アル=ファーディル

、ファーティマ朝・アイユーブ朝に仕えたエジプトの官僚で、サラーフッディーン(サラディン)の宰相(ワズィール)

カーディー・アル=ファーディル・アブー・アリー・アブドゥルラヒーム・アル=ラフミー・アル=アスカラーニー(Qādī al-Fādil Abū Alī 'Abd al-Rahīm al-Lakhmī al-Askalānī1135年-1200年)は、ファーティマ朝アイユーブ朝に仕えたエジプト官僚で、サラーフッディーン(サラディン)の宰相ワズィール)。ラカブはムジールッディーン、もしくはムヒーユッディーン[3]。「カーディー・アル=ファーディル」は「博学たるカーディー」の意。

カーディー・アル=ファーディル・アブー・アリー・アブドゥルラヒーム・アル=ラフミー・アル=アスカラーニー
生誕1135年
アスカロン
死没1200年1月25日[1]
カイロ
墓地カラーファ(カイロ郊外)[2]
民族アラブ人
職業法官(カーディー)
肩書きファーティマ朝軍務庁長官、ファーティマ朝宰相秘書、アイユーブ朝文書庁長官など
宗教イスラームスンナ派
子供アル=アシュラフ・バハーウッディーン・アブー・アル=アッバース・アフマド[3]
カーディー・アル=アシュラフ・バハーウッディーン・アブー・アル=マジド・アリー[3]

サラーフッディーンの第一の側近であり[4]、主君より二歳年上で兄のような存在であったともされる[5][6]

生涯編集

ファーティマ朝の書記官編集

生誕地は当時ファーティマ朝の領地であったパレスチナアスカロン[4]。生家であるバイサーニー家(ファーディルの父親がバイサーンの街のカーディーを務めており、それが家名となった)はアラブの名族ラフム族の一員であり、また代々カーディーを輩出していた[3]。彼もその伝統に則りカーディーとなったと思われる。

家庭の事情でエジプトへ出た彼は、当地で父親を亡くした後、父の知り合いを頼ってアレクサンドリアで働く[7]。しばらく後、イブン・ルッズィークが彼に目をつけてアレクサンドリアからカイロに召し出し、秘書に任じた[3]。ファーティマ朝の宰相シャーワルの秘書、シャーワル殺害後はエジプトへ乗り込んでいたシールクーフの秘書を経て、サラーフッディーンの秘書として働くこととなる[4]。サラーフッディーンのファーティマ朝宰相就任時、ファーティマ朝カリフの権力は無きに等しい状態になっていたので、事実上、サラーフッディーンがスルターン、ファーディルが宰相であった。

サラーフッディーンの宰相編集

ファーディルによる1169年3月のサラーフッディーンの宰相就任の際の公式宣言文書の起草をかわぎりに、1171年2月にはファーディルの文書庁長官任命があり、サラーフッディーンとファーディルのエジプト統治がはじまった。ファーディルの文書庁長官任命以降、サラーフッディーンは彼に国政の管理を託し[6]、これによりファーディルは宰相と見なされるに至る。この段階でファーディルは旧ファーティマ朝の省庁から引き継いだ者も含むエジプトの官僚群を従え、全予算の管理と公文書起草の責任を負うことになった[8]

ファーディルはエジプトの財政を預かり、エジプトの復興に力を割いた。サラーフッディーンはシリアとエジプトの統合や対十字軍戦争のために軍を動かしたが、このために軍事費はエジプトの歳入の84%に当たるほどにまで膨らんだ。エジプト復興を担うファーディルが財政を圧迫する軍事費に対して快く思うはずもなく、彼はサラーフッディーンに軍事費が多すぎると不満を漏らしている[9][10]。また、環境が整うまで十字軍との決戦は控えるべきであると進言しており[11]、軍事的には概して慎重な態度を取った。とは言え、これらの相違によってファーディルとサラーフッディーンの関係が損なわれたような記録はない。

サラーフッディーンがシリアにいる間は彼と離れることが多かったファーディルであるが、1193年のサラーフッディーンのダマスカスでの死去の際には隣席しており、主君の最期を看取っている[12]

サラーフッディーン没後の混乱編集

サラーフッディーンの死後、その長男アル=アフダルが後を継いだが、ファーディルはアフダルに見切りをつけエジプトのアル=アジーズのもとへ走った[13]。 アフダルや、サラーフッディーンの弟アル=アーディルを含むシリアのアイユーブ家諸侯の連合と、アジーズの間に対立が持ち上がる。1194年、1195年の二度の衝突の最終局面において、アジーズ側のファーディルとアフダル側のアーディルとの間で話し合いが持たれ、アジーズは前年に確保したイェルサレムをアフダルに割譲し、アーディルがエジプトに居座ることを認めた[14]

1196年、今度はアーディルがアジーズと組み、アフダルをダマスカスから追い出して南シリアの実権を握った[15]。南シリアのアーディルとエジプトのアジーズで安定するかに思えたが、1198年、突如アジーズが落馬事故で死去。アジーズの息子マンスールが後を継ぐが幼年のため、エジプトのアミールたちはアーディルに追放されていたアフダルを招聘する[16]。アフダルはシリア攻撃をもくろみ進軍するが、アーディルに逆侵攻を受け敗走[17]

ファーディルはこの時のアーディルのエジプト進駐と前後して死去、享年65。ムカッタム山のふもとにある共同墓地に廟が建てられ、そこに埋葬された[3](なお、この共同墓地には彼の父も埋葬されている)。この後、エジプトではアフダルが追放されアーディルが即位することとなる。

