大沢豊助と共に、山形県楯岡市の福音伝道館の牧師に任命される。1911年に中田重治の妻かつ子が死去した時には、学院教会の牧師をしていた。1911年3月9日の中田かつ子の葬儀の際には詩篇90篇を朗読した。

1920年横浜ホーリネス教会の第3代目の牧師になる。1929年(昭和4年)の年会で、小原十三司と共に柏木聖書学院の講師に任命される。

1933年 五教授(車田秋次米田豊、小原十三司、一宮政吉土屋顕一)が中田重治を監督から解任した時に、選挙で委員の一人に選ばれる。

1942年6月26日 第一次一斉検挙の際に逮捕され、拘置所生活を送ったが、1943年12月1日 肺結核の再発により獄中死する。

1996年、獄中の10回にわたる訊問調書が、尾花晃土屋和彦の編集で「殉教」という題で出版された。

人物

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脚注

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  1. ^ 中村敏著「日本における福音派の歴史」、いのちのことば社、2000年,134ページ