アン・メイクメール語: ក្សត្រីអង្គម៉ី / Ang Mey(公式名はSamdech Preah Mahā Rājinī Ang Mey), 1815年 - 1874年12月)は、カンボジア女王(在位:1835年 - 1840年)。メイの治世はカンボジアの暗黒時代英語版と被っている。名君と呼ばれたアン・ドゥオンは自身の叔父にあたる。同国唯一の女王である。

アン・メイ
ក្សត្រីអង្គម៉ី
カンボジア女王
アン・メイ(写真中央)
在位 1835年 - 1840年

全名 ក្សត្រីអង្គម៉ី
アン・メイ
出生 1815年????
カンボジア王国
死去 1874年12月??
カンボジア王国ウドン
父親 アン・チャン2世英語版
母親 ニーク・モナング・クラチャップ
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生涯

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国王アン・チャン2世英語版と2番目の妃ニーク・モナング・クラチャップの娘として誕生した。1834年にアン・チャン2世は崩御するが、息子はおらず、メイを含めた4人の娘しかいなかった。アン・ドゥオンは王位継承を主張していたが、阮朝がドゥオンの即位を許さなかった。明命帝による軍事遠征によって、カンボジア王国は疲弊していた。阮朝明命帝チュオン・ミン・ザンベトナム語版将軍はメイをカンボジア女王に推載させた。阮王朝はメイを含めた王族、平民の服装や髪形を初め、生活習慣が全てベトナム風に改められるように命じた。国民は阮朝の傀儡となっているメイを支持せず、シャムにアン・ドゥオンを国王に推載させるように求めていた[1]

明命帝はメイの位を女王から王女に降格させ、メイを嘉定(ザーディン、現在のホーチミン市)へ投獄させた。その際に姉妹を含めた王族達もベトナムに投獄されている[2]。シャムと阮朝のカンボジアでの覇権を巡り、第一次泰越戦争英語版が繰り広げられた。1845年に膠着状態となると、メイは釈放され、ウドンへ帰郷した。1848年にアン・ドゥオンが王へ即位したが、アン・メイは女王に即位することはなかった。その後、ドゥオン亡き後も女王になることはなく、一般人男性と結婚し、2人の娘を儲けた[3]

1874年に夫と共に事故死した。

脚注

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  1. ^ Ayutthaya, Capital of a Kingdom, Part 19”. www.Chiangmai-Chiangrai.com. 2017年8月6日時点のオリジナルよりアーカイブ。2017年8月6日閲覧。
  2. ^ Siam, Cambodia, and Laos 1800–1950 by Sanderson Beck”. www.san.Beck.org. 2017年8月6日閲覧。
  3. ^ Women in power 1800–40”. www.Guide2WomenLeaders.com. 2017年8月6日閲覧。
先代
アン・チャン2世英語版
  カンボジア王国女王
1834年 - 1840年
次代
アン・ドゥオン