アンナ・マリア・フォン・プファルツ=ノイブルク
アンナ・マリア・フォン・プファルツ=ノイブルク(ドイツ語:Anna Maria von Pfalz-Neuburg, 1575年8月18日 - 1643年2月11日)は、
アンナ・マリア・フォン・プファルツ=ノイブルク Anna Maria von Pfalz-Neuburg | |
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出生 |
1575年8月18日 神聖ローマ帝国 プファルツ=ノイブルク公領、ノイブルク・アン・デア・ドナウ |
死去 |
1643年2月11日(67歳没) 神聖ローマ帝国 ザクセン=アルテンブルク公領、ドルンブルク |
埋葬 |
神聖ローマ帝国 ザクセン=アルテンブルク公領、アルテンブルク、兄弟教会 |
配偶者 | ザクセン=ヴァイマル公フリードリヒ・ヴィルヘルム1世 |
子女 | 本文参照 |
家名 | プファルツ=ノイブルク家 |
父親 | プファルツ=ノイブルク公フィリップ・ルートヴィヒ |
母親 | アンナ・フォン・ユーリヒ=クレーフェ=ベルク |
生涯
編集アンナ・マリアはプファルツ=ノイブルク公フィリップ・ルートヴィヒと、ユーリヒ=クレーフェ=ベルク公ヴィルヘルム5世の娘アンナとの間の長女である。
1591年9月9日にノイブルクにおいてザクセン=ヴァイマル公フリードリヒ・ヴィルヘルム1世と結婚した。結婚の際には夫妻の肖像を刻んだ金貨が鋳造された[1]。1602年に夫フリードリヒ・ヴィルヘルム1世が死去し、1604年にアンナ・マリアは子供たちと共にヴァイマルからアルテンブルクに移り、アルテンブルクは独立した公国としてヴァイマルから分離された。未亡人となったアンナ・マリアは「深い憂鬱」に陥ったと言われ、1612年以来、寡婦財産として与えられていたドルンブルク・アン・デア・ザーレの町で子供たちと離れて暮らした。1631年、三十年戦争においてティリー将軍の下でクロアチア人が居城を攻撃したとき、アンナ・マリアは攻撃に抵抗したが、城は略奪されアンナ・マリアは頬を負傷した。城に駆けつけた市民の助けにより攻撃は撃退され、アンナ・マリアは感謝の気持ちを込めて教会に台付き杯を寄贈した。
アンナ・マリアは1643年に死去し、アルテンブルクの兄弟教会の王室の地下室に埋葬された。現在、墓所は城壁で囲まれている[2]。
子女
編集脚注
編集参考文献
編集- Luise Hallof, Klaus Hallof: Die Inschriften des Landkreises Jena, Akademie Verlag, 1995, p. 159 f.
- Verein für Thüringische Geschichte und Altertumskunde, Jena: Zeitschrift des Vereins für Thüringische Geschichte und Altertumskunde, Band 6–7, G. Fischer., 1865, p. 248 f.
- Johann Samuel Ersch: Allgemeine encyclopädie der wissenschaften und künste, Band 50, J. f. Gleditsch, 1849, p. 81