スヘルトーヘンボス
スヘルトーヘンボス('s-Hertogenbosch; [ˌsɛrtoːɣə(m)ˈbɔs] ( 音声ファイル))またはデン・ボス(Den Bosch; [dɛm ˈbɔs] ( 音声ファイル)デンボスとも記述される)は、オランダ南部に位置する都市または広域行政区。北ブラバント州の州都。
スヘルトーヘンボス Gemeente 's-Hertogenbosch | |||||
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シンボル: the Marsh Dragon | |||||
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位置 | |||||
スヘルトーヘンボスの位置 | |||||
位置 | |||||
座標 : 北緯51度42分 東経5度19分 / 北緯51.700度 東経5.317度 | |||||
行政 | |||||
国 | オランダ | ||||
州 | 北ブラバント州 | ||||
基礎自治体 | スヘルトーヘンボス | ||||
地理 | |||||
面積 | |||||
基礎自治体域 | 91.26 km2 | ||||
陸上 | 84.45 km2 | ||||
水面 | 6.81 km2 | ||||
人口 | |||||
人口 | (2007年1月1日現在) | ||||
基礎自治体域 | 136,499人 | ||||
人口密度 | 1602人/km2 | ||||
その他 | |||||
等時帯 | 中央ヨーロッパ時間 (UTC+1) | ||||
夏時間 | 中央ヨーロッパ夏時間 (UTC+2) |
ブラバント公アンリ1世の猟場であったことから、's-Hertogenbosch「公爵の森」と名付けられた。ただし、現代のオランダ語の日常会話では Den Bosch の方がよく使われる。
同広域行政区には、近隣の市町村 Bokhoven、Deuteren、Dieskant、Empel、Engelen、Gewande、Hintham、Kruisstraat、Maliskamp、Meerwijk、Orthen、Oud-Empel、ロスマーレンも含まれる。
歴史
編集1185年、ブラバント公アンリ1世により自治を定める勅許状が発布された。ホラント伯、ゲルデルン伯からの侵攻を防ぐため、周囲に石塀を築いた要塞都市として知られており、中世には交易都市(特に羊毛)、芸術都市として繁栄した。
宗教改革以降、カトリック教会の教区となったスヘルトーヘンボスは、八十年戦争にも抵抗を続けたが、1629年にオラニエ公フレデリック・ヘンドリックの軍門に降り、自治権の無いネーデルラント連邦共和国の占領区として扱われた。
1792年、フランス革命軍の侵攻によりフランス帝国の支配下に置かれた後、1815年にネーデルラント連合王国が成立すると、スヘルトーヘンボスは北ブラバント州の州都として定められた。
観光地・観光施設
編集- シント・ヤン教会(聖ヤン教会)
- 旧市役所
- 石塀(要塞)
- 運河ツアー(蘭・英 冬期休業)
- ヒエロニムス・ボス アートセンター(蘭・英)
- 北ブラバント美術館(蘭)
- スヘルトーヘンボス市立美術館(蘭・英)
スポーツ
編集教育機関
編集カーニバル
編集スヘルトーヘンボスで行われているカーニバルがオランダ最古(記録に残る限りで1385年)のものである。
カーニバル期間中、スヘルトーヘンボスは架空の国ウテルドンク("Oeteldonk": 湿地のカエル)と呼ばれ、ウテルドンク国プリンス、アマデイロ25世(2006年-)の統治下に置かれる。農夫が主役であり、他の地域のカーニバルに比べ華美な服装は少ないが、街はウテルドンク国のシンボルカラー(赤、白、黄色)で飾り付けられ、カーニバルを祝う音楽が鳴り止まない。
ウテルドンク
編集ウテルドンク(蘭: Oeteldonk)の名前は、スヘルトーヘンボスの街を囲む湿地帯 (donk) と、その湿地帯に住むカエル (oetel) に由来すると言われている。
歴史
編集スヘルトーヘンボスでのカーニバルが、オランダ最古のものである。記録に残る限りでは、1385年には既にカーニバルの行事が行われており、15世紀、スヘルトーヘンボス出身の宗教画家ヒエロニムス・ボスもカーニバルを題材にした作品を残している。当時のカーニバルは、四旬節の断食を前に踊りと歌で祝う3日間の食事会であった。
カトリック教区であったスヘルトーヘンボスは、1629年にフレデリック・ヘンドリックの軍門に降り、以降カトリックの信仰が禁じられ、カーニバルの実施も禁止された(しかし、市民は秘密裏にカーニバルを祝っていたようである)。
1792年、フランス革命軍の侵攻によって、再びカトリック信仰を取り戻したスヘルトーヘンボスでは、カーニバルの行事が復活した。四旬節を前にした食事会に加え、リエージュから出稼ぎに来ていたガラス職人たちによって、彼らの伝統であった「ストリート・カーニバル」が行われるようになった。
労働者階級を中心にカーニバルは徐々に過激かつ暴力的なものになっていったため、ブルジョワジーらがカーニバルの実施に反対するようになったが、カーニバルを収入源とする民間企業の抵抗が強く、カーニバルが中止されることはなかった。しかし1881年、スヘルトーヘンボスの司教 Monsignor A. Godschalk が、カーニバルの中止をスヘルトーヘンボス市民に求めた。
暴力的なカーニバルに反対する市民グループは1軒のカフェ「Roijaal」に集まり、楽しめるカーニバルを目指し、「カーニバル期間中は、スヘルトーヘンボスの街を、架空の街ウテルドンクとすること」「ウテルドンクの街の住人はすべて、農夫か田舎娘となること」「ウテルドンクの街には(冗談の)市長が必要」という約束ごとを決定する。
1882年、最初の市長としてPeer van den Mugheuvelが任命され、ウテルドンクの伝統を守るため、De Oeteldonksche Clubが結成される。同クラブは、現在までスヘルトーヘンボスでのカーニバルを企画・統率する団体である。
1883年より、ウテルドンク市長に加え、ウテルドンク国のプリンス、アマデイロ氏(H.R.H. Prince Amadeiro Ricosto di Carnavallo, Reksamの騎士、ウテルドンクの君主、湿地帯と砂漠の支配者、……〈称号はまだまだ続く〉)と、架空の行政長官たちが任命されるようになる。
シンボル
編集ウテルドンクのシンボルには、以下のものがある。
- 三色旗:ウテルドンクの国旗。赤、白、黄で構成されている。
- 農夫ニリスの像:カーニバル期間中、街の中心地Marktに立てられる。うるう年には、ヘンドリーンの像が隣に立てられる。
- カエル:湿地帯のマスコット。
外部リンク
編集スヘルトーヘンボスのイベント
編集スヘルトーヘンボスの名物
編集ボッシェ・ボル(Bossche bol): スヘルトーヘンボスにて12世紀からつくられている、チョコレートでコーティングされたシュークリーム。中身は生クリーム。
スヘルトーヘンボス出身・由来の人物
編集- ヒエロニムス・ボス: ルネサンス期の宗教画家。スヘルトーヘンボス出身。『快楽の園』等。
- アーノルド・スコルテン: 元サッカー選手。スヘルトーヘンボス出身
- デジデリウス・エラスムス: 人文学者。幼少期にスヘルトーヘンボスにて教育を受ける。
- クレメンス・ノン・パパ: フランドル楽派の作曲家。スヘルトーヘンボスのマリア修道会に勤務。
- ピエール・ド・ラ=リュー: フランドル楽派の作曲家。スヘルトーヘンボス大聖堂に勤務。
- キキ・ラーマース: 画家。スヘルトーヘンボス王立芸術アカデミー卒業。
- アレックス・アドリアーンセンズ: アートディレクター。スヘルトーヘンボス王立芸術アカデミー卒業
- ベルト・レーリンク: 法学者、裁判官。東京裁判におけるオランダ代表判事。スヘルトーヘンボス出身。