アンナ・フォン・デア・プファルツ
アンナ・フォン・デア・プファルツ(Anna von der Pfalz, 1329年9月26日 - 1353年2月2日)は、ローマ皇帝兼ボヘミア王カール4世の2度目の后。チェコ語名はアンナ・ファルツカー(Anna Falcká)。父はライン宮中伯ルドルフ2世、母はケルンテン公オットー3世の娘アンナ。
アンナ・フォン・デア・プファルツ アンナ・ファルツカー Anna von der Pfalz Anna Falcká | |
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ローマ王妃 ボヘミア王妃 | |
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在位 | 1349年6月17日 - 1353年2月2日 |
戴冠式 |
ローマ王妃:1349年7月26日 アーヘン ボヘミア王妃:1349年11月1日 プラハ |
出生 |
1329年9月26日 |
死去 |
1353年2月2日(23歳没) ボヘミア王国、プラハ |
埋葬 | ボヘミア王国、聖ヴィート大聖堂 |
結婚 | 1349年3月11日 バッハラッハ |
配偶者 | ローマ皇帝・ボヘミア王カール4世 |
子女 | ヴェンツェル |
家名 | ヴィッテルスバッハ家 |
父親 | ライン宮中伯ルドルフ2世 |
母親 | アンナ・フォン・ケルンテン |
生涯
編集1349年、ライン川畔のバカラックという町でカール4世と結婚した。この結婚にはヴィッテルスバッハ家と対立関係にあった教皇クレメンス6世が反対していたが、カールはそれを押し切って結婚し、そのために教皇が1352年に死去するまで教皇とカールとの関係は冷却したままであったという[1]。同年にアーヘンでローマ王妃、ボヘミア王妃として戴冠した。翌1350年1月27日に息子ヴェンツェルを産んだが、ヴェンツェルは1351年12月30日に死去し、アンナも1353年2月2日に23歳で死去した。
同年5月27日、カール4世はシレジアのシフィドニツァ公ヘンリク2世の娘でヴェンツェルと婚約していたアンナと3度目の結婚をした。
脚注
編集- ^ 鈴本、p. 64
参考文献
編集- 鈴本達哉 『ルクセンブルク家の皇帝たち』 近代文芸社、1997年