アンドリュー・ウッド・オブ・ラーゴ

サーアンドリュー・ウッド・オブ・ラーゴ(Sir Andrew Wood of Largo, ? - 1515年)は、スコットランド人船長リース英語版で商人をしていたが、スコットランド海軍英語版に加わり、スコットランド海軍卿にまで登りつめた。1495年ころにはナイトに叙された。1488年、反乱軍から逃れるために、ジェームズ3世フォース湾を渡ったが、これを運んだのはウッドだった可能性がある。

アンドリュー・ウッド・オブ・ラーゴ
Andrew Wood of Largo
サー・アンドリューは、2隻の艦船「The yellow Carvel」と「The Flower」で、イングランドの4隻を破った。
生誕スコットランド王国の旗 スコットランド王国
死没1515年
スコットランド王国の旗 スコットランド王国
所属組織スコットランド王国の旗 スコットランド王国
部門 スコットランド海軍
軍歴1488年 - 1515年
最終階級艦長

ウッドは、1497年に、ダンバー城英語版の再建工事の監督にあたった。

息子のひとり、ジョン・ウッド英語版は、1570年に暗殺された。アンドリュー・ウッドは、ナイジェル・トランター英語版歴史小説The Admiral』では、主人公として取り上げられた。

海軍における軍歴 編集

ウッドの軍歴は、ジェームズ3世の治世(1460年-1488年)に私掠船から始まり、ジェームズ4世の治世(1488年-1513年)に大きな出世を遂げた。

1489年の時点で、ウッドは2隻の戦艦「Flower」と「Yellow Carvel」を所有しており、ダンバー英語版近郊の沖合で、イングランド王国の艦船5隻と戦って、これらを拿捕した。これに対してイングランド側は、翌年、スティーヴン・ブル (Stephen Bull) を指揮官に、より大規模な遠征隊を送り込み、フォース湾でウッドの艦船を攻撃した。この海戦は夜間を挟んで二日間に及び、エディンバラの群衆もこれを眺めていた。艦船の数も大砲の数も劣っていたにもかかわらず、ウッズは最終的に勝利を収め、イングランド側の艦船は拿捕された[1]。この海戦の後、ジェームズ4世はウッズをナイトに叙し、捕虜としたイングランド側の水兵の一部を徴用することを許したので、水兵たちは後にラーゴの築城工事に従事させられた[2]

サー・アンドリューは、ジェームズ4世が建造させた、建造当時キリスト教世界最大の艦船であったキャラック船グレート・マイケル英語版」の、初代艦長であった。

脚注 編集

  1. ^ Sadler, p. 411
  2. ^ Tranter, p. 119

参考文献 編集

  • Sadler, John; Border Fury: England and Scotland at War 1296-1568, UK: Pearson Education Ltd, 2005 ISBN 1-4058-4022-6
  • Tranter, Nigel; The Story of Scotland,, Glasgow: Neil Wilson Publishing, 1993 ISBN 1-897784-07-4 (first published 1987 by Routledge & Keagan Paul Ltd)
  • Clan Wood Society