業績編集

サラーフッディーンがシリアに出征する中でもエジプトに留まり、戦乱によって荒廃したエジプトの復興事業に従事した。なお、サラーフッディーンがシリアにいる間など、ファーディルとサラーフッディーンが離れている時はファーディルと同じくサラーフッディーンの側近であった書記のイマードゥッディーン・アル=イスファハーニーがファーディルの代理を務めている[18][19]

サラーフッディーンはファーディルの忠告にはよく耳を傾けたため、ファーディルの業績とサラーフッディーンの業績とが区別できない場合もある。その上で具体的にファーディルの業績とされるものは次のとおり。

  • サラーフッディーンのファーティマ朝宰相就任時の宣言文書の起草[4]
  • ファーディリーヤ学院をカイロに建設し、ファーティマ朝の研究機関であった旧ダール・アル=ヒクマ所蔵の書物約12万冊のうち10万冊を収蔵[20][21]
  • サラーフッディーン治下で軍務庁長官、総務庁長官などを歴任することになるアスアド・イブン・マンマーティーの取り立て[21]
  • 児童教育施設の建設(これは後にマドラサとなった)[3]

佐藤次高によれば、以下もサラーフッディーンとファーディルの綿密な相談の上実施されたり、ファーディルが深く関わったものであろうという[4]

  • 1176~7年、巡礼者保護のため、巡礼者への課税の廃止および代替財源としてのイクターの設定
  • 1181年、イクターおよび税収の確認調査(軍制を整えるために不可欠であった)

人物・評価編集

文筆に長けており、詩作にも秀でていた。イブン・ハッリカーン『名士列伝』でもかれの能筆ぶりが強調されており、イブン・ハッリカーンは、前述のイマードゥッディーン・アル=イスファハーニーの以下の様なファーディル評を引用している。

「彼は文筆と雄弁、言葉による明快な表現の達人だった。彼の才能は豊かで思考は鋭く、その文体は独自性と美しさで特筆される。もし、いにしえの文筆家たちが彼と同じ時代に生きていたとしても、彼と競いあるいは並ぶことさえ出来る者がいようかというほど彼の能力は素晴らしいものであった」[3]

なお、イブン・ハッリカーン自身は彼を「ファーディルは時代を代表した人物の一人であり、彼以外の人物をしてこの時代が生み出されることはなかっただろう」[3]と評した。 彼の文書・書簡は公私にわたり800通以上が現存しており、当時の重要な史料となっている[5]。詩も今日まで知られており、アフマド・バダウィーとイブラーヒム・アル=イブヤーリーによって1961年にファーディルの文集がカイロで公刊された[22]

イブン・アル=アシールの『完史』におけるファーディル評は以下のとおり。

「彼は当代の宰相として右に出るもののいない人物であった」「尊敬されており敬虔であった。莫大な資金が捕虜の買い戻しのために支払われたが、それは彼によって用立てられた。またスルターンへの伺候で多忙の中ではあったが、多くの巡礼や静修を行った。スルターン・サラーフッディーンは彼を尊敬しており、彼のいうことをよく聞き、またよく報いた」[2]

サラーフッディーン死後の混乱の中でアジーズ陣営とアフダル陣営の和議に駆り出されたが、これはアイユーブ朝国家の宿老として、またサラーフッディーンの盟友として、サラーフッディーン家の人々から敬意を払われていたからだとイブン・アル=アシールは伝えている[23]

身長は低く猫背であったと伝えられ、また病弱でもあり、晩年には痛風を病んでいたようである[24]

脚注編集

  1. ^ Ibn al-Athir vol.3 p.53 訳注による
  2. ^ a b Ibn al-Athir vol.3 p.53
  3. ^ a b c d e f g h i Ibn Khallikan vol.2 pp.111-116
  4. ^ a b c d e 佐藤a pp.101-102
  5. ^ a b Edde pp.4-5
  6. ^ a b 松田 p.14
  7. ^ Ibn Khallikan vol.4 pp.564-565
  8. ^ 松田 p.21
  9. ^ 松田 p.29
  10. ^ 佐藤a pp.170-171
  11. ^ 佐藤a p.155
  12. ^ 佐藤a p.216
  13. ^ 佐藤a p.227
  14. ^ Ibn al-Athir vol.3 p.16 , pp.23-24
  15. ^ Ibn al-Athir vol.3 p.26
  16. ^ Maqrizi pp. 129-30
  17. ^ Ibn al-Athir vol.3 p.50
  18. ^ 佐藤a p.104
  19. ^ Ibn Khallikan vol.3 p.302
  20. ^ 佐藤a pp.135-136 なお、ダール・アル=ヒクマの解体は佐藤によればファーティマ朝のイデオロギーの象徴の破壊が目的とされる
  21. ^ a b 佐藤b p.96
  22. ^ Al-Fādil, Dīwān al-Qādī al-Fādil, ed. A. Badawī and I. Ibyārī(Cairo, 1961)
  23. ^ Ibn al-Athir vol.3 p.24
  24. ^ Edde pp.132-133

参考文献編集

  • 佐藤次高
    • (a)『イスラームの「英雄」サラディン』講談社学術文庫、2011
    • (b)『マムルーク』東京大学出版会、1991
  • 松田俊道『サラディン』山川出版社、2015
  • Eddé, Anne-Marie, Jane Marie Todd訳 (2011). SALADIN.
  • Maqrizi, R.J.C.Broadhurst訳 (1980). A History of the Ayyubid Sultans of Egypt.
  • Ibn al-Athir, D.S.Richards訳 (2005-2008)The Chronicle of Ibn al-Athir for the Crusading Period from al-Kamil fi'l-Ta'rikh. 3vols.
  • Ibn Khallikān, M.G.de Slane訳 (1843-1871)Ibn Khallikan's Biographical Dictionary. 4vols.