アルグ・テムルモンゴル語: Aruγ Temür中国語: 阿魯輝帖木児、生没年不詳)は、チンギス・カンの子のオゴデイの子孫で、モンゴル帝国の皇族。『元史』などの漢文史料では阿魯輝帖木児と記される。

概要 編集

アルグ・テムルの先祖はオゴデイ・カアンの末子のメリクで、メリク家は代々イルティシュ川流域を遊牧地としていた。メリク家は一時カイドゥ・ウルスの傘下に入っていたものの、カイドゥの死によってカイドゥ・ウルスが瓦解すると大元ウルスに投降し、「陽翟王」の王号を与えられていた。

ウカアト・カアン(順帝トゴン・テムル)の治世の半ば、江南紅巾の乱が勃発すると、カアンは北方モンゴリアに居住する宗王に命じてモンゴリアの兵を率いて江南の叛乱軍を鎮圧させようとした。これを聞いたアルグ・テムルは大元ウルスンの国政が既に行き詰まったことを悟り、数万の軍を動員して他の諸王を脅迫して従え、ウカアト・カアンに対して叛乱を起こした。

アルグ・テムルはカアンに使者を派遣して「祖宗は天下を汝に与えたというのに、汝は何故その太半を失ってしまったのか。国璽qasbuu tamuγa)を我に与えて、我こそをカアンとせよ」と伝えさせた。カアンはこれを聞いても顔色も変えず、知枢密院事の禿堅帖木児にアルグ・テムルを討伐させることを決定した。

禿堅帖木児はモンゴリア南西のチンカイ・バルガスンまで行き、そこでカラチン万人隊を招集した。しかし禿堅帖木児は戦闘の素人であり、軍を率いてアルグ・テムルと対陣する所まではいったものの、戦闘が始まらない内から配下の軍勢が脱走してアルグ・テムル軍の下に逃れ、禿堅帖木児は敗れて単騎で上都に帰らざるをえなくなった。

至元21年(1361年)、ウカアト・カアンは更に知枢密院事ラオジャンに十万の軍とともにアルグ・テムルの討伐に往かせ、またアルグ・テムルの弟のクトゥク・テムルを味方に引き入れて鎮圧軍に従軍させた。このようにして元軍はようやくアルグ・テムル軍を撃ち破ることができた。アルグ・テムルは東方に逃れようと図ったが、その武将の脱驩がアルグ・テムルの行動に気づき、宗王ナンギャらとともにアルグ・テムルを捕らえてウカアト・カアンの下に送り、カアンの命によりアルグ・テムルは処刑された。

ウカアト・カアンはアルグ・テムル討伐の功績によってラオジャンを太傅に、脱驩を遼陽行枢密院事に任じ、またクトゥク・テムルを陽翟王に任じてアルグ・テムルの後を継がせた。またラオジャンには和寧王の称号と嶺北行省丞相知行枢密院事の肩書きを与えて北方で同様の叛乱が起こらないようモンゴリアに駐屯させた。

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メリク王家 編集

脚注 編集

  1. ^ 村岡1992,37-38頁
  2. ^ 『元史』巻206列伝93叛臣: 阿魯輝帖木児、滅里大王之裔也。初、太宗生七子、而滅里位第七。世祖既定天下、乃大封宗親為王、滅里其一也。滅里生脱忽、脱忽生俺都剌、俺都剌生禿満、至大元年、始封陽翟王、賜金印螭紐、俾鎮北藩。禿満伝曲春、曲春伝太平、太平伝帖木児赤、而阿魯輝帖木児襲其封。 会兵起汝・潁、天下皆震動、帝屡詔宗王、以北方兵南討。阿魯輝帖木児知国事已不可為、乃乗間擁衆数万、屯于木児古兀徹之地、而脅宗王以叛。且遣使来言於帝曰「祖宗以天下付汝、汝何故失其太半、尽以国璽授我、我当自為之」。帝聞、神色自若、徐曰「天命有在、汝欲為則為之」。於是降詔開諭、俾其悔罪、阿魯輝帖木児不聴。乃命知枢密院事禿堅帖木児等撃之。行至称海、起哈剌赤万人為軍。其人素不習為兵、而一旦駆之使戦、既陣、兵猶未接、皆脱其号衣、奔阿魯輝帖木児軍中、禿堅帖木児軍遂敗績、単騎還上都。 至正二十一年、更命少保・知枢密院事老章、以兵十万撃之、且俾阿魯輝帖木児之弟忽都帖木児従征軍中、遂大敗其衆。阿魯輝帖木児遂謀東遁。其部将脱驩知其勢窮、乃与宗王嚢加・玉枢虎児吐華擒阿魯輝帖木児送闕下、帝命誅之。於是加老章太傅、脱驩知遼陽行枢密院事、仍以忽都帖木児襲封陽翟王、而宗王嚢加等、悉議加封。尋又詔加封老章和寧王、以嶺北行省丞相知行枢密院事、俾鎮北藩云。

参考文献 編集

  • 杉山正明『モンゴル帝国と大元ウルス』京都大学学術出版会、2004年
  • 松田孝一「オゴデイ諸子ウルスの系譜と継承」 『ペルシア語古写本史料精査によるモンゴル帝国の諸王家に関する総合的研究』、1996年
  • 村岡倫「オゴデイ=ウルスの分立」『東洋史苑』39号、1992年
  • 新元史』巻111列伝8