アーサー・テューダー

アーサー・テューダーArthur Tudor, 1486年9月19日/20日1502年4月2日[1])は、イングランドヘンリー7世と王妃エリザベスの第1王子でヘンリー8世の兄。プリンス・オブ・ウェールズに立てられたが、国王即位を果たせずに死去した。

アーサー・テューダー
Arthur Tudor
プリンス・オブ・ウェールズ
Anglo-Flemish School, Arthur, Prince of Wales (Granard portrait) -002.jpg
アーサーの唯一現存する肖像画。王室コレクションの一部として記載されながら、長い間行方不明だった。
在位 1489年 - 1502年

出生 (1486-09-20) 1486年9月20日
イングランド王国の旗 イングランド王国ウィンチェスター、聖スウィザン修道院
死去 (1502-04-02) 1502年4月2日(15歳没)
イングランド王国の旗 イングランド王国シュロップシャーラドロー城
埋葬 1502年4月25日 
イングランド王国の旗 イングランド王国ウスター大聖堂
配偶者 キャサリン・オブ・アラゴン
家名 テューダー家
父親 イングランド王ヘンリー7世
母親 エリザベス・オブ・ヨーク
宗教 カトリック教会
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生涯編集

生い立ち編集

ヘンリー・テューダーは、ウェールズの王族の末裔であり、自身が少年期までウェールズで育ったことから、そのルーツを強く意識していた[2]。ランカスター家唯一の男子となった後は、ブルターニュ公国への亡命を経て、反リチャード3世であるバッキンガム公ヘンリー・スタッフォードの要請によりイングランドへ上陸、するも失敗[3]フランス王国の支援を経て、再度にイングランドに上陸して勢力を拡大し、最終的に1485年8月22日のボズワースの戦いで勝利して、テューダー朝を開闢した。

さらにヘンリーの母マーガレットエドワード4世エリザベスの画策により、エドワード4世の王女エリザベスの結婚したことで、長引く薔薇戦争の内乱は終止符を打たれた。翌1486年、第1子アーサーが誕生すると、王太子ウェールズ公)として、将来を期待された。

15世紀後半には、トマス・マロリーが、今日良く知られる“アーサー王物語”の原型となる『アーサー王の死』を出版し、広く知られるようになった。アーサー王は、諸説あるが、その史実における原型はウェールズにゆかりがあるとされる(『マビノギオン』等を参照)[4]。ヘンリー7世はウェールズの人々の期待を自覚し、嫡男にアーサーと命名した[5][6]

カタリナ王女との結婚、早世編集

 
16世紀初頭のタペストリーに描かれた、アーサーとキャサリン夫妻の宮廷

1489年3月、アーサーはアラゴンフェルナンド2世カスティーリャ女王イサベル1世の末娘カタリーナ・デ・アラゴン(英語名:キャサリン・オブ・アラゴン)と婚約した。アーサーは2歳、キャサリンはまだ0歳だった。

しかしイングランド側がスペイン(カスティーリャ=アラゴン)側に、20万クラウンという破格な額の持参金を請求したことと、国際情勢のために、婚約は何度も破綻の危機に面した。1501年10月、ようやくキャサリンはプリマス港に上陸、11月12日にロンドンに到着した。

ヘンリー7世は、パジェントリ(見世物)で、アーサー王伝説聖カタリナにちなんで2人を讃える演目を披露する[7]等、アーサーとキャサリン夫妻の王位継承の正統性を印象付けるための配慮をした[8]。11月14日にセント・ポール大聖堂 (Old St Paul's Cathedralで挙式した[9]が、結婚を「完成」させたか否か(=肉体関係を持ったか否か)は重視されなかった[10]

同年12月、アーサーはキャサリンを連れてウェールズラドロー城へ移った。しかしアーサーは生来病弱な体質で、翌1502年に重い感冒にかかり、4月2日に高熱のため15歳で没した。

没後の論争編集

残されたキャサリンは、アーサーの弟である第2王子ヘンリー(後のヘンリー8世)と婚約し、ヘンリーの即位により王妃となった。しかし度重なる流産や死産の末、男児に恵まれず、ヘンリー8世が後継者を求めて王妃との離婚を希望した際、キャサリン王妃の最初の結婚が「成立」していたか否か(=ヘンリーとの再婚がレビ記に反するか否か[注釈 1])が争点となった。

1528年、ローマ教皇クレメンス7世はイングランドでの教会裁判を許可した際、キャサリン王妃は教皇特使ロレンツォ・カンペッジョ英語版に対し、アーサー王太子と同衾したのは7夜のみで、処女であったことを告解した[12]。しかしヘンリー8世側は、アーサーとキャサリンの結婚が成立していたと結論付け、1533年5月23日に婚姻の無効を宣言して、キャサリンから王妃の地位を剥奪した[13]

アーサーの早世は、キャサリンの再婚・離婚問題からイングランド国教会創設の遠因となった。

脚注編集

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注釈編集

  1. ^ これは、旧約聖書の『レビ記』で兄弟の妻との結婚を禁じていることによる。ただし『申命記』25章5節では、兄弟が子をなさずに死亡した場合は『レビ記』の規定を無視できるとされていた[11]

出典編集

  1. ^ Arthur Tudor, Prince of Wales English Monarchs - History of the kings and Queens of England
  2. ^ 桜井 2017 p.220-221
  3. ^ 桜井 2017 p.221-222
  4. ^ 桜井 2017 p.53-54
  5. ^ 桜井 2017 p.239-240
  6. ^ 石井 1993 p.13
  7. ^ 石井 1993 p.64-71
  8. ^ 石井 1993 p.62
  9. ^ 石井 1993 p.72-74
  10. ^ 石井 1993 p.76-77
  11. ^ 石井 1993 .p.440
  12. ^ 石井 1993 .p.499-500
  13. ^ 石井 1993 .p.566-567

参考文献編集

  • 石井美樹子『薔薇の冠 イギリス王妃キャサリンの生涯』朝日新聞社、1993年10月。ISBN 978-4022566652
  • 桜井俊彰『物語 ウェールズ抗戦史 ケルトの民とアーサー王伝説集英社集英社新書〉、2017年10月。ISBN 978-4087210040
  • 大野真弓 『新版英国史』 山川出版社 1984年 ISBN 4634410109
  • 小西章子 『スペイン女王イサベル』 鎌倉書房 1980年
  • 森護 『英国王妃物語』 三省堂 1992年 ISBN 4385433259
  • Alison Weir, Britain's Royal Families, Vintage, 2008.

関連項目編